聖霊に満たされて
15そこで、あなたがたの歩きかたによく注意して、賢くない者のようにではなく、賢い者のように歩き、16今の時を生かして用いなさい。今は悪い時代なのである。17:だから、愚かな者にならないで、主の御旨がなんであるかを悟りなさい。18:酒に酔ってはいけない。それは乱行のもとである。むしろ御霊に満たされて、19:詩とさんびと霊の歌とをもって語り合い、主にむかって心からさんびの歌をうたいなさい。20:そしてすべてのことにつき、いつも、わたしたちの主イエス・キリストの御名によって、父なる神に感謝し、21:キリストに対する恐れの心をもって、互に仕え合うべきである。エペソ人への手紙 5章 15節から21節
「17:だから、愚かな者にならないで、主の御旨がなんであるかを悟りなさい。18:酒に酔ってはいけない。それは乱行のもとである。むしろ御霊に満たされて、19:詩とさんびと霊の歌とをもって語り合い、主にむかって心からさんびの歌をうたいなさい。」
エペソ人への手紙、5章17節から19節の御言葉でございます。本日は、御霊に満たされる、というクリスチャンに与えられた、恵みの生活について、導かれたいと願っています。
まず、パウロはここまで、初期の教会の中に誤った教えが入り込んだ状況。この世の不品行や、みだらな生活、むさぼりや偶像礼拝に流されたりして、混乱と不安の中にあった教会の人々に対して、主にある一致ということを諭してきました。
永遠の内に救いをご計画下さった父なる神様。そして、実際その後計画とおりに。それは、聖書に予言されていたとおりということですが、天からこの地に、私たちのところに来てくださって、それを成して下さった御子イエス・キリスト。更にキリストは甦らされ、天から聖霊を私たちに贈って下っている。そのまことに測りがたい、大きくて深い愛と慈しみの中に、共に招き入れられている者として。私たちは、父と子と御霊により、唯一の救い主イエスキリストを信じる、一つの信仰を与えられ、同じ一つの御霊により、キリストを頭とする、一つの体の一部にされている。同じ幹に繋がる、一本一本の枝であると教えていました。
アダム以来の罪によって、神様に背を向け、この世の闇に内に、永遠の滅びに落ちていくべき者を、全く聖い、主ご自身が闇の中へ。穢れと、不品行と、不誠実、暴虐に満ちた地上へと降りて来て下さって、ご自身に与えられた子羊を、罪の支配から救い上げて下さった。それが、わたしたち全てのキリストの民だという、真理でありました。
そのような、神の愛と恵みを、目の前に明らかにされて、それを賜ったものが、今更、再び闇と背きの道へ戻っていってはならない。そのために、もう一度神の愛を思い起こしなさい。キリストの愛を思い出しなさい。キリストは御霊によって、常に私たちと共にいて下さることを約束して下さったではないか。キリストと共にあると言うことは、どこにいても、いつでも光と共にある、光の内に置かれているということだ。その恵みと祝福を、もう一回、しっかり思い起こそう、キリストにあって私たちは、この世に闇の中で光のうちに歩むことができるのだという、慰め、導き、励ましの言葉でありました。
とは言いましても、救われて、光の子とされたと言っても、それは主の完全な一方的恩寵であって、それ故に確実で確かなのでありますが、私たち自身は罪と欠けを抱えたまま、歩んでいく弱いものであります。サタンが働くこの世の中で、様々な策略や誘惑にもてあそばれないために、パウロは主が命じられた、命じられたと言うことはすなわち備えて下さった手段を教えました。それは結局きわめて簡単なただ一つのことでした。キリストを見よ、キリストに聞け、キリストを学べと言うことに集約されます。私たちにとって、それは聖書。誤りなき神のみ言葉なる聖書に聞くということであります。キリストを表し、証している、救いのみ言葉。信仰と生活の唯一の規準であります。
パウロは、4章の後半から、5章の6節までで、その生活の規準を、具体的に教えてきました。その内容は、イエス様が教えられたことであり、解き明かされた神の律法。十戒の教えでした。5章の7節から21節までは、一旦まとめに入っていると言えます。先週、イエス様に繋がれて、その光の中を歩む、その生活の中に、実が結ばれると言われていました。その実は、善意と、正義と、真実からなる実と言うことでした。
これには前振りがあって、4章の24節(305頁)で、「真の義と聖とをそなえた神にかたどって造られた新しき人を着るべき」と語っていました。25節では「真実を語りなさい」と教えています。どちらも同じ単語が使われています。そこで実際に勧められたことは、聖潔について、また善なること、正しい行いを示す、第七戒から第九戒の教えになります。そして、これらの教えを全て完全に成し遂げ、成就して下さり、そのうえで私たち、出来ない者のために、十字架で血を流して下さった方が御子イエス様ですから、そのイエス様を遣わしてくださった神の愛を知って、イエスに倣えと。なし得ないけれども、その後につき従おうとする歩みのうちに、きよめられて、イエス様の光、聖、義、善なる光が、私たちを通して。私たちの不足しているところ、弱いところ、不十分なところを用いて下さって、世を照らす光をもたらして下さるという、主の召しと祝福のお約束であります。
本日の御言葉をお読みいたします。5章の15節16節。
「15そこで、あなたがたの歩きかたによく注意して、賢くない者のようにではなく、賢い者のように歩き、16今の時を生かして用いなさい。今は悪い時代なのである。」
ここでのパウロの言葉は日本語では「よく注意して、用いなさい」となっていますが、原文では、まず、「注意しなさい」という言葉から始まっています。命令形は「注意する」と言う言葉と「歩く」と言う単語にかかっています。「注意するは」よく考慮すると言う意味でもあります。注意して歩かないと、この世にの濁流に流されてしまう、ということです。すでに神様の喜ばれること、その教えをイエス様から与えられているのだから、よく考えて、そのみ教えに照らし合わせながら、歩くようにしなさいと言う勧めです。
なぜなら、16節に「今は悪い時代なのである」と言われています。この悪いは、単に良いか悪いかと言うことを示す言葉ではなくて、もっと強い悪さを示します。「邪悪だ」とか腐っていると言う意味で。神様に逆らうことを意味しています。「時代」と言葉はもともと「日々」の意味です。ですから、確かにパウロの手紙が書かれた時代、またその後に続く時代において、教会への迫害は激しく、殉教した使徒や信徒も多くでました。
しかし、神様に逆らう日々が続いている、と言うことにおいては、今現在も同じであります。やがて、来るべき日にイエス様が再臨されるまでは、この世は神に逆らい続ける世界です。私たちは、そこに置かれていることを覚えたいと思います。特に、わが国においては、キリスト教の伝道。真の神を神としない、知らないと言うことにおいては、世界でも有数の国であることを、知っておきたいと思います。
16節では「今の時を生かして」と言われていますが、これは直訳しますと「好機」つまり良い機会、チャンスを「買い戻す」という意味です。時が良くても悪くても、と言われるように、悪い日々の中でも与えられる好機を、自分のものとして、主のみ教えをわきまえて行動しなさい。と言うことを命じています。できるかできないかでなく、その思いを主が用いられます。注意する、考え吟味するということ。それは御言葉に聞いて、御言葉によるということです。
17節から19節をお読みいたします。
「17:だから、愚かな者にならないで、主の御旨がなんであるかを悟りなさい。18:酒に酔ってはいけない。それは乱行のもとである。むしろ御霊に満たされて、19:詩とさんびと霊の歌とをもって語り合い、主にむかって心からさんびの歌をうたいなさい。」
「主の御旨が何であるかを悟りなさい」ということは、10節でも言われました。10節では「主に喜ばれることは、何であるかをわきまえ知りなさい」とされています。17節の「御旨」という言葉は、意志と意向という意味ですが、望むこと、好むこと、喜ぶことと言う意味も持っています。ですから、ほぼ同じ勧めが繰り返されています。神の御旨を知るように、17節では更に、ただ知ると言うより、深い意味の「悟りなさい」という風に言われています。この辺の言葉は、仏教用語から引用されてきているので、なんとも微妙ではあります。ただ、仏教の悟りは、真の知恵を得る。知恵に至ると言う意味です。原則それは自力ということになります。
ここで、主の御旨を悟りなさいと言われることは、やはり心の目が開かれて、魂の深いところで感じて、刻まれると言う、御霊のお働きに頼る、望むことになります。事実、御霊によらなければ、誰もイエス様を主と呼ぶことが適わないのでありますから、悟れと言われて私たちが為すべきことは、御言葉に聞いて、御霊の導きを祈る、ということであります。ここに、主が私たちのために備えて下さった、恵みの手段が示されています。御霊がなさって下さるのですから、それは御旨であって、確実で、安心して、お委ねすることができるのであります。
そこから、18節の「御霊満たされて、」という教えに繋がっていきます。18節では、御霊に満たされる生活に対比させるために、その前に具体的な指導として、「愚かな者」「賢くない」ことが示されます。それは「酒に酔ってはいけない」と言われています。葡萄酒と言う言葉ですが、当時はお酒と言えば葡萄酒のことですから、お酒一般をさしてます。ここでは「お酒を飲むな」ではなくて、「酔ってはいけない」ですね。日本では酒は百薬の長と言われたり、薬用酒というのもありますし、なにより、主の晩餐。聖餐式は葡萄酒で行われます。要は、お酒に支配されるな、ということです。箴言の23章20節で、「酒にふけり、肉をたしなむ者と交わってはならない」と書かれています。肉をたしなむと言う言葉は、貪り食うと言う意味ですから、上品に適度に楽しむと言うたしなみのことではないです。お酒にふけり肉を貪りくうという、欲望に身を任せた生活。お酒に酔って、判断が鈍らされ、正体が無くなってしまうような飲み方、肉の欲による支配のもとに身を置かないように、との教えであります。
私自身は、学生時代に、ちょうど為替やら関税などが変わって、海外からどんどん御酒が入ってくるようになって、友人と様々なお酒を試したりしていました。お酒に強くないのに、やはり、友人たちと一緒になるとお酒が進みますから、しょっちゅう記憶をなくしていた、と言う記憶があります。恥ずかしいことなのですけれど。また、社会人になったら、家ではほとんど飲まないのですが、上司に付き合わないといけないし、少し年を取ってきたら、今度は若い社員の財布代わりにされますから、送別会や歓迎会やと言うたびに、何軒も梯子して、家族に迷惑をかける、といったことがよくありました。今の時代は、そういうこともなくなってきているようですが、コロナ対策でお酒の提供が禁止されると、経営が成り立たなくなるお店がたくさんあるということは、やはりそれなりにお酒がたくさん供給されていると言うことなのだと思います。私はしばらく、ほとんどお酒を飲んでないので、冷蔵庫の中に、賞味期限が2年くらい切れたベルギービールが入っています。余談でしたが。
注意すべきことは、私たちが何にみを任せるか、ということであります。何に支配されるか。お酒に満たされるのではなく、御霊に満たされることを望もう、ということです。「御霊に満たされて」と書かれる通り、受動態です。パウロは私たちに命じていますが、実は御霊が私たちのうちを、満たしていて下さる、ということです。そしてそれは、やはり御言葉によると言うことであります。
「むしろ御霊に満たされて、19:詩とさんびと霊の歌とをもって語り合い、主にむかって心からさんびの歌をうたいなさい。」
詩とさんびと霊の歌をもって語り合い、と言われているのは、聖書の御言葉を読んで、この御言葉について、ともに話し合い、語り合うということです。もっと言えば、おしゃべりすると言う意味もあります。御言葉について話し、こころから主を讃美する交わり。その中に、御霊が満ちて下さるということであります。その基本は礼拝にあります。礼拝の中に、主に祝福される、主が喜ばれる生活の基本が示されていると言うことであります。私たちは、この主の礼拝に与る幸いを覚え、感謝せざるを得ません。主が全て備えていて下さるのであります。
ですから、20節から21節。
「20:そしてすべてのことにつき、いつも、わたしたちの主イエス・キリストの御名によって、父なる神に感謝し、21:キリストに対する恐れの心をもって、互に仕え合うべきである。」
全てのことについて。賜っているもの。命も健康も、家族や仕事も、良いことすべて。あるいは、ひととき、自分の望み通りでなく、悪いことのように思えることもありますが、全てが父なる神が一人一人に備えて、与えて導かれるものであります。私たちの主,イエスキリストにあって、万事を益としてくださる主。この「益」は単数です。すべての事をご節理のうちに働かせて、私たちに賜る益は、すなわち、父なる神の子として下さるとうことであります。御子と同じく扱って下さる。御霊に満たされる信仰生活は、イエス様に名によって捧げられる礼拝生活です。真の神への礼拝を満たして下さる御霊により、主が仕えて下さったように、主が愛される兄弟姉妹に、互いに仕えあう交わりが導かれます。どうぞ、この一時も御霊がご臨在下さり、主の御手のうちに祝付されますよういのります。