月報 2021年10月【キリストは誰のためにご自身を捧げられたか】
『わたしはよい羊飼いであって、わたしの羊を知り、わたしの羊はまた、わたしを知っている。それはちょうど、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。そして、わたしは羊のために命を捨てるのである』ヨハネによる福音書 10章 14節から15節
※今年度、8月以降の月報では「カルヴィニズムの5特質」と呼ばれる、聖書が教える5つの原則について,聞いて参りました。今月は、その3つ目で「限定的贖罪」(または「制限的贖罪」)という教理がテーマになります。
◆この御言葉の直前10章11節で、イエス様はご自身を「よい羊飼い」だと表現されました。そして、よい羊飼いは羊のために命を捨てる、と言われています。この15節で、その羊は「わたしの羊」だと明言されました。さらに26節では「あなたがたが信じないのは、わたしの羊ではないからです」と仰いました。
これは、イエス様が命を捨てられるのは、ご自身の羊。つまり、キリストの民のためである、ということであります。ご自身のものでは無い、すべての羊のためではありません。キリストを信じるように、父なる神様が永遠より救いに選ばれ、キリストに与えられた人のために、血を流されたということが分かります。
キリストが誰のために十字架に上がられたか、誰の罪の代価を払われたのか、また、誰のために陰府にまで下られたのか。誰を神と和解させて下さったのか。その答えが明かされています。それは「わたしの羊のため」でありました。エペソ人への手紙5章25節では「キリストが教会を愛してそのためにご自身をささげられた」と書かれているように、キリストの花嫁に例えられる、全ての主の民の集合体である、教会のためにご自身を捧げられたと表しています。これがキリストの「限定的贖罪」(または制限的贖罪)と言われる教理であります。
限定的という言葉は、キリストの贖罪の御業の力、効果が限定的なのではなく、その対象、適用範囲が「わたしの羊」に限定されていることを表しています。これは翻って、その救いの効力は限定的ではなく最大限で完全であることを保証しているのです。神が救おうとされた者は、完全に漏れなくキリストの下に集められ、救われます。流された御子の血は、無造作にばら撒かれたのではなく、受け取らない人によって、わずか一滴でも無駄にされることなく、完璧に“すべての”「主の民のため」に用いられ、一人も取りこぼすことなく贖われたのであります。キリストが流された血は、完全にその役目を果たされます。私たちに与えられた信仰による、救いの確信もそこに源があります。
私たちは弱い者です。叶うならば、全ての人が救われるようであって欲しいと願います。その思いが「彼は全ての人のために死なれた」(Ⅱコリント5章15)や、「彼は、すべての人の贖いとしてご自身をささげられた」(Ⅰテモテ2章6)等の聖句によって、キリストは全ての人、全人類のために死なれた。贖われた、と考えます。しかしこの理解から生まれるのは、自動的にすべての人が救われると言った考えや、キリストが示された救いの道、贖いの血を、人が自分の意志で受け取るのも拒むのも自由で、受け取らない者は救われない、と言った誤った聖書理解になります。神様の恵みのご計画、御心を、人の都合に合わせようとしてしまいます。
キリストは彼の花嫁なる教会にご自身を捧げられました。花嫁以外に身を捧げることはありえないのです。聖書で「すべての人」「世界」と言われる時は、前後の文脈から読み取る必要があります。多くの場合「すべて」という表現は、ユダヤ人だけでなく、全ての民族、世界の全ての国の人々に及ぶことを指し「人類全員」ではないことが分かります。神が愛する者達をあらかじめ定めておられた、(ローマ8章28~29節)一方的恩寵による選びについては、聖書が繰り返しはっきりと教えています。御子は、父の救いのご計画を完全に果たされました。ですから、ほんの少しの、わずかな信仰と思えるようであっても、それは御霊によってイエス様が常に共にいて下さる、救いの証しです。それゆえ私たちは安心して、この方にお任せして、この方に聞いて、より頼んで歩む幸いが与えられているのです。
このように、与えられた信仰によって自分の救いは確信できますが、その反面、誰が救われないか、選ばれていないかを、私たちは知ることが適いません。ですから、御霊のお働きを信じ、御心であることを祈りつつ、一人でも多くの方に、少しでも御言葉の福音を届けたいと願うのであります。◆