悔い改めの実現

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悔い改めの実現

1:時に主の言葉は再びヨナに臨んで言った、
2:「立って、あの大きな町ニネベに行き、あなたに命じる言葉をこれに伝えよ」。
3:そこでヨナは主の言葉に従い、立って、ニネベに行った。ニネベは非常に大きな町であって、これを行きめぐるには、三日を要するほどであった。
4:ヨナはその町にはいり、初め一日路を行きめぐって呼ばわり、「四十日を経たらニネベは滅びる」と言った。
5:そこでニネベの人々は神を信じ、断食をふれ、大きい者から小さい者まで荒布を着た。
6:このうわさがニネベの王に達すると、彼はその王座から立ち上がり、朝服を脱ぎ、荒布をまとい、灰の中に座した。
7:また王とその大臣の布告をもって、ニネベ中にふれさせて言った、「人も獣も牛も羊もみな、何をも味わってはならない。物を食い、水を飲んではならない。
8:人も獣も荒布をまとい、ひたすら神に呼ばわり、おのおのその悪い道およびその手にある強暴を離れよ。
9:あるいは神はみ心をかえ、その激しい怒りをやめて、われわれを滅ぼされないかもしれない。だれがそれを知るだろう」。
10:神は彼らのなすところ、その悪い道を離れたのを見られ、彼らの上に下そうと言われた災を思いかえして、これをおやめになった。ヨナ書 3章 1節から10節

『8:人も獣も荒布をまとい、ひたすら神に呼ばわり、おのおのその悪い道およびその手にある強暴を離れよ。
9:あるいは神はみ心をかえ、その激しい怒りをやめて、われわれを滅ぼされないかもしれない。だれがそれを知るだろう」。10:神は彼らのなすところ、その悪い道を離れたのを見られ、彼らの上に下そうと言われた災を思いかえして、これをおやめになった。』
 ヨナ書の3章8節から10節の御言葉です。ここに、北イスラエルを滅ぼすことになる、敵国アッスリヤの首都、ニネベにおける宣教が、何と大成功したこと。偶像礼拝の国が、悔い改めて主なる神のみ前に、平伏したことが記されています。本日はこの3章の御言葉に聞いてまいりたいと思います。

まず、イスラエルの脅威であった、アッスリヤの首都ニネベに行って、神の言葉を伝えよという主の召しに背き、船に乗って逃げようとした預言者ヨナを、主が暴風をもって引き止められました。荒れた海を鎮め、船の人々を助けるために、ヨナは自らを海に投げ入れるよう進言し、実際、海に投げ落とされました。その結果、海は静まり、船の人々は助かって、主を恐れ、誓いを立てるようになりました。これは、ヨナを投げ入れることが、主のご計画、御心であったということであります。同時にヨナもまた、荒れた海深く飲み込まれ、その命が途絶えそうなときに、主が備えられた大きな魚によって飲み込まれ、そのお腹の中で、命を保たれることになりましたま。先週は、ヨナがその魚の腹の中で、主に祈ったという祈り。感謝の讃美の祈りを聞いてまいりました。
 この出来事によって、ヨナの心は、あらためて主への従順と、主に従おうという思いに導かれました。そして、主の御心であったニネベ宣教に取り組む覚悟が整えられ、それを認められた主が、魚に命じ、ヨナを陸地に吐き出されることになりました。そこからヨナはニネべに向かうことになりますが、ニネベは今で言う、イラクの北部、トルコとシリアの国境近くですから、地中海沿岸からだと、6~700km相当距離があったことが分かります。

 余談ですが、このヨナ書については、かつて科学主義、自由主義神学が台頭してきたころ、ここに書かれた大きな魚の出来事などが、非科学的で、古代の神話的な物語という指摘がされたこともありした。ただ、20世紀初頭に同様の事件があり、1985年には、鯨に飲み込まれた男性が36時間後に、救出される出来事が記録されています。この方は、鯨の体内で皮膚が真っ白になり、失明されたとようです。ただ、実際にあったから正しいのではなく、ご自身の言葉である聖書によって神様が教えて下さっているのは、創造主なる神は、森羅万象を支配され、自由に用いられるということ。時には人の限られた知見を超えて、超自然的に働かれます。それは、神がご自身を私たちにお示しになり、私たちを救うための御業なのだということを、心に刻みたいと思います。

 さて、御言葉に戻ります。1節から3節前半。
『1:時に主の言葉は再びヨナに臨んで言った、2:「立って、あの大きな町ニネベに行き、あなたに命じる言葉をこれに伝えよ」。3:そこでヨナは主の言葉に従い、立って、ニネベに行った。』
主の言葉がヨナに対し、「再び臨んだ」というように、一度はヨナが拒んだ主の召しを、あらためて同じことを告げられます。これに対してヨナは、主に御前からは逃れ得ないこと。また、死の淵から救って下さるお方であったことを悟り、感謝し、今度は主の言葉に従いました。
ここから、主がまことに真実な方で、忍耐強くあられる。怒ること遅く、慈しみに満ちておられることを教えられたいと思います。一度、主に背を向けたものを主は捨て給わず、御手をもって捉えていて下さり、守り、強めてお用いになりました。旧約聖書では、前にも聞きました通り、あのモーセですら、三度も主の召しにしり込みし、抵抗しました。その時主は彼の不安を忍耐強く取り除いていかれました。そして、主のご計画の、大きな役目を果すように用いられます。偉大な預言者イザヤも召された時一度断ります。エレミヤもまた主なる神の言葉が臨んだ時、「わたしは、ただ若者にすぎず、どのように語ってよいか知りません」と、直ちに従うにではなく、しり込みをしていました。
 新約聖書でも、福音書記者のマルコが、パウロの伝道旅行についていけず、途中で脱落してしまうことがありました。パウロは彼を非難し、次はもう一緒に行かない、と言ったこともあります。それでも主はマルコを福音書の記者としてお用いになりました。ペテロは三度主を知らないと言ったことは有名ですが、ペンテコステの後でも、あちこちに住むユダヤ人への伝道は熱心に行っていましたが、全くの異邦人への宣教は、慎重で懐疑的であったことが分かります。ペテロがそれを悟って、変えられたのは使徒行伝の10章に記されています。それは主の幻と、御霊によって示されました。
 
 いずれにしても、主の御用への召し、ということについて、歴史上大きな働きを成してきた多くの先人たちも、弱さを覚え、しり込みし、また挫折し、あるいはヨナのように逃げ出す、ということまでしてしまいます。ただ、それにもかかわらず、主はご自身が召されたもの愛され、慈しんで、赦されて、御心のなるように導き、お用いになるのであります。一ヶ所聖書を引用致します。ネヘミヤ書9章17節。旧約聖書676頁。
「17:従うことを拒み、あなたが彼らの中で行われた奇跡を心にとめず、かえってかたくななり、みずからひとりのかしらを立てて、エジプトの奴隷の生活に帰ろうとしました。しかしあなたは罪をゆるす神、恵みあり、あわれみあり、怒ることおそく、いつくしみ豊かにましまして、彼らを捨てられませんでした。」
 主が召されるということ。大変大きな御用もあれば、日々の小さな事柄であっても、主の御用に用いられる事、与えられるということは、私たちが赦されている、ということの証しであり、恵まれていることの証拠であります。私たちは、キリストにあって赦されて、さらに祝福を受けて、こうして主の礼拝にあずかることができているのであります。確かに、礼拝を通して私たちは、豊かな祝福と、慰め、励ましを賜るのですけれども、むしろ、礼拝は、御名を讃えて主を讃美し、共に祈りを捧げる、主の御栄光のための、大切なご奉仕に、赦されて、召されて用いられているのであります。主が捉えていて下さり、用いられて礼拝を守ることができることを、覚え感謝したいと思います。
 
 3章3節後半から5節に進みます。
「3b:ニネベは非常に大きな町であって、これを行きめぐるには、三日を要するほどであった。4:ヨナはその町にはいり、初め一日路を行きめぐって呼ばわり、「四十日を経たらニネベは滅びる」と言った。5:そこでニネベの人々は神を信じ、断食をふれ、大きい者から小さい者まで荒布を着た。」
 ニネベに着いたヨナは、神の告げられた言葉を伝えて回りました。ここでは「40日が過ぎたら、ニネベが滅びる」という内容だけが記されています。この滅びるという言葉は、かつて創世記で有名なソドムとゴモラを、主が「滅ぼされた」時と同じ言葉です。ニネベは滅ぼされるという、ただそのことを、ヨナは一日中叫びながら、町中を歩き回ったということです。船に乗って正反対の海のはてまで逃げようとしたヨナは、神に従順従う者とされました。本当は、主の御心、御言葉が臨んだなら、直ちに従順に聞き従うということが望ましいのでしょうけれども、先にもありましたように、一度に二度と、逡巡しつつみも、最終的には、主が慈しみをもって、私たちを整え、従う者としてお用いになってくださるのであります。ここでは、ヨナがそこに至るまでの大変な出来事はありましたが、その後、宣教に向かうヨナを取り囲む環境に何ら変わりはありません。主は、その御業をもってヨナの心を変えたもうた。それによってヨナは主に従う者として、再び立って、主のご用を果たしていったのであります。
 さて、このヨナの宣教。神の御言葉を宣べ伝えた結果です。他国からそれもどちらかと言えば敵対するあるいは、自分達より小さな国から来た人物が、首都である大きな町の中を、「あと40日で滅びる」と大声で触れて回った結果、なんと、5節にある通り、
「ニネベの人々は神を信じ、断食をふれ、大きい者から小さい者まで荒布を着た。」
 つまり、ヨナの言葉を、まさしくこれは神の言葉であると信じ、悔い改めたのであります。そして断食をして、荒布を着たと記されています。大きい者小さい者というのは、身分の上下なく、年齢、貧富関係なく、あらゆる立場の人々という意味です。
 このことは、宣教は「神の御言葉のみ」がそれをなし得ることを教えています。ヨナの社会的な立場や権威、権力、弁論や、証拠を並べ立てたわけではありません。40日後に滅びるという、主なる神が告げられたその言葉だけによって、神の言葉を通して働かれる御霊によって、ニネベの全ての人々が、神を信じるに至りました。御言葉によって神を信じる、これが第一の点であります。言い換えれば、宣教は神の御霊の業であり、信仰は与えられるものだということであります。
 コリント人へ第一の手紙1章21節を見ますと(新約257頁)。
「この世は、自分の知恵によって神を認めるに至らなかった。それは、神の知恵にかなっている。そこで神は、宣教の愚かさによって、信じる者を救うこととされたのである。」
 このように教えられています。神様は、人間の知恵で考え、思いつく。または造り出すような、様々な方法や証明、印ではなくて、神の言葉の宣教という方法を、人々を救う手段。キリストの民を招き集める、唯一の牧者の声として定めたもうたのであります。
そして教えられる第二の点は、神を信じた人々が、直ちに、行動に表したというところにあります。ヨナの宣べ伝えた神の言葉には、何も条件が付いていません。生贄を捧げよとも、断食せよとも言っていないです。しかし、神の言葉を聞いた人人は、その意味するところを悟ったということであります。
 元々、主がヨナをニネベに向かわせたのは「彼らの悪がわたしの前にのぼってきたから」と主は仰っていました。1章の2節です。ニネベの人々は、神のみ前に自分たちの罪あることを知り、本当に滅びてしまうことに気づいて、同時に、滅びからの救いに希望をおいた、主が救って下さるかもしれないと、わずかな希望にすがって、悔い改めためました。断食と荒布をまとうことで、全ての栄華、誇り、欲望を捨ててることを示し、主の前に平伏しました。
 
 このニネベの町の悔い改めは、さらに進んでいきます。6節から9節。
『6:このうわさがニネベの王に達すると、彼はその王座から立ち上がり、朝服を脱ぎ、荒布をまとい、灰の中に座した。7:また王とその大臣の布告をもって、ニネベ中にふれさせて言った、「人も獣も牛も羊もみな、何をも味わってはならない。物を食い、水を飲んではならない。8:人も獣も荒布をまとい、ひたすら神に呼ばわり、おのおのその悪い道およびその手にある強暴を離れよ。9:あるいは神はみ心をかえ、その激しい怒りをやめて、われわれを滅ぼされないかもしれない。だれがそれを知るだろう」。』
 町中の人々が、ヨナの伝える神の言葉を聞き、神を信じ悔い改める姿は、やがてニネベの王に届きます。王と表現されますが、当時の習慣から考えると首都ニネベの統治者。知事と言うような行政長官と言われています。いずれにしても、主とのトップ。最も高い位にあったものも、ヨナの言葉を信じることになりました。王座から立ち上がり、朝服を脱ぐということは、王でも支配者でもなく、ただ主のみ前に、町の人々と平民と変わりない、ただ一人の人である、ということを認めた姿。例えこの世の位がどうであっても、主に御前に誇るべきものはない、ということを表したのであります。灰の中に座すというのは、嘆き悲しみ、改悛するときの習慣であります。
 ここから、地上の位が高い者、裕福な者、権威や権力あるものが、主の前にひれ伏す、ということの困難さと、同時に大切さが教えられます。私たちが、こので人目を引くような地位を得たり、特権や、繁栄を与えられ、順境に置かれている時、自分の罪を覚え、また心から、救いを求める事の困難さを思います。ヨナ自身も、預言者として用いられ、イスラエルで認められていた時、主に背を向けました。しかし、命の危機を経て、死の闇の淵からの主の救いの御業を通して、従順にみちびかれました。私たちが、困難を覚え、苦しみや、悩み、弱さを覚える時にこそ、そこに主の憐みと恵みが注がれ、表わされることを覚えたいと思います。自分自身にとっては不都合で、思い通りでではないけれども、信じる者に対して、主は確かな守りと導きをお示し下さるのであります。それが、例え私たち自身が、その時気づいていなくとも、主はとらえていて下さることを覚えましょう。
 
 さて、ニネベで示された、主の言葉の救いの御業は、さらに力強く、幸いなものでありました。町の最高権力者が、主を信じたのであります。すなわち、この世のあらゆる権威権力の上に、主なる神様のご主権があることを、町中に知らしめたということであります。そうして、町中に、主のみ前に正式に悔い改めるよう、布告いたしました。悪意や悪事、暴虐から離れ、ひたすら神に呼ばわるように。力の限り叫び求める、熱心に祈るということを求めました。そうすることで、主が、滅ぼされず、救って下さるかもしれない。どうなるか誰も知ることはできないが、悔い改めて主に祈るしかない、ということを告白し、宣言したのであります。第一テモテの2章1節以降でパウロが「王たちと上に立っているすべての人々のために、願いと、祈りと、とりなしと、感謝とを捧げなさい」と教えているのはこのことであります。残念ながら、わが国では正にこの点において、まだまだ困難な壁が立ち塞がっています。
 この、8節から9節では、同じ単語が、バラバラに訳されています。8節の「強暴を離れ」という「離れる」と、9節の「みこころを変え」の「変える」。「怒りをやめる」の「やめる」。この三つは、すべて同じ言葉で、一般には「悔い改める」訳されますが、言葉の意味としては「戻る」、「立ち返る」という言葉です。
 果たして、10節で
「10:神は彼らのなすところ、その悪い道を離れたのを見られ、彼らの上に下そうと言われた災を思いかえして、これをおやめになった。」
神はニネべの町をお守りになりました。主の民イスラエルの敵、アッスリヤの首都。暴虐に満ちた町を救われたのであります。「神は思い返して」と書かれていますが、主が御心を変えられのではありません。主は、この町の人々を滅びから救うことを決めて、そのためにヨナを、奇跡の業を通して遣わされたのであります。ニネベの救いは、ヨナの力でも、人々の悔い改めでもなく、それらをもたらされた、主のご計画であり、慈しみと憐れみによる御業が実行されたことが示されました。どうぞ、主がいまだ、主を知る民の少ないわが国において、また主の民が迫害されるような世界の国々において、その御言葉を通して、あなたの民を御許へと立ち返らせ、お救い下さるよう祈りたいと思います。

2021年度 メッセージ一覧

ヨナに勝るもの

■イエス様は、預言者ヨナと、イスラエルの王ソロモンという、旧約聖書の二人の人物を引きあいに、ご自身と…

月報 2021年11月【誰が神の愛をさまたげ得るか】

 

まことの光が世に来た

■「初めに言があった」という有名な言葉で始まる「ヨハネによる福音書」の1章から、クリスマスの出来事に…

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■有名なメシヤ預言、イザヤ書53章です。キリスト降誕の700年以上前に、彼のご生涯が予言されていました。■

必ず地に立たれる

■サタンの試みにより、大きな困難と苦しみを受けたヨブ。友人達との議論や神への問いかけの中に、やがて地…

月報 2021年10月【キリストは誰のためにご自身を捧げられたか】

 

心は舌に表れる

■ヤコブの手紙3章前半では、語るという行為の中に、信仰と行いの一体の大切さが教えられます。

生きる信仰

■ヤコブによる手紙の2章後半、手紙のメインテーマ「信仰は行いと共に働いて生きる信仰になる」ことが教え…

憐みは裁きに勝つ

魂を救う力

■イエス・キリストの兄弟ヤコブが記した手紙は、試練と誘惑の中で弱っていた人々を励まし、導くものでした…

全ての善い贈り物

■ヤコブの手紙1章9~18節から、試練に潜む誘惑と耐える力。神様が贈って下さる真の富について、教えられた…

試練を喜んで

■新約聖書中、最も早い時期に記されたとされる、ヤコブの手紙。イエス・キリストの兄弟が書いたこの手紙に…

主は聖霊によりて宿り

■これまで、マタイによる福音書の冒頭にあるイエスキリストの系図から、そこに出てくる5人の女性に着目し…

神は世界を憐れむ

■ヨナが神の言葉を叫んで回ると、ニネベの町中、王や高官まで主の前に平伏し、悔い改める姿を示しました。…

悔い改めの実現

■嵐の海に投げ込まれたヨナは、大きな魚に飲み込まれ、救い出されました。魚の腹の中で整えられたヨナは3…

ヨナの祈り

■荒れた海を鎮め、船員を助けるために海に投げ落とされたヨナは、神が備えられた大魚に飲み込まれます。そ…

御手はどこまでも

■神様の命に背き逃れようとしてヨナが乗った船を、神様が暴風をもって遮られます。今にも沈没しそうな中、…

月報 2021年9月【救いへの選びは無条件】

 前回「全的堕落」ということについて御言葉に聞きました。人はアダムの堕落以来「全ての部分で」悪くな…

神が遣わされる

◆紀元前8世紀。神様から、強大な敵国へ行って神の宣告を伝えるよう命じられた、預言者ヨナは、それを逃れ…

ここからの一歩

■ピリピ人への手紙3章から。私たちは人生において、ただ一つの目標を目指し進んでいること。その歩みが完…

月報 2021年8月【救いは神の御業】

 先月、ヤコブの手紙で「御言を行う人になりなさい」と教えられましたが、それは、神様の御心に適う事。…

主に仕えます

■ヨシュアに導かれて、主なる神が約束された地、カナンに入植を果たしたイスラエルの民に対して、ヨシュア…

信仰の戦い

■エペソ人への手紙の最終章から、信仰の戦いということについて教えられます。

第一の教え

■エペソ人への手紙6章から、パウロのは、親子関係、主従関係の在り方について教えていきます。

キリストと教会

■教会の一致をもたらす、クリスチャンの交わり。今朝は、その基礎となる夫婦関係について、キリストと教会…

聖霊に満たされて

■エペソ人への手紙5章から、今の時代を幸せに生きるために必要なこと。何を求めて、何を心掛けるかが教え…

光に歩め

■エペソ人への手紙5章から、クリスチャンに与えられて、約束されている幸いな生き方について、教えられた…

預言者ナタンの知恵

■マタイによる福音書冒頭のイエス・キリストの系図にある、5人の女についてみ言葉に聴いて参りましたが、…

月報2021年7月 【御言を行う人になりなさい】

◆先月は先月は、御言葉を語り、また聞くために「熱心と準備と祈り」を持つことの大切さを教えられました。…

喜ばれる捧げもの

■本日は、エペソ人への手紙5章から、神の愛される子供とされた、私たちの歩き方。神様が喜ばれる姿を聞い…

真実と愛とゆるし

■エペソ人への手紙から連続して聞いてまいります。クリスチャンの交わりに求められる事が教えられます。

新しい人を着る

■ペソ人への手紙から、連続して聞いています。キリストの体である教会の一員とされ、キリストの民、神の子…

月報2021年6月 【熱心と、準備と、祈りをもって】

◆詩篇119篇18節は、ウェストミンスター小教理問答の90問で「御言葉が救いに有効になるために、それはどの…

一つの体なる教会

■エペソ人への手紙に聞いてまいります。4章からは教会に求められる実践編に入ります。その入り口です。

愛を知る力

■エペソ人への手紙での、パウロの大祈祷問呼ばれる祈りから、私たちの内に働く力について、聖書にきいてま…

使徒の覚醒

■ペンテコステの日に、弟子たちに一斉に降臨された聖霊によって、彼らがどのように変わったか。使徒行伝か…

ルツの信仰

■マタイによる福音書の冒頭にあるイエス・キリストの系図。そこに記された女性たちを取り上げて,御言葉に…

聖霊が語らせるままに

■本日は「ペンテコステ」記念礼拝です。「聖霊降臨」の日とも言われ、この世の教会の始まった時とされてい…

月報2021年5月 【イエス・キリストの働き】

◆ここには、イエス・キリストが福音を宣べ伝えられたこと。そして癒しの業を行われたことが記されています…

すべての国へ行って

■マタイによる福音書の最後は、イエス・キリストによる「大宣教命令」と言われる言葉で締めくくられます。…

守れない誓い(2)

◆先週に続き「マタイによる福音書」5章から、イエス様による律法の解き明かしを聞いてまいります。本日は…

守れない誓い

■先に「殺すな」という教え(律法)について教えを宣べられたイエス・キリストは、続いて「姦淫するな」とい…

月報2021年4月 【安息日の恵み】

このイザヤ書の聖句から、神様が定められた「安息日」をどのように過ごすべきか、それがいかに幸いかを教…

律法は廃らない

◆有名な「山上の説教」で誤った聖書理解からくる価値観を、大きく転換させて見せられたイエス・キリストは…

安息日の讃美

■詩篇92篇は「安息日の歌、さんび」と題されます。この詩篇から、十戒の第三戒に示される神様を例はする態…

復活のキリストの説教

■十字架の死の後、墓に葬られて三日目に「よみがえらされた」イエス・キリストは、その後弟子たちに次々と…

イエスは甦って、

■十字架刑によって絶命されたイエスは墓に葬られ、大きな石で封がされました。しかし、日曜の朝、番人が見…

月報2021年3月 【万物を賜る主の愛】

■神様が私たちに「万物を賜る」と仰います。それは大きな恵みですが、そのようなことがあり得るのでしょう…

キリストを埋葬する

■キリストの復活をお祝いする「イースター」前の一週間は「受難週」と呼ばれます。まことの神イエス・キリ…

遊女ラハブの信仰

■【イエス様の系図に特別に記された女たち。神様は彼女たちはどのように用いられたのだろう。 今回はエリ…

従うことは犠牲にまさる

■イスラエルの初代の王、サウルはアマレク人との戦いに勝ちましたが、サムエルが告げた主なる神の命令に完…

神とみ言にゆだねる

■「使徒行伝」20章より、パウロがエペソを離れる際に、もう二度と会えないだろうと、長老たちを集めて語っ…

神の永遠の目的

■「エペソ人への手紙」3章から。神のさまの永遠の目的。キリストの教会の実現について、その恵みの豊かさ…

神の住まい

■初代教会が各地に建てられ始めたころ、まだ不安定な信徒たちに、キリストの教会がいかなるのものかをパウ…

月報2021年2月号 【神に戒められる人は幸い】

■聖霊によって、イエス・キリストを信じる信仰を与えられたものが賜る祝福。この世における三つの祝福の内…

敵意を取り除く

■「エペソ人への手紙」2章の後半から、当時の教会の構成要員であったユダヤ人と異邦人。その隔てを取り払…

教会を満たすもの

■エペソ人への手紙1章の後半です。1章の前半から、三位一体の神様による救いの御業と、救われた民としての…

罪に中にも漸進する恵み

■新約聖書マタイによる福音書の1章に記されたイエス・キリストの系図。父親の名前が列挙される系図の中に5…

主は倒れる者をささえられる

■『主はすべて倒れんとする者をささえ、すべてかがむ者を立たせられます。』 この詩篇145篇14節の御言は、…

耳触りのよい話を求める

■新年礼拝で聞いた「テモテへの第二の手紙」4章から続いて、御言を宣べ伝える心構えと困難さについて教え…

主がわたしに耳を傾けられる

■詩篇113篇から118編は「讃美の詩篇」です。ユダヤの季節ごとの祭で、神殿に詣でる人々の前で歌われた、神…

御言をのべつたえなさい

■新型コロナウィルスへ感染の解決がまだまだ不透明な中、あらたな一年が始まります。年初にあたりあらため…