悔い改めの実現
1:時に主の言葉は再びヨナに臨んで言った、
2:「立って、あの大きな町ニネベに行き、あなたに命じる言葉をこれに伝えよ」。
3:そこでヨナは主の言葉に従い、立って、ニネベに行った。ニネベは非常に大きな町であって、これを行きめぐるには、三日を要するほどであった。
4:ヨナはその町にはいり、初め一日路を行きめぐって呼ばわり、「四十日を経たらニネベは滅びる」と言った。
5:そこでニネベの人々は神を信じ、断食をふれ、大きい者から小さい者まで荒布を着た。
6:このうわさがニネベの王に達すると、彼はその王座から立ち上がり、朝服を脱ぎ、荒布をまとい、灰の中に座した。
7:また王とその大臣の布告をもって、ニネベ中にふれさせて言った、「人も獣も牛も羊もみな、何をも味わってはならない。物を食い、水を飲んではならない。
8:人も獣も荒布をまとい、ひたすら神に呼ばわり、おのおのその悪い道およびその手にある強暴を離れよ。
9:あるいは神はみ心をかえ、その激しい怒りをやめて、われわれを滅ぼされないかもしれない。だれがそれを知るだろう」。
10:神は彼らのなすところ、その悪い道を離れたのを見られ、彼らの上に下そうと言われた災を思いかえして、これをおやめになった。ヨナ書 3章 1節から10節
『8:人も獣も荒布をまとい、ひたすら神に呼ばわり、おのおのその悪い道およびその手にある強暴を離れよ。
9:あるいは神はみ心をかえ、その激しい怒りをやめて、われわれを滅ぼされないかもしれない。だれがそれを知るだろう」。10:神は彼らのなすところ、その悪い道を離れたのを見られ、彼らの上に下そうと言われた災を思いかえして、これをおやめになった。』
ヨナ書の3章8節から10節の御言葉です。ここに、北イスラエルを滅ぼすことになる、敵国アッスリヤの首都、ニネベにおける宣教が、何と大成功したこと。偶像礼拝の国が、悔い改めて主なる神のみ前に、平伏したことが記されています。本日はこの3章の御言葉に聞いてまいりたいと思います。
まず、イスラエルの脅威であった、アッスリヤの首都ニネベに行って、神の言葉を伝えよという主の召しに背き、船に乗って逃げようとした預言者ヨナを、主が暴風をもって引き止められました。荒れた海を鎮め、船の人々を助けるために、ヨナは自らを海に投げ入れるよう進言し、実際、海に投げ落とされました。その結果、海は静まり、船の人々は助かって、主を恐れ、誓いを立てるようになりました。これは、ヨナを投げ入れることが、主のご計画、御心であったということであります。同時にヨナもまた、荒れた海深く飲み込まれ、その命が途絶えそうなときに、主が備えられた大きな魚によって飲み込まれ、そのお腹の中で、命を保たれることになりましたま。先週は、ヨナがその魚の腹の中で、主に祈ったという祈り。感謝の讃美の祈りを聞いてまいりました。
この出来事によって、ヨナの心は、あらためて主への従順と、主に従おうという思いに導かれました。そして、主の御心であったニネベ宣教に取り組む覚悟が整えられ、それを認められた主が、魚に命じ、ヨナを陸地に吐き出されることになりました。そこからヨナはニネべに向かうことになりますが、ニネベは今で言う、イラクの北部、トルコとシリアの国境近くですから、地中海沿岸からだと、6~700km相当距離があったことが分かります。
余談ですが、このヨナ書については、かつて科学主義、自由主義神学が台頭してきたころ、ここに書かれた大きな魚の出来事などが、非科学的で、古代の神話的な物語という指摘がされたこともありした。ただ、20世紀初頭に同様の事件があり、1985年には、鯨に飲み込まれた男性が36時間後に、救出される出来事が記録されています。この方は、鯨の体内で皮膚が真っ白になり、失明されたとようです。ただ、実際にあったから正しいのではなく、ご自身の言葉である聖書によって神様が教えて下さっているのは、創造主なる神は、森羅万象を支配され、自由に用いられるということ。時には人の限られた知見を超えて、超自然的に働かれます。それは、神がご自身を私たちにお示しになり、私たちを救うための御業なのだということを、心に刻みたいと思います。
さて、御言葉に戻ります。1節から3節前半。
『1:時に主の言葉は再びヨナに臨んで言った、2:「立って、あの大きな町ニネベに行き、あなたに命じる言葉をこれに伝えよ」。3:そこでヨナは主の言葉に従い、立って、ニネベに行った。』
主の言葉がヨナに対し、「再び臨んだ」というように、一度はヨナが拒んだ主の召しを、あらためて同じことを告げられます。これに対してヨナは、主に御前からは逃れ得ないこと。また、死の淵から救って下さるお方であったことを悟り、感謝し、今度は主の言葉に従いました。
ここから、主がまことに真実な方で、忍耐強くあられる。怒ること遅く、慈しみに満ちておられることを教えられたいと思います。一度、主に背を向けたものを主は捨て給わず、御手をもって捉えていて下さり、守り、強めてお用いになりました。旧約聖書では、前にも聞きました通り、あのモーセですら、三度も主の召しにしり込みし、抵抗しました。その時主は彼の不安を忍耐強く取り除いていかれました。そして、主のご計画の、大きな役目を果すように用いられます。偉大な預言者イザヤも召された時一度断ります。エレミヤもまた主なる神の言葉が臨んだ時、「わたしは、ただ若者にすぎず、どのように語ってよいか知りません」と、直ちに従うにではなく、しり込みをしていました。
新約聖書でも、福音書記者のマルコが、パウロの伝道旅行についていけず、途中で脱落してしまうことがありました。パウロは彼を非難し、次はもう一緒に行かない、と言ったこともあります。それでも主はマルコを福音書の記者としてお用いになりました。ペテロは三度主を知らないと言ったことは有名ですが、ペンテコステの後でも、あちこちに住むユダヤ人への伝道は熱心に行っていましたが、全くの異邦人への宣教は、慎重で懐疑的であったことが分かります。ペテロがそれを悟って、変えられたのは使徒行伝の10章に記されています。それは主の幻と、御霊によって示されました。
いずれにしても、主の御用への召し、ということについて、歴史上大きな働きを成してきた多くの先人たちも、弱さを覚え、しり込みし、また挫折し、あるいはヨナのように逃げ出す、ということまでしてしまいます。ただ、それにもかかわらず、主はご自身が召されたもの愛され、慈しんで、赦されて、御心のなるように導き、お用いになるのであります。一ヶ所聖書を引用致します。ネヘミヤ書9章17節。旧約聖書676頁。
「17:従うことを拒み、あなたが彼らの中で行われた奇跡を心にとめず、かえってかたくななり、みずからひとりのかしらを立てて、エジプトの奴隷の生活に帰ろうとしました。しかしあなたは罪をゆるす神、恵みあり、あわれみあり、怒ることおそく、いつくしみ豊かにましまして、彼らを捨てられませんでした。」
主が召されるということ。大変大きな御用もあれば、日々の小さな事柄であっても、主の御用に用いられる事、与えられるということは、私たちが赦されている、ということの証しであり、恵まれていることの証拠であります。私たちは、キリストにあって赦されて、さらに祝福を受けて、こうして主の礼拝にあずかることができているのであります。確かに、礼拝を通して私たちは、豊かな祝福と、慰め、励ましを賜るのですけれども、むしろ、礼拝は、御名を讃えて主を讃美し、共に祈りを捧げる、主の御栄光のための、大切なご奉仕に、赦されて、召されて用いられているのであります。主が捉えていて下さり、用いられて礼拝を守ることができることを、覚え感謝したいと思います。
3章3節後半から5節に進みます。
「3b:ニネベは非常に大きな町であって、これを行きめぐるには、三日を要するほどであった。4:ヨナはその町にはいり、初め一日路を行きめぐって呼ばわり、「四十日を経たらニネベは滅びる」と言った。5:そこでニネベの人々は神を信じ、断食をふれ、大きい者から小さい者まで荒布を着た。」
ニネベに着いたヨナは、神の告げられた言葉を伝えて回りました。ここでは「40日が過ぎたら、ニネベが滅びる」という内容だけが記されています。この滅びるという言葉は、かつて創世記で有名なソドムとゴモラを、主が「滅ぼされた」時と同じ言葉です。ニネベは滅ぼされるという、ただそのことを、ヨナは一日中叫びながら、町中を歩き回ったということです。船に乗って正反対の海のはてまで逃げようとしたヨナは、神に従順従う者とされました。本当は、主の御心、御言葉が臨んだなら、直ちに従順に聞き従うということが望ましいのでしょうけれども、先にもありましたように、一度に二度と、逡巡しつつみも、最終的には、主が慈しみをもって、私たちを整え、従う者としてお用いになってくださるのであります。ここでは、ヨナがそこに至るまでの大変な出来事はありましたが、その後、宣教に向かうヨナを取り囲む環境に何ら変わりはありません。主は、その御業をもってヨナの心を変えたもうた。それによってヨナは主に従う者として、再び立って、主のご用を果たしていったのであります。
さて、このヨナの宣教。神の御言葉を宣べ伝えた結果です。他国からそれもどちらかと言えば敵対するあるいは、自分達より小さな国から来た人物が、首都である大きな町の中を、「あと40日で滅びる」と大声で触れて回った結果、なんと、5節にある通り、
「ニネベの人々は神を信じ、断食をふれ、大きい者から小さい者まで荒布を着た。」
つまり、ヨナの言葉を、まさしくこれは神の言葉であると信じ、悔い改めたのであります。そして断食をして、荒布を着たと記されています。大きい者小さい者というのは、身分の上下なく、年齢、貧富関係なく、あらゆる立場の人々という意味です。
このことは、宣教は「神の御言葉のみ」がそれをなし得ることを教えています。ヨナの社会的な立場や権威、権力、弁論や、証拠を並べ立てたわけではありません。40日後に滅びるという、主なる神が告げられたその言葉だけによって、神の言葉を通して働かれる御霊によって、ニネベの全ての人々が、神を信じるに至りました。御言葉によって神を信じる、これが第一の点であります。言い換えれば、宣教は神の御霊の業であり、信仰は与えられるものだということであります。
コリント人へ第一の手紙1章21節を見ますと(新約257頁)。
「この世は、自分の知恵によって神を認めるに至らなかった。それは、神の知恵にかなっている。そこで神は、宣教の愚かさによって、信じる者を救うこととされたのである。」
このように教えられています。神様は、人間の知恵で考え、思いつく。または造り出すような、様々な方法や証明、印ではなくて、神の言葉の宣教という方法を、人々を救う手段。キリストの民を招き集める、唯一の牧者の声として定めたもうたのであります。
そして教えられる第二の点は、神を信じた人々が、直ちに、行動に表したというところにあります。ヨナの宣べ伝えた神の言葉には、何も条件が付いていません。生贄を捧げよとも、断食せよとも言っていないです。しかし、神の言葉を聞いた人人は、その意味するところを悟ったということであります。
元々、主がヨナをニネベに向かわせたのは「彼らの悪がわたしの前にのぼってきたから」と主は仰っていました。1章の2節です。ニネベの人々は、神のみ前に自分たちの罪あることを知り、本当に滅びてしまうことに気づいて、同時に、滅びからの救いに希望をおいた、主が救って下さるかもしれないと、わずかな希望にすがって、悔い改めためました。断食と荒布をまとうことで、全ての栄華、誇り、欲望を捨ててることを示し、主の前に平伏しました。
このニネベの町の悔い改めは、さらに進んでいきます。6節から9節。
『6:このうわさがニネベの王に達すると、彼はその王座から立ち上がり、朝服を脱ぎ、荒布をまとい、灰の中に座した。7:また王とその大臣の布告をもって、ニネベ中にふれさせて言った、「人も獣も牛も羊もみな、何をも味わってはならない。物を食い、水を飲んではならない。8:人も獣も荒布をまとい、ひたすら神に呼ばわり、おのおのその悪い道およびその手にある強暴を離れよ。9:あるいは神はみ心をかえ、その激しい怒りをやめて、われわれを滅ぼされないかもしれない。だれがそれを知るだろう」。』
町中の人々が、ヨナの伝える神の言葉を聞き、神を信じ悔い改める姿は、やがてニネベの王に届きます。王と表現されますが、当時の習慣から考えると首都ニネベの統治者。知事と言うような行政長官と言われています。いずれにしても、主とのトップ。最も高い位にあったものも、ヨナの言葉を信じることになりました。王座から立ち上がり、朝服を脱ぐということは、王でも支配者でもなく、ただ主のみ前に、町の人々と平民と変わりない、ただ一人の人である、ということを認めた姿。例えこの世の位がどうであっても、主に御前に誇るべきものはない、ということを表したのであります。灰の中に座すというのは、嘆き悲しみ、改悛するときの習慣であります。
ここから、地上の位が高い者、裕福な者、権威や権力あるものが、主の前にひれ伏す、ということの困難さと、同時に大切さが教えられます。私たちが、こので人目を引くような地位を得たり、特権や、繁栄を与えられ、順境に置かれている時、自分の罪を覚え、また心から、救いを求める事の困難さを思います。ヨナ自身も、預言者として用いられ、イスラエルで認められていた時、主に背を向けました。しかし、命の危機を経て、死の闇の淵からの主の救いの御業を通して、従順にみちびかれました。私たちが、困難を覚え、苦しみや、悩み、弱さを覚える時にこそ、そこに主の憐みと恵みが注がれ、表わされることを覚えたいと思います。自分自身にとっては不都合で、思い通りでではないけれども、信じる者に対して、主は確かな守りと導きをお示し下さるのであります。それが、例え私たち自身が、その時気づいていなくとも、主はとらえていて下さることを覚えましょう。
さて、ニネベで示された、主の言葉の救いの御業は、さらに力強く、幸いなものでありました。町の最高権力者が、主を信じたのであります。すなわち、この世のあらゆる権威権力の上に、主なる神様のご主権があることを、町中に知らしめたということであります。そうして、町中に、主のみ前に正式に悔い改めるよう、布告いたしました。悪意や悪事、暴虐から離れ、ひたすら神に呼ばわるように。力の限り叫び求める、熱心に祈るということを求めました。そうすることで、主が、滅ぼされず、救って下さるかもしれない。どうなるか誰も知ることはできないが、悔い改めて主に祈るしかない、ということを告白し、宣言したのであります。第一テモテの2章1節以降でパウロが「王たちと上に立っているすべての人々のために、願いと、祈りと、とりなしと、感謝とを捧げなさい」と教えているのはこのことであります。残念ながら、わが国では正にこの点において、まだまだ困難な壁が立ち塞がっています。
この、8節から9節では、同じ単語が、バラバラに訳されています。8節の「強暴を離れ」という「離れる」と、9節の「みこころを変え」の「変える」。「怒りをやめる」の「やめる」。この三つは、すべて同じ言葉で、一般には「悔い改める」訳されますが、言葉の意味としては「戻る」、「立ち返る」という言葉です。
果たして、10節で
「10:神は彼らのなすところ、その悪い道を離れたのを見られ、彼らの上に下そうと言われた災を思いかえして、これをおやめになった。」
神はニネべの町をお守りになりました。主の民イスラエルの敵、アッスリヤの首都。暴虐に満ちた町を救われたのであります。「神は思い返して」と書かれていますが、主が御心を変えられのではありません。主は、この町の人々を滅びから救うことを決めて、そのためにヨナを、奇跡の業を通して遣わされたのであります。ニネベの救いは、ヨナの力でも、人々の悔い改めでもなく、それらをもたらされた、主のご計画であり、慈しみと憐れみによる御業が実行されたことが示されました。どうぞ、主がいまだ、主を知る民の少ないわが国において、また主の民が迫害されるような世界の国々において、その御言葉を通して、あなたの民を御許へと立ち返らせ、お救い下さるよう祈りたいと思います。