神の住まい
(17)それから彼は、こられた上で、遠く離れているあなたがたに平和を宣べ伝え、また近くにいる者たちにも平和を宣べ伝えられたのである。
(18)というのは、彼によって、わたしたち両方の者が一つの御霊の中にあって、父のみもとに近づくことができるからである。
(19)そこであなたがたは、もはや異国人でも宿り人でもなく、聖徒たちと同じ国籍の者であり、神の家族なのである。
(20)またあなたがたは、使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられたものであって、キリスト・イエスご自身が隅のかしら石である。
(21)このキリストにあって、建物全体が組み合わされ、主にある聖なる宮に成長し、
(22)そしてあなたがたも、主にあって共に建てられて、霊なる神のすまいとなるのである。エペソ人への手紙 2章 17節から22節
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<(21)このキリストにあって、建物全体が組み合わされ、主にある聖なる宮に成長し、(22)そしてあなたがたも、主にあって共に建てられて、霊なる神のすまいとなるのである。>
エペソ人への手紙2章21節と22節の、御言です。パウロはここで「あなた方も、神の住まいとなる」と言われているように、教会を、建物に例えて教えています。1章の終わりで、教会はキリストの体で、キリストが満ちているところだ、と教えられました。また16節まででは、キリストの十字架によって、律法による垣根、敵意が取り払われ、ユダヤ人と異邦人が一体となった、一つの体となった教会が示されました。
そこから、17節以降では、今度は教会というものを、一つの家族として、そして建物として例えて教えています。本日も御言から、教会の姿について導かれたいと願っています。まず、17節
<(17)それから彼は、こられた上で、遠く離れているあなたがたに平和を宣べ伝え、また近くにいる者たちにも平和を宣べ伝えられたのである。>
そこから「彼は」という、「彼」はキリストのことであります。ここでは、ギリシャ語原文でも確かに代名詞が使われていますので、直訳で「彼」と訳しています。実は、キリストと言う単語は、13節の「キリストの血によって」と書かれたところから、20節の「キリスト・イエスご自身が隅のかしら石」というところまで、全く出てきません。ずっと「彼」という代名詞で語られています。ですから、口語訳は直訳的には正しいと言えます。ただ、なぜか14節だけは「キリスト」と意訳しています。逆に、新改訳や新共同訳では、「彼」と言う単語を全て「キリスト」と訳しています。14節以降、15節、17節、18節の「彼」を「キリスト」と表記しています。
たしかに、意訳ではありますが、キリストとした方が、パウロの意図がより伝わりやすいように感じられます。どういうことかと言いますと、例えば18節
<彼によって、わたしたち両方の者が一つの御霊の中にあって、父のみもとに近づくことができるからである。>
この「彼」を「キリスト」と書きますと、より明確です。
「キリストによって、一つの御霊にあって、父のみもとに近づく」とこのように、三位一体の神様のご本質を源として教会が成り立っていることが、よりはっきりとわかります。
22節も同様です。22節は「主」(キュリオー)と言う言葉が使われていますが、「主にあって、み霊によって神の住まいとなる」というように、ここでも三位一体の神様との密接なつながりが明かされていることが分かります。このように「彼」をキリストと、脳内で変換はできますが、意訳することで目にも明らかになり、理解を助けてくれると思います。
さて、御言の内容に聞いてまいりたいと思います。ここでは第一に、教会はまずキリストから始まること。次に、キリストによって神の家族とされていること。そして、キリストの上に建てられた一つの建物、神のお住まいになるところである、と言うことが教えらえます。もう一度17節からお読みいたします。
<(17)それから彼は、こられた上で、遠く離れているあなたがたに平和を宣べ伝え、また近くにいる者たちにも平和を宣べ伝えられたのである。>
この17節を直訳しますと、「そして、キリストは、来られて、宣べ伝えらた、平和を、遠くにいるあなたたちに」と言う感じです。ここでも先行する主の愛が示されます。この「来る」ということは、近づいてくる、出向いてきてくださると意味の言葉です。私たちが出向いたのではないのです。イエス様が、主が来てくださった。こんなに遠い私たちの近くに、ということでありす。そして御自ら宣べ伝えて下さった。この宣べ伝えるという言葉に中には、それだけで既に「福音を宣べ伝える」と言う意味が含まれています。まず、キリストが来てくださった。この主の愛を覚えて感謝しましょう。
ここでは、遠いものを先にして、そこから近い者。つまりユダヤ人達ですが、順番が逆になっています。これは、後のものが先にという教えもありますが、パウロ自身が何より異邦人伝道に召されて、用いられてきた。その使命感からくる表現であるとも言えます。同時に、この異邦人への伝道によって、キリストの教会のより大きな奥義。世界への宣教、全ての国の民がキリストにあって一つという奥義が、実際の出来事として、歴史として明確に表されたということもあると考えられます。実際、パウロを含んだ多くの使徒、伝道者によって宣教は広められていったのですが、パウロ自身、伝道の主体は人ではない。イエス様ご自身である、ということをここで明言しています。
確かに、人は召されて遣わされているけれども、御言によって伝えられているのは、信仰の目を開いていかれるのは、み霊の業だ、主ご自身なのだ、という告白であり、教えであります。これを覚えたいと思います。 続いて18節から19節
<(18)というのは、彼によって、わたしたち両方の者が一つの御霊の中にあって、父のみもとに近づくことができるからである。(19)そこであなたがたは、もはや異国人でも宿り人でもなく、聖徒たちと同じ国籍の者であり、神の家族なのである。>
「彼によって」これは「キリストを通して」という意味でもあります。御父のみもとに至る、道は唯一イエス・キリストであって、その道に導くのも唯一の御霊であります。そして父なる神に近づくことができる。言われています。全能の主なる神様。父なる神、全き義なる神の、聖なる光の前で、私たち罪人は近づくどころか、本来顔を向けることさえかなわない、聖なる光の前に塵とされるようなものですけれども、キリストの義によって、キリストが大きな傘となってくださって、その傘の元で私たちを父の御下に、天の御国に招いてくださるのであります。
そのキリストの下では、全ての人は、他国人でもなく、寄留者・旅人でもなく、同じ天の国籍を持ち、一つの家族。肉の家族ではなく、神の家族。すなわち、教会とは霊の家族なのである、そして同じく御国の相続人とされている。それが教会の姿であると、教えられています。次に20章から22節
<20)またあなたがたは、使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられたものであって、キリスト・イエスご自身が隅のかしら石である。(21)このキリストにあって、建物全体が組み合わされ、主にある聖なる宮に成長し、(22)そしてあなたがたも、主にあって共に建てられて、霊なる神のすまいとなるのである。>
前節までで、あらゆる人はキリストへの信仰によって一つ家族である、そのように教会が表されてきましたが、ここからは教会を建物に例えて、パウロの教えが続きます。この、建物に譬える教え方は、形を変えて度々使われています。第一コリント3章でも使われています。
「あなたがたは」すなわち教会は、使徒たちや預言者たちを土台としている、と語られます。この使徒と預言者。預言者を旧約の預言者と解することもありますが、どちらも新約時代の使徒と預言者と言う解釈が妥当だと言われます。その理由としては、この後の3章5節が挙げられています。そこでパウロは「この奥義は、いまは、御霊によって彼の聖なる使徒たちと預言者たちとに掲示されているが、前の時代には、人の子らに対して、そのように知らされてはいなかったのである」といっております。また、第一コリントの12章28節(271頁)で、「神は教会の中で、人々を立てて、第一に使徒、第二に預言者、第三に教師とし、」と語っています。従って、この土台としている使徒、預言者は新約時代、イエス様の後のもの達と言うことになると考えられています。
それでは、使徒や預言者が土台である、ということはどういうことかと申しますと、それは、彼らに与えられた役目から分かります。使徒はイエス様から霊と力を授かり、キリストを証ししました。預言者は神の言、キリストによって明らかにされた預言を解き明かし、人々に語りました。彼らが土台であるということは、彼らが証し、宣べ伝えたところの福音。すなわち、聖書が土台である。教会は聖書を土台とするということであります。教会を形成するこの世の様々な要素はありますけれども、その土台は聖書のみであって、土台から離れると建物は傾くのであります。
そして、土台をさらに支え、土台足らしめているのがキリストであるということです。「隅のかしら石」というのは、土台をその下で更に固く支える基礎の石、礎石と言うことになります。
基礎からずれた土台は堅いようでも、やがてはゆがみを生じ、土台のゆがみは建物全体におよび、わずかな揺らぎで崩れてしまうものであります。キリストが動かない基礎として、その上に使徒、預言者からなるみ言葉の土台が据えられ、その上に教会が建ちあがっていく、と言うことであります。この順番が大切です。これを間違うと、土台より先に壁や屋根を作ると建物は立ちえないということであります。
それでは、その教会の一員である私たちは一人一人何であるかと言いますと、ここでは教会としての建物全体としか表現されていなので、聖書を一カ所引用します。新約聖書367頁、「ペテロの第一の手紙 2章5節」です。
<この主のみもとにきて、あなたがたも、それぞれ生ける石となって、霊の家に築き上げられ、聖なる祭司となって、イエス・キリストにより、神によろこばれる霊のいけにえを、ささげなさい>
生ける石であると言われています。当時の建物は石造りでしたから、建物に譬えられる中で、そのように石と言う無機物に譬えらえていますが、しかしこの石は生きている石。生きているから、有機的な命の繋がりと交わりを意味します。同時に、生き物ですから不完全で、弱りもすれば、しぼんだり、欠けることもあります。生ける石で建てられた教会というものは、この世にあって命あるうちは未完成なものだ、と言うことであります。
<キリストにあって、建物全体が組み合わされ>
という「組み合わされ」と言う言葉は、正に「組み合わされている最中」「進行中」であることを示す言葉です。
しかし、未完成ですから、逆に、成長もあるのであります。キリストを基礎とし、御言を土台とした教会は、御霊によって成長させられます。22節では、「霊なる神のすまい」と訳されていますが、ここは「御霊によって、神の住まいとなる」と訳すほうが多く、わかりやすいと思います。文語、新共同訳、新改訳も「御霊によって」「御霊により」としています。
つまり、キリストにあって、御霊により聖なる成長があたえられて、神の住まわれるところとなるのであります。聖なる宮と譬えられるように、この世の教会は、小さく、弱く、またその建物が古く、貧相であっても、御言の土台と、その中心なるキリストを基礎として、ずれることがなければ、霊的成長によって、この世のきらびやかな宮殿にまさる、神の住まいとされるのであります。神の住まわれるところ、すなわち御国であります。やがて、召される、キリストの再臨の後に完成する御国。天国。その、この世における前味といわれます。どうぞ主がこの小さな群れを顧みてくださり、罪多き一人一人が生ける石として、御霊によって豊かに養われ、霊的成長が与えられますよう、願うものであります。 (以上)