律法は廃らない

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律法は廃らない

17:わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。 18:よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。 19:それだから、これらの最も小さいいましめの一つでも破り、またそうするように人に教えたりする者は、天国で最も小さい者と呼ばれるであろう。しかし、これをおこないまたそう教える者は、天国で大いなる者と呼ばれるであろう。 20:わたしは言っておく。あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、決して天国に、はいることはできない。
21:昔の人々に『殺すな。殺す者は裁判を受けねばならない』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。 22:しかし、わたしはあなたがたに言う。兄弟に対して怒る者は、だれでも裁判を受けねばならない。兄弟にむかって愚か者と言う者は、議会に引きわたされるであろう。また、ばか者と言う者は、地獄の火に投げ込まれるであろう。 23:だから、祭壇に供え物をささげようとする場合、兄弟が自分に対して何かうらみをいだいていることを、そこで思い出したなら、 24:その供え物を祭壇の前に残しておき、まず行ってその兄弟と和解し、それから帰ってきて、供え物をささげることにしなさい。マタイによる福音書 5章 17節から24節

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「17:わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。 18:よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。 19:それだから、これらの最も小さいいましめの一つでも破り、またそうするように人に教えたりする者は、天国で最も小さい者と呼ばれるであろう。しかし、これをおこないまたそう教える者は、天国で大いなる者と呼ばれるであろう。」

 マタイによる福音書5章の17節から19節の御言です。今朝は、イエス様が解き明かされた、聖書の御言葉。律法についての教えに聞いてまいりたいと思います。

 今月の第一聖日に、イエス様の復活をお祝いする、イースターがございましたので、3月の下旬から、イエス様の埋葬から復活について記された、福音書に聞いてまいりました。イエス様の埋葬から復活に至るまで、各福音書に記録された部分を合わせて見ながら、全体の情景を見てまいりました。その中で、イエス様が、ご自身について、聖書。つまり旧約聖書において予言されていたこと。また、表わされていた部分を解き明かされ、かつ、弟子たちの心を開かれたことも教えられました。そのイエス様は、地上の公生涯、におかれても、聖書の教えの誤った理解を正し、解き明かしていかれました。今週と来週は、有名な山上の垂訓、山上の説教。これはマタイ伝の5章から7章全体に会わって記されてしますが、そのなかから、特に、ユダヤの民の生活の基盤であり、救いに深くかかわっていた、律法について解き明かされている部分から、神の教えの原理、真理に導かれたいと願っています。

 まず、冒頭。17節でイエス様は次のように仰いました。
「17:わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。」
 このように語り始められたのは、その前の教えからの流れになります。5章の1節から12節は、山上の垂訓でなかでも、特に印象的な、いわゆる「至福の教え」とか「八福の教え」と呼ばれた教えが表されます。「心の貧しい人は、幸いである、天国は彼らの者である」という教えから始まり、八つの幸いが示されます。

 この「幸いである」という言葉は、「神に祝福されている、恵まれている」という意味の言葉です。ですから、「心の貧しい人たちは、神様からなんて祝福されていることか」という、感嘆の言葉でもありました。この教えは、当時のユダヤ人にとっては画期的なものであったと言えます。神の律法は、生活を細かく規定しており、それを、守り行うことが祝福を受ける、恵まれる条件であって、かつその祝福は、外形的な、目に見えるもの。この世の繁栄、というところで判断されていました。貧しかったり、病であったり、また苦しんだり悩みの内にあるものは、罪の内にある者であって、神様の祝福を受けられない者だとみられていたわけです。

 これに対して、イエス様は全く違う見解を示されました。外形的、表面的なことではなく、まず主なる神が見ておられるのは、人の内面であるということです。自らの弱きを知り、主を求める者。より頼む者。このような者を主は憐み、祝福し給うと言うことを宣言されたわけであります。しかもこの祝福は、この世の一時的なものではなく、現在から天国まで、すなわち永遠の祝福、幸いが与えられていると言われたわけであります。これは、ユダヤ的な価値観。主なる神との関係における本当の恵みの意味の、大きな転換でありました。まことの、完全なイエス様が来られたことによってなった、信仰による救いということの宣言であります。見せかけの律法順守ではなく、神の子なるイエス・キリストを信じる信仰によって約束された、永遠の幸いでありました。ですから、山上の垂訓を語り終えられたあと、7章の28節で、これを聞いていた群衆は「その教えに、ひどく驚いた」と記されています。

 このように、イエス様は、外面的な表面的な律法主義。さらに言えば主なる神の律法の上に、人に都合の良い慣習や、教えを塗り重ねた、当時のユダヤ人の律法。それに基づいた価値観や、神様に権威を都合よく利用し、人間の欲を上に置いていた姿を、完全に否定され、価値なきものとされました。ですから、当時の権力者。宗教的権威者から目の敵にされ、律法を守らない者、神を冒涜するものとして迫害され、命を狙われることになったわけであります。彼らは自分たちが「神を冒涜する者と」と呼んだお方が、神に一人子、神ご自身であられることを知らず、また見えていなかったのであります。

 そこで、イエス様は、ご自身の教えを聞いている群衆に語り始められます。
「わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。」
 イエス様は祭司や律法学者たちが言うような、律法を侵す者でも、冒涜する者でもない。全く逆であって、主なる神様が、恵みの契約によって人に与えられた律法を、真の意味で成就するために来られたのだ、という、そのご自身のお立場と役目を明言されたのであります。ここでは、まだ、そのお言葉の真の意味は、人々には明かされていませんでしたけれども、それでもこの宣言は、私以外には、律法を成就できない。誰も、律法を完遂することができない、だから律法によっては救われえないのだ、という真理を含んだ、そのようなお言葉でした。 ですから、続いて、その律法を成就すると言う本当の意味と、理由を少しずつ示していかれます。
 
 18節から19節。
「18:よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。 19:それだから、これらの最も小さいいましめの一つでも破り、またそうするように人に教えたりする者は、天国で最も小さい者と呼ばれるであろう。しかし、これをおこないまたそう教える者は、天国で大いなる者と呼ばれるであろう。」
この「天地が滅びゆく」の「滅びゆく」という言葉と、「廃ることはない」ことばは全く同じ単語です。(παρελθη)。元は時が過ぎゆく、過ぎ去るという意味で、そこから無くなるとか,亡びる、という意味になっています。つまり、ここでは、律法の存在、有効性は天地すなわち、この世界がある限り、ずっと変わらない。神様は真実なる方で、その教えもまた不変であるということ。そしてそれが全うされる。つまり、完全に成就されるのだと仰っています。

 しかも、一点、一画もと言われています。日本語や英語でも、句読点や、カンマの位置を変えることで、文章の意味が変わってしまうことがあります。ヘブル語でも同じです。一点というのは、ヘブル語アルファベットの、ヨッドという文字の事だとされます。本当に、小さなカンマのような字なのですが、一つの文字に変わりはありません。主なる神が人間に与えたもうた教えは、一字一角誤りなく永遠の真理であることを、教えておられます。同時に、それは、人が足すこと、引くことをも禁じておられることを示しています。主なる神様の教え。御言の権威はそれほどまでに高く厳かなものであると言うことです。イエス様が、旧約聖書をいかに主なる神の御言として、大切にお用いになっていたか、ということが分かります。イエス様は、パリサイ人達への反論や諭しは、常に聖書の御言をもってなさいました。荒野でのサタンの誘惑を退けられたのも、御言によってでありました。

 そこで、さらに19節では、この「最も小さいいましめの一つでも破り、またそうするように人に教えたりする者は、天国で最も小さい者と呼ばれるであろう。」というように、律法は完全なる遵守を求めており、それが果たされるならば、天国の栄光があり、そうでなければ、天国で最も小さな者、天国の価値なきものとされると言うことになります。
 イエス様による教えと、癒しを求め、その後についてきて、話を聞いていた群衆は、驚きながら、ある意味混乱していたのだと思われます。最初の至福の教えによって、今まで、先祖から躾けられ、祭司や、律法学者らから教えらえていた、律法や神様の祝福とは全く違う、教え、価値観、判断基準をお示しになりました。これは、弱きもの、貧しきもの病に悩む者、軽蔑されるもの、社会から取り残され、神の祝福の外に置かれたとされている者にとって、まさに恵みの御言でありました。しかし、イエス様はその後、続いて、律法の厳粛さ、永遠性、完全な遵守を語られたのであります。実は、これがイエス様による、聖書の正しい解き明かしの概論であり、序論でありました。この後実際に、具体的な律法の真の意味。それを与えられた父なる神の御心を解き明かしていかれます。

 21節から22節をお読みいたします。
「21:昔の人々に『殺すな。殺す者は裁判を受けねばならない』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。 22:しかし、わたしはあなたがたに言う。兄弟に対して怒る者は、だれでも裁判を受けねばならない。兄弟にむかって愚か者と言う者は、議会に引きわたされるであろう。また、ばか者と言う者は、地獄の火に投げ込まれるであろう。」
 最初にまず、「殺すなかれ」。十戒の第六戒をお示しになりました。隣人愛の最も分かりやすい戒めと言えます。先に一言説明させていただきますと、この殺すなかれ、の「殺す」という言葉は、「人を殺す」という単語です。何物でも命を取る、という意味ではなくて、「人の命」に限定しています。ですから、仏教の無殺生の教えとは違います。「人を殺すなかれ」英語だと「murder」です。「kill」という、ただ殺すではないのですね。でも、このことは、第六戒において、大切な意味を持っています。

 御言に戻りますと、「殺すな」「殺すと裁判を受けなければならない」という律法を示されました。これは第六戒と、その具体的な運用を定めた、民数記の35章の後半部分からまとめられています。あなた方の聞いているところと言われたように、誰でも知っている律法であります。しかし、イエス様は、この律法が教えるところは、さらに深いことを解き明かされます。人の命を奪うと言う大きな罪だけではなくて、兄弟に向かって「怒る」だけでも、同じように裁判を受けなければならない、仰ったのです。これは、「怒って」例えば怒鳴ったり、威嚇することで、現代で言う脅迫とかで訴えられると言うのではありません。「怒る」は「腹を立てる」という意味ですから、心の中で腹を立てただけで「殺人罪」で訴えられると仰っているのです。

 更に口に出して「愚か者」といえば、議会に引き渡される。これは、先の裁判というのは、今で言う地方裁判所的で裁かれることを意味します。この議会は、いわば最高裁判所ということになります。そして、重ねて「馬鹿者」と言った日には、もう地獄の火に投げ込まれる、と言うのです。「馬鹿」といったら地獄という、この世的には罪と罰のバランスが取れてない、と言われることでしょう。先ほどまで、あれほど憐れみ深い教えをされていたイエス様が、こんなに厳しい律法の解釈をされたのは、どういう意味でしょうか。ここでの「愚か者」というのは、「能無しだ、まぬけだ」と人を完全に見下した、高慢な態度のことです。「馬鹿者」という言葉は、頭が悪いではなくて、「神に逆らう不道徳な者」という意味ですから、兄弟の道徳性を否定し、不名誉な烙印を押す行為のことを指します。ですから、だんだんと罰の度合いが大きくなっていることが分かります。

 それでも、「馬鹿者」で地獄はちょっと厳しいなぁ、と思ってしまいます。私は何回地獄の火に焼かれたら済むんだろう、と恐ろしくなってしまいます。でも実は、そこが大切なのだと思います。

 イエス様はただ怖がらせておられるわけではありません。まず、人と言うのは、それほどまでに尊いのだ、ということを教えていられます。なぜなら、神様は、人をご自身の似姿としてお造りになった。そして特別に愛してくださった。全ての人の中に、その生命だけではなくて、人格の中に神様の形がある、ということなのであります。人を殺すな、という教えは、この神様の形を尊重しなければならない、損なってはならないということです。だから、人格を損なうような侮辱や、無視することも、「殺すなかれ」という戒めを侵すことだ、ということをイエス様は解き明かされたのであります。
 イエス様は、隣人への愛については、自分を愛するように隣人を愛しなさいと言われました。それは、自分の中にも。自分自身も神様の形である人格を持っていて、まずそれを尊重しなければならない。自分自身を損なってはならないという教えでもあります。自分を愛することの大切さと、隣人を愛することの大切さは、神様の形という点において、同じ意味を持つのであります。人の命と、人格の大切さは、いわゆる人間中心のヒューマニズムだけでは説明できません。まことの神様に源をおく、神様を畏れ、愛し、その形を尊重するところに、本当のヒューマニズム。隣人愛が示され、確かなものとされるという真理であります。

 律法全体のまとめでもあり、根本である十戒は、第一戒から第四戒は神への愛が教えられます。そして第五戒から第十戒までは隣人への愛が教えられています。神への愛は「礼拝」のかたちとして表わされ、隣人への愛は「尊重する」という形で示されます。一人一人の中にある神様からの者、賜物を尊重する、という意味であります。第六戒の「殺すなかれ」は、人の中にある神様の形の尊重、ということでありました。このことから、まず神様を愛することなしに、隣人の中にある神の形を愛せない、という真理が導き出されます。人への愛は、まず神への愛が無くてはかなわないのであります。イエスさまは、ここに、律法を見える形においてではなく、心の中に。神様を信じる信仰によって遵守すべきものであることを明らかにされました。同時にそれは、私たちが、どう頑張っても、完全にそれを果たすことができないと言うことも意味しています。私たちは、ことごとく最も小さな者なのであります。

 主なる神様が与えたもうた律法は、人を救う力のある恵みでありました。しかし、人にはこれを果たす力がないことも明らかにされました。それ故、イエス様が宣言してくださったのです。「わたしは、律法を成就するために来たのである。」そして「ことごとく全うされる」すなわち「実現する」ということであります。
 そして事実、イエス様が宣言された通り。御子イエス様ご自身が、父なる神への完全なる従順をもって、この律法を成就なさって下さり、私たちを律法の呪いから、永遠の地獄の火から解き放ってくださったのであります。ただ、イエス様への信仰による救い。私たちは、この大きな恵みに感謝し、その愛にお応えする、その為の方法として、基準として、果たせないながらも、少しでも道徳律法に聞いて、心において、歩んでまいりたいと願う次第です。   (以上)

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