全ての善い贈り物
9:低い身分の兄弟は、自分が高くされたことを喜びなさい。10:また、富んでいる者は、自分が低くされたことを喜ぶがよい。富んでいる者は、草花のように過ぎ去るからである。11:たとえば、太陽が上って熱風をおくると、草を枯らす。そしてその花は落ち、その美しい姿は消えうせてしまう。それと同じように、富んでいる者も、その一生の旅なかばで没落するであろう。
12:試錬を耐え忍ぶ人は、さいわいである。それを忍びとおしたなら、神を愛する者たちに約束されたいのちの冠を受けるであろう。13:だれでも誘惑に会う場合、「この誘惑は、神からきたものだ」と言ってはならない。神は悪の誘惑に陥るようなかたではなく、また自ら進んで人を誘惑することもなさらない。14:人が誘惑に陥るのは、それぞれ、欲に引かれ、さそわれるからである。15:欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生み出す。
16:愛する兄弟たちよ。思い違いをしてはいけない。17:あらゆる良い贈り物、あらゆる完全な賜物は、上から、光の父から下って来る。父には、変化とか回転の影とかいうものはない。18:父は、わたしたちを、いわば被造物の初穂とするために、真理の言葉によって御旨のままに、生み出して下さったのである。ヤコブの手紙 1章 9節から18節
【17:あらゆる良い贈り物、あらゆる完全な賜物は、上から、光の父から下って来る。父には、変化とか回転の影とかいうものはない。18:父は、わたしたちを、いわば被造物の初穂とするために、真理の言葉によって御旨のままに、生み出して下さったのである。】
ヤコブの手紙1章17節と18節の御言です。よく知られた聖句であると思います。今朝は、宗教改革記念にもあたりますので、そのことにも触れながら、ヤコブの手紙1章の9節から18節に御言に聞いてまいりたいと思います。まず、9節から11節で「まことの富」ということについて。12節から15節は「誘惑」について。それを生むものと、その結果について。16節から18節で「善い贈り物」について、教えられたいと願っています。
先週、聞いてまいりました1章1節から8節では、クリスチャンに、必ず訪れる試練ということ。そして試練を耐えうる力を、主が与えて下さることを教えられました。手紙では、主に信徒らが受けていた激しい迫害を指していますが、自らでは抗い難い試練の中で、疑うことなく信仰をもって願い求めれば、惜しみなく与えられる神は、キリストゆえに必ず力を与えて下さるとういうことでした。主なる神と真摯に向き合い、主の力を賜る豊かな交わりへと私たちを導くことにおいて、一時の困難な試練を、かえって喜ばしいことと思いなさい、と言うヤコブの教えです。この「喜ばしい」という言葉は、「光栄とする」という意味で、自慢する意味ではなくて、栄光を神様に帰す意味で、御国での大きな報いのために、また、この罪人を子と認めて、成長させて下さる天の父の訓練を光栄に思う、ということであります。
ヤコブの手紙は、新約聖書のなかで、最も初期に記されたもので、おそらく福音書もまだ、完全な形では完成していなかった頃だと考えられています。しかし、ここまでのヤコブの教えを見ますと、実はマタイによる福音書で、イエス様が語られた山上の垂訓、山上の説教に非常に似ていることが分かります。当初主を信じていなかった、兄弟ヤコブが、使徒たちを通してイエス様の教えを受け、信じ、理解していたことが分かります。例えば、2節の「試練を喜ぶ」という教えは、マタイ伝5章12節で、イエス様が、迫害を受け、罵られることを「喜び、よろこべ」と言われていたこととを思い起こさせます。ヤコブ1章4節で、完全な、充分に成熟した人になるようにとの勧めは、やはりイエス様がマタイ伝5章48節で「完全な者となりなさい」と教えておられました。5節の「願い求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう」というヤコブの言葉は、これもマタイ伝7章7節の有名な教え「求めよ。そうすれば与えられるであろう」と、ほぼ一致しています。
このように、ヤコブは、迫害によってあちこちに離散し、この世的にも、何より信仰面でも弱っていた兄弟姉妹に、主イエス・キリストを生々しく思い起こさせるような教えをもって、励まそうとしていたことが伺えます。イエス様を見あげよ、しっかり思い起こせ。ということです。なぜなら、イエス様の教えこそが父なる神の御心そのものであり、その御心が全てを摂理し、支配し、我らの全ての必要、試練に耐え、喜ぶ力を与えてくださる、完全な力なのであります。
さて、9節から11節をお読みいたします。
【9:低い身分の兄弟は、自分が高くされたことを喜びなさい。10:また、富んでいる者は、自分が低くされたことを喜ぶがよい。富んでいる者は、草花のように過ぎ去るからである。11:たとえば、太陽が上って熱風をおくると、草を枯らす。そしてその花は落ち、その美しい姿は消えうせてしまう。それと同じように、富んでいる者も、その一生の旅なかばで没落するであろう。】
ここで、「身分の低い兄弟」と「富んでいる者」について言われています。身分の低いというのは、心の低い謙そんなという意味もありますが、ここでは社会的身分が低く、みすぼらしいというような、貧しい状態の人々に語っています。私たちの、遣わされた一時のこの地上の生涯。低く、貧しい境遇であっても、その低いところに、神の御栄光が表されます。そのために、低さを赦されておかれる兄弟もいるということです。この世の基準では低い者。この世は、学歴や、職業、収入、身分で高い低いを言い、態度や扱いを変えますけれども、全能の主。造り主なる神のみ前には、この世の基準は無いに等しい。却って。その低い者が、主なる神の恩寵により、キリストへの信仰を与えられ赦されて、神の子とされているのです。御国での栄光を約束されているわけでありますから、低い貧しい者は、それに不平を言う必要はないと教えています。このしばらくの地上の歩みが終われば、天に栄光の冠が備えられているのですから、喜びなさい。という励ましであります。
実際、迫害によって散らされた人々は、ユダヤの社会、コミュニティでは困難な環境に置かれている人々が多かったのですが、中には裕福な人、身分の高い人々も含まれていました。彼らに対しては、逆に、低くされたことを喜びなさいと勧めています。低い者が高くされて喜べと言う励ましは理解しやすいですが、低くされて喜びなさいと言っています。この低くされると言うことは、この地上で、どれだけ豊かであっても、地位や権力があっても、それは一時である。またこの世の人の差は、創造主と被造物の差に比べれば無きに等しい差でしかありません。しかも全て、主から一時賜っているものにすぎず、「主が与え、主が取られた」とヨブが言った通りの、空しい富であります。【太陽が上って熱風をおくると、草を枯らす。】ヨナに備えられた唐胡麻も、一匹の虫で一夜で枯れ果てました。このことを忘れ、また悟ることなく、地上の富や力に頼り、己を誇り、富を賜っているところの主を軽んじる者への警告がなされているわけであります。人は欲に弱く、富に心を奪われ、心の高慢を招きます。そうすると、真の主に目が向かなくなる。後回しにする、背を向けてしまう。これは誰もが持つ罪からくる弱さであり、主が悲しまれるところの、裁きを招く姿であります。ですから、御言によって、御霊によって目が開かれ、自らの罪を悟って、また主の恩寵を知って、主の前に低く、平伏すようにされた者は幸いであるということであります。
この「喜ぶ」という言葉は「光栄とする」という意味の言葉です。この世での低さ貧しさも、またこの世の豊かな富、高慢から低い心へと招かれた者も、賜った大いなる恩寵、信仰と御国の栄光を思えば、それを光栄として、喜ぶことがかなうわけであります。ここに、この世とクリスチャンの価値基準の根本的な違い、真の富が何であるか、惑わされないようにとの教えを、覚えたいと思います。
続いて、12節から15節をお読みいたします。
【12:試錬を耐え忍ぶ人は、さいわいである。それを忍びとおしたなら、神を愛する者たちに約束されたいのちの冠を受けるであろう。13:だれでも誘惑に会う場合、「この誘惑は、神からきたものだ」と言ってはならない。神は悪の誘惑に陥るようなかたではなく、また自ら進んで人を誘惑することもなさらない。14:人が誘惑に陥るのは、それぞれ、欲に引かれ、さそわれるからである。15:欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生み出す。】
ここで、あらためて「試練を耐え忍ぶ人は、さいわいである」と語られます。ここも山上の説教を思い起こされる言葉です。「さいわいである」というギリシャ語は「マカリオス」で、そのままイエス様が何度も繰り返された「さいわいである」と同じ単語です。試練を耐え忍びとおす、ということは、主なる神を愛することによってはじめて成すことが適うわけですから、耐える人は神を愛する人で、そのような人には、命の冠。御国での永遠の命とさらなる祝福を受ける、と励ましています。
さらにここから、その試練は「誘惑」ということが中心になります。実は、2節の「試練」と、12節の「試練」という単語と、13節14節の「誘惑」という単語は「ペイラスモス」という全く同じ単語です。この言葉には、両方の意味があります。しかし2節と12での試練、13、14節では明らかに意味が違います。つまり、試練には迫害や困難、貧困と言った「外的な試練」と、「誘惑と」いう「内的試練」があると言うことが教えられています。そして、より気を付けなければいけないのが、この内的試練。すなわち、私たちの内から出て来るところの「誘惑」であります。なぜなら、13節にありましたように、悪への誘惑は、神から来たものではないからであります。主なる神は、私たちをご自身の下へと、善へと招かれることはあっても、悪へと誘惑されることは無いのであります。
外的試練は、主の試み、戒め、訓練であり、また恵みでもあります。外からの迫害や患難に対して、代々の聖徒たちは、これに耐え、また戦い、世界中に伝道を広めていくことになりました。かつての迫害や宣教の中で、多くの殉教者もでましたが、それは、教えられているように、御国の栄冠に繋がっているわけですから、人々は主により頼んで恐れることなく進んでいきました。実際ヤコブもまたペテロも殉教しています。
しかし、本当に恐れるべき試練は、内からくることが教えられています。14節~15節で、
【14:人が誘惑に陥るのは、それぞれ、欲に引かれ、さそわれるからである。15:欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生み出す。】
とあるように、自らの欲に引かれて、誘惑におちいり、貪欲が罪を生み出すことが指摘されます。そして罪、主なる神への背きこそが、私たちを永遠の死へ導くものであります。すなわち、外からくる試練は主のご摂理によりますから、私たちを滅ぼすことはできませんが、私たち自身の内からくる罪への誘惑が滅びへの入り口であると言うことであります。
少し前、祈祷会でウェストミンスター小教理問答に基づいて主の祈りを学びました。この礼拝でもともにこの祈りを捧げました。主の祈りは、6つの祈り、祈願ででていて、その最後の六つ目が「我らを試みに会わせず、悪より救い出したまえ」という、どうぞ主よお救い下さい、救って下さいと言う祈りになっています。そしてこの「試み」というのが、「誘惑」であります。英語だと「temptation」です。誘惑に会わせないでください、負けないようにしてください。もし、誘惑につかまるようなことがあっても、どうぞ御手をもって救いあげて下さい。主に立ち帰って、御前に立たせて下さい、という祈りで締めくくられています。
先ほどの10節で「富んでいる者は、低くされたことを喜ぶがよい」言われていることは、富は誘惑を呼ぶからであります。私たちの内なる欲が膨らんで、貪欲となり、サタンの働く場となります。欲という言葉は「望む」という言葉で、良い意味でも使われますが、望みが過ぎると欲となる。人はその罪よって「人がその心に思い図ることは、幼い時から悪いからである」とノアの洪水の後、主がノアに言われた通りであります。
先ほど、大変な迫害の中、多くの殉教者を出しながらも福音の伝道が広められたことをお話しいたしました。それは、やがてキリスト教が、ローマ帝国の国教となるに至ったのであります。ローマ皇帝がこれを認め、教会と国家は密接になっていきました。教会内で、教理的な問題が生じた場合など、ローマ皇帝が、国家行事としてキリスト教の公会議を招集するようになります。こうして、強大な国家の後押しを得て、この世的な権力や権威、膨大な資産が教会に集まってくるようになると、純粋な伝道の望みが、欲となり、この世の欲望もその中に入り込んできました。そこに誘惑と腐敗が生れるわけであります。キリストの教会を、主から遠ざけたのは迫害や試練ではなく、豊かになり力を得て生まれた、高慢と欲望の誘惑でありました。
これに異を唱え、使徒的教会への回帰を目指し、主の御言葉に立ち返る改革を訴えたのが、宗教改革のはじまりでした。これは、当初ルターもカルヴァンも、カトリック教会を割って出るつもりではなかったのですが、結局、権力と腐敗で世俗化していた当時の教会から、追い出されてしまい、戦いの中で広がっていったのが現在のプロテスタント教会であります。最近、カトリック教会での衝撃的な報道がありました。聖職者による、幼児への虐待が、万という膨大な数に上ると言うものでした。教会は、確かに主なるキリストの教会であって、見えない教会に、代々の全てにキリストの民の群れに繋がるものではありますが、この世にある間は、常に罪人の群れであること。間違いを犯すことを、心に刻まなければなりません。ところが、間違いのない権威だと掲げていると、過ちを正し、途絶えさせることができない状態になるわけであります。
私たち、改革派と呼ばれる教会は、宗教改革の改革から来ていますが、あえてカルヴァン派としないには、カルヴァン自身が強くこれを嫌い、常に御言葉によって改革され続ける教会として、その名を冠したと言う、経緯があります。この名のように、常に間違い、誘惑に弱く、試練に耐えられない存在であることを忘れず、御言葉に聞きつつ、歩み続けたいと願うものです。
最後に、16節から18節。
【16:愛する兄弟たちよ。思い違いをしてはいけない。17:あらゆる良い贈り物、あらゆる完全な賜物は、上から、光の父から下って来る。父には、変化とか回転の影とかいうものはない。18:父は、わたしたちを、いわば被造物の初穂とするために、真理の言葉によって御旨のままに、生み出して下さったのである。】
天の父は、御子キリストにあって、私たちにも父なる神様と呼び掛けることのできる、幸いを与えて下さいました。この天の光の父は、人の父が子に善い物を与えようとする以上に、完全に、不足なく、過ぎることなく、あらゆる善い物を賜るのであります。賜っているものは、善い物のみだと言うことでもあります。それは無限、永遠、不変なるお方のお約束であり、変わることがありません。そして、その第一歩は、真理の言葉。すなわち、キリストの福音によって。聖書を通して、私たちに新たな命を賜ったところにあります。聖霊を遣わしてくださり、御言葉による新生を成して、救い主にしっかりと結び付けて下さっている。この主の恩寵に感謝し、様々な試練でも、また内からの誘惑においても、主により頼む者を支えて下さるお方を讃美したいと思います。