安息日の讃美
1: いと高き者よ、主に感謝し、み名をほめたたえるのは、よいことです。
2: あしたに、あなたのいつくしみをあらわし、夜な夜な、あなたのまことをあらわすために、
3: 十弦の楽器と立琴を用い、琴のたえなる調べを用いるのは、よいことです。
4: 主よ、あなたはみわざをもってわたしを楽しませられました。わたしはあなたのみ手のわざを喜び歌います。
5: 主よ、あなたのみわざはいかに大いなることでしょう。あなたのもろもろの思いは、いとも深く、
6: 鈍い者は知ることができず、愚かな者はこれを悟ることができません。
7: たとい、悪しき者は草のようにもえいで、不義を行う者はことごとく栄えても、彼らはとこしえに滅びに定められているのです。
8: しかし、主よ、あなたはとこしえに高き所にいらせられます。
9: 主よ、あなたの敵、あなたの敵は滅び、不義を行う者はことごとく散らされるでしょう。
10: しかし、あなたはわたしの角を野牛の角のように高くあげ、新しい油をわたしに注がれました。
11: わたしの目はわが敵の没落を見、わたしの耳はわたしを攻める悪者どもの破滅を聞きました。
12: 正しい者はなつめやしの木のように栄え、レバノンの香柏のように育ちます。
13: 彼らは主の家に植えられ、われらの神の大庭に栄えます。
14: 彼らは年老いてなお実を結び、いつも生気に満ち、青々として、
15: 主の正しいことを示すでしょう。主はわが岩です。主には少しの不義もありません。詩編 92篇
「1: いと高き者よ、主に感謝し、み名をほめたたえるのは、よいことです。 2: あしたに、あなたのいつくしみをあらわし、夜な夜な、あなたのまことをあらわすために、 3: 十弦の楽器と立琴を用い、琴のたえなる調べを用いるのは、よいことです。」
詩篇92篇,1節から3節の御言です。この詩篇は「安息日の歌、さんび」と題がつけられています。この題のとおり、主なる神をほめたたえる礼拝の態度と、それを生む、喜び。主ご自身について教えられたいと思います。
今、祈祷会では、ウェストミンスター小教理問答を順に進んで、先ほど信仰告白で読んだとおり、十戒の学びに入っています。ちょう先々週、先週は第54問から56問まで来たところです。「第三戒」(汝の神。主の御名をみだりに口にあぐべからず。)について聞いてきました。次回は、「第四戒」の安息日の教えというところにさしかかっています。この十戒そのものは、大きく分けて2つのことが教えられています。第一は神への愛、第二は隣人への愛、ということになります。これはイエス様がマタイによる福音書22章34節以降で、イエス様を試そうとしたパリサイ人から「律法の中で、どのいましめが一番大切なのですか」と問われ、律法全体を大きく2つにまとめてお答えになった内容です。
第一の神への愛は、十戒で言えば第一戒から第四戒に示され、隣人への愛は第五戒から第十戒に表されています。特に、第一戒から第四戒は「礼拝」について定められており、神への愛は礼拝を土台にして、礼拝と切り離せないものとして教えられていきます。そして、第二の隣人への愛は、第一の神への愛。真の神様を知ることで、その根拠が与えられ、初めて確かなものとなることが示されています。
この神への愛。礼拝について教えた第一戒から第四戒は、序文から始まり、第一戒が「礼拝の対象」。唯一の生ける真の神のみを神様とすることが求められます。第二戒は「礼拝の方法」。霊なる神様、形なく見えない神様を、見えないまま礼拝すること。偶像礼拝の禁止として、神さまを見える形、被造物の中に置くことの禁止が教えられます。ですから、わが国のような多神教的宗教態度は、一般に偶像礼拝と言いますが、これは直接には第一戒に該当する、ということになります。第二戒の偶像とは、霊なる神様を人が造った形において人が認識すること、人を神の上に置くことを禁止していると言うことであります。密接に繋がってはいますが、いわゆる○○像を拝むという、異教の偶像礼拝が、もっぱら第二戒違反だと混同されることが多いようですが、そもそもは第一戒違反ということになります。
第三戒は「汝の神主の名をみだりに口にあぐべからず。主はおのれの名をみだりに口にあぐものを罪せではおかざるべし」と言う戒めで、そこに求められるのは、「礼拝の態度」です。第四戒は安息日、「礼拝の時」。時の聖別ということになります。
この第三戒の「礼拝の態度」。神様が求めておられる、神様に対する私たちの態度、心構えと行い、ということになります。本日の詩篇、92篇は「安息日の歌」ですが、そこに記された内容は、まさにこの礼拝の態度、神様に向かう、敬虔さと幸いが歌われています。本日はこの詩篇に聞き、導かれたいと願っています。
まず、詩篇全体について。詩篇は、第1巻から第5巻の五つに分けられています。これは、紀元前5世紀頃に編纂されて、そのような組み合わせになっています。ずっと古いモーセの時代、ダビデの時代、バビロン捕囚の頃の詩篇が集められて、編纂されているのですが、そこに聖霊のお働きがあって、今、私たちの目の前に、1篇から150篇を5巻にまとめた形で示されています。そして、各巻それぞれに大きなテーマが示されていると言えます。
全体としては名のとおり讃美集であり、また預言でもありますが、第1巻は、「私の」という一人称的な讃美が中心になっています。ですから、「個人的な讃美」。日々の生活における讃美です。第2巻は、今度は「私たち」という、イスラエルを土台とした、共同体の讃美と言えます。そこには神の国とご支配が讃美されます。第3巻は「礼拝における讃美」。神の契約と救いが歌われます。第4巻は「主の王権の讃美」。世界を統べ治められる、まことの王への讃美です。第5巻は「讃美とは何か」という讃美そのものを教える讃美集で、さらに小さく五つの歌集で構成されています。第1巻から5巻それぞれの最後の詩篇は、「主はとこしえにほむべきかな。アーメン。」という、頌栄で終わっており、各巻の区切りとなっています。
本日の92篇は、第4巻に置かれています。「安息日の歌」と言う題ですから、第3巻にあるかなと、思うのですが、第4巻におかれています。この第4巻は、王権の讃美と申し上げました。それは同時に、まことの王のもとに生きる民の、「人生の讃美」ということが言えると思います。この「人生の讃美」という区分は滝浦先生が仰っていたのですが、その人生の讃美の、頭の部分にこの「安息日の歌」が置かれていることにも、覚えたいと思います。
そして、もう一点は安息日の礼拝と言うものが、そもそも、主なる神の恵みの契約への応答。救いの約束とお招きへの応答ということ。それと同時に、真の王であられる主の前に、集いひれ伏す、という二つの意味。恵みであります。そこから、第4巻。王権の讃美に置かれていることにも思い巡らせたいと思います。この詩篇には、安息日と言う言葉も、礼拝と言う言葉も、一言も出てきませんが、私たちの人生を考える上での、安息日の重要さと言うところに導いてくれます。人生の基本を保証してくれる、安息日。その精神を表しています。もう一度1節から3節。
「1: いと高き者よ、主に感謝し、み名をほめたたえるのは、よいことです。 2: あしたに、あなたのいつくしみをあらわし、夜な夜な、あなたのまことをあらわすために、 3: 十弦の楽器と立琴を用い、琴のたえなる調べを用いるのは、よいことです。」
1から3節は、いわゆる序文となっています、導入ですが。ここでは、まず「御名」と言うことが出てきます。1節で「御名」をほめたたえるのは「良いことです」。と言っています。御名を褒めたたえよ、と言う義務や勧めではなく「良いこと」。英語では「It is good」。喜ばしいことなのだと始めています。新共同訳では御名を褒めたたえることが「なんと楽しいことでしょうか」と訳しています。2節でその御名が明かされます。朝にあなたの「いつくしみ」。夜ごとに「まこと」を表す。これは。「恵み」と「真実」とも訳され、神の御名のことです。その御名こそが、主なる神のご本質を表しています。主なる神が私たちに、示し、教えてくださった、恵みの契約の主であられる、主の御名。真実に救いの恵みをもたらして下さるお方という意味です。その与えられた恵みによって、朝に夕に、主の御名をほめ歌う喜びが語られます。
この1節の「主」は太文字の主で、原文にはその御名が記されていることが分かります。このみ名は、1節のあと、4節、5節、8節、9節、13節、そして15節の最初の主。これは全てその御名(YHWH)が記されています。次に4節から6節では
「4: 主よ、あなたはみわざをもってわたしを楽しませられました。わたしはあなたのみ手のわざを喜び歌います。 5: 主よ、あなたのみわざはいかに大いなることでしょう。あなたのもろもろの思いは、いとも深く、 6: 鈍い者は知ることができず、愚かな者はこれを悟ることができません。」
ここでは、主の御業が語られます。私たちを楽しませる主の御業。そして、それをもたらして下さる主の御思い。深く測りがたい主のお計らいは、あまりにも深い。鈍いものには、知れない。愚か者は悟れない、そんな御思いと御業を讃えています。私たちが覚えなければならないのは、本来、私たち全てが、この鈍い者であり、愚か者だと言うことです。恵みとまことに満ちた主の、お計らいも、御業も知ることができない、それが人間であります。この主なる神の、へりくだりによる啓示が無ければ、私たちは主を知ることがかないません。しかし、先の御名が示すように、憐れみ深い主は、いと高き天の御座よりへりくだって、この低いところの私たちにその御名と、御心を表して下さいました。主のへりくだりの最高潮は、イエス・キリストの十字架において表されました。私たちは幸いにも、与えられたイエス様への信仰によって、主の御名を知り、わが主わが神と呼ぶことを許され、ほめ讃えることのできる、そのような恵みに与っているのであります。
ここまで、恵みの契約における主の「御名」が褒めたたえられました。いつくしみと、まことと言う御名です。そして大いなる「御業」が喜び歌われ「御思い」の深さが示されました。次に7節から9節をお読みいたしますと
「7: たとい、悪しき者は草のようにもえいで、不義を行う者はことごとく栄えても、彼らはとこしえに滅びに定められているのです。 8: しかし、主よ、あなたはとこしえに高き所にいらせられます。 9: 主よ、あなたの敵、あなたの敵は滅び、不義を行う者はことごとく散らされるでしょう。」
悪しきもの、不義を行うものへの裁きが示されます。主の深い御思い。ご計画は、悪しきものが一時、雑草のように伸び広がり、花をつけているように見えても、そのままにはされません。彼らは永遠の滅びに定められている。主なる神様の公正さ。義が示されます。9節の「主よ」のあとに「今」という言葉が入っています。「主よ、今、あなたの敵が、まことに今あなたの敵が滅びます」ということです。主の公正な裁きは、必ずその敵を散らされます。10節以降をお読みしますと、
「10: しかし、あなたはわたしの角を野牛の角のように高くあげ、新しい油をわたしに注がれました。 11: わたしの目はわが敵の没落を見、わたしの耳はわたしを攻める悪者どもの破滅を聞きました。 12: 正しい者はなつめやしの木のように栄え、レバノンの香柏のように育ちます。 13: 彼らは主の家に植えられ、われらの神の大庭に栄えます。 14: 彼らは年老いてなお実を結び、いつも生気に満ち、青々として、 15: 主の正しいことを示すでしょう。主はわが岩です。主には少しの不義もありません。」
11節では、「わが敵の没落」、「私を攻める悪者どもの破滅」を聞いた、と言っています。詩篇作者はすでに、自分は主の民で、主のもので、もう主なる神と一体となって共に働くものとしての視点、態度を表しています。「あなたの敵」は「わが敵」に変わっています。
その思いは、10節によってもたらされます。「私の角を・・高くあげ」られ「新しい油を注がれました」。この角は、力の象徴として用いられる言葉ですので、この時点では、神が自らの民、正しいものに力を与え、油を注いで、新しい任務と奉仕へと導き、進ませられる。というように解釈できます。しかし、これを預言的にみると、さらに深い御思いが見えてきます。「高く挙げられた角」という場合は、より偉大な力の源を示すことになりますので、この角は「メシヤ」救い主で、私の王なる方。すなわちイエス様を示していることになります。この方が、より今の私たちにふさわしい讃美となってくると思います。
イエス様が贖い主として遣わされ、その救いの御業を実現してくださった。このイエス様によって、敵は最終的に滅びに入れられ、信じる正しいものは、敵のような草ではなく、よく広がり育つナツメヤシや、高く伸びて、驚くほど長寿を誇るレバノン杉の木のように、主の家に植えられるようになります。神の大庭は、神殿の庭の事ですが、御国を示しています。年老いてなお実を結び、いつも生気に満ちて、と言うように、御国での永遠の命と、主をほめ讃える姿が示されていると言えます。
そして主は、全く正しく、わが岩、避けどころであり、よりどころ。そのようなお方であるということを、私たちは言い表します。告げます。ということが最後15節に述べられて終わります。この詩篇では、主の御名、御業、御思い、そして公正な裁き、正しさ、救いと、永遠の命の約束と思える讃美が歌われてまいりました。ここに、私たちが安息日の礼拝に臨む、その心と態度が教えられています。
今日は、十戒の第三戒が教える礼拝の態度について、ウェストミンスターの教理問答を週報の裏面に記載いたしました。小教理ではかなり凝縮されていますので、答の部分は大教理も抜粋しています。また、翻訳も松谷先生の訳を使わせていただきました。イギリスでウェストミンスター会議の経緯や、成立文書を詳細に研究され、最も古いテキストから翻訳されています。現代的な日本語としても、より理解しやすいと思います。
一部、第三戒で求められていることと、付け加えられている理由を少しお読みいたします。
54問【第三戒では、何が求められていますか。】
◇答「第三戒は、神の御名、称号、属性、規定、言葉、御業を、清く、敬虔に用いることを求めています。
<大教理112答:抜粋>「・・聖礼典、祈り、宣誓、誓願、くじ、その他、神がご自身を知らせるのにお用いになるどのようなものも、それらが、思い、瞑想、言葉、文章において、清い信仰告白と、責任ある生き方により、神の栄光と、私たち自身および他の人々の幸いのため、清く敬虔に用いられることを求めています。」
56問【第三戒に付け加えられている理由は、何ですか】
◇答「第三戒に付け加えられている理由は、この戒めを破る者たちがたとえ人間による罰は逃れたとしても、私たちの神である主は、彼の正しい裁きを逃れることは彼らにお許しにならない、ということです。
ここでのポイントは3つあると思います。第1は「神が、私たちにご自身を知らせようとされている、すべてのこと」。ここでは様々な事柄が挙げられています。第2は、それを「きよく敬虔に用いる」ということ。第3は「この戒めを破るものを。人が許しても神はお許しにならない」という点になります。今日の詩篇では、このポイントが、全て歌われ、表されています。それ故、安息日の讃美としてふさわしい詩篇となっています。
しかし、私たちは、どれだけ注意しても誤りを犯しますし、本当の意味で神様を敬う、ということも適いません。ただ、イエス様の贖いと、今もなしていて下さるとりなしによってのみ、主の御前に立つことを赦され、その幸いを賜っています。本日の詩篇92篇。また、お帰りになりましてからも、教理問答と併せて、あらためて味わっていただき、主の礼拝に与る喜びの助けとしていただけたら幸いです。御霊のお導きを祈ります。 (以上)