このイザヤ書の聖句は、神様が定められた「安息日」をどのように過ごすべきか、それがいかに幸いかを教えてくれる御言です。安息日は「神様中心」の一日とすること。丸一日を、日常や自分中心ではなく神様に捧げることの祝福が示されています。「安息日を覚えて、これを聖とせよ。」との教えは、十戒の第四戒です。十戒の第一戒から四戒までは「神様への愛」が教えられ、神様への愛は、礼拝の形において示されます。第四戒は「礼拝の時」についての教えということになります。
安息日について、ウェストミンスター小教理問答では、第57問から第62問まで、六つの問答を費やして説明しています。
第57問は「第四戒とは」安息日を覚え、聖別する事。58問は「第四戒が求める事」は主が定めた時、七日の内の一日を聖別すること。59問は「安息日はいつか」世の初めからキリストの復活までは七日目、キリストの復活以降は週の始め(日曜)とされた。60問は「安息日をどう過ごすか」神様中心、礼拝中心。例外事項を除き、この世から聖別する。61問は「禁じられること」は、この世優先、怠惰、娯楽等。62問は「何故か」神の公正な(六日を私たちに与えられる)定めゆえ。神ご自身の模範に倣うため(神が安息された)、主による祝福と招きのゆえ、であることが教えられます。
安息日の定めは、十戒として岩に記されモーセに与えられました。しかしその起源、存在は世の初め。世界の創造の時に遡ります(創世記2章1~2節)。「人類が創造されて最初に迎えた朝は安息日であった」と、春名寿章先生は表現されています。まことに感慨深い指摘であると思います。実際、モーセ以前のノアの洪水の時、ノアは七日毎に鳩を飛ばしています。十戒が与えられる前、エジプトから救い出された民が荒野で飢えて、天からマナを与えられた時も、六日間のみ与えられ、六日目には二日分を集めることが許されました。他の日に二日分を集めるとマナは腐りました。一週間の生活と安息日の定めは、主なる神様が備え給うた自然の法則でもあり、愛する民への憐れみに満ちた、主との交わりを保つ聖い生活への招きと導きでした。
また、安息日を「覚える」理由として、出エジプト記では「神の創造の御業と神の安息」ゆえとし、申命記では「エジプトで奴隷であった者を主なる神が強い手と伸ばした腕をもって救い出して下さった」ゆえとしています。
つまり、主なる神の御業、救の御業の進展と実現を感謝し、忘れないために、覚えよ、と言われています。そのため、律法と預言を全て成就されたイエス・キリストが、救いの御業を完成させて下さってからは、キリストの復活の日が安息日とされました。
「安息日を聖とせよ」とのご命令は、通常の日なら許される働きも控え、聖く休み、主との交わりの内に過ごすこと。これは、ただの義務ではなく、神の恵みであり憐れみです。主の下への一日の招きは、常にキリスト者を主から切り離そうと企む、サタンからの保護の宣言でもあります。
さらに憐れみ深い主は、この世の弱き者のために、例外も示して下さいました。やむを得ない働き、慈善の働きは認めて下さっています(マタイの福音書12章)。週の内のただ一日。安息日に込められた、主の恵みを覚えましょう。それにより、私たちの信仰生活が一層豊かに導かれますよう、お祈りいたします。