月報 2021年9月【救いへの選びは無条件】
『異邦人たちはこれを聞いてよろこび、主の御言(みことば)をほめたたえてやまなかった。そして、永遠の命に定められていた者は、みな信じた。』使徒行伝 13章 48節
前回「全的堕落」ということについて御言葉に聞きました。人はアダムの堕落以来「全ての部分で」悪くなっていて、神を求めず、当然栄光を神に帰することもできないこと。御言葉は、人が神様の御心にかなう善を行うことができないばかりか、それを思うことや、望むことさえできないことを明かしています。
つまり、人は自らの努力や研究、研鑽で永遠の命に至る、救いを得ることはできないということです。全ての人は、例外なく滅びへと坂道を下っていっているのです。一気に谷底へ転げ落ちないように、神様が一般恩恵により、抑制をかけられていますが、落ちて行っていることに疑いはありません。ただ、その谷底へ向かうしかない下り坂から、憐れみと恵みにより一部の者が選ばれ、イエス・キリストの救いの御業によって救いあげられる、ということが、神様の永遠からのご計画でありました。
そこで、信仰を与えられ、救われた者はいかにして救われたのか、何故選ばれているかということが問題になります。標記の御言では、「定められていた」者は「みな信じた」とあります。主が定めておられた者、永遠より選び分かち、キリストに与えようとしておられた者が、全員、一人も漏れることなく、イエス様を救い主と信じたことが分かります。 ローマ人への手紙9章16節に、その条件がはっきりと述べられています。
「それは人間の意志や努力によるのではなく、ただ神の憐みによるのである。」
これは、選ばれる側に、それに見合った功績や、善行。人種や家柄。人格や、才能、努力と言った、何らかの条件が備わっているのではないことを明確に示しています。私たちが救われ天国を約束されている、「原因」は「私たちの側には全くない」ということです。全ては、主なる神様の憐みによる、一方的な、特別な恩寵であって、その選びは全くの無条件であり、主の御旨だけが基準であります。
この教理を「無条件的選び」と言います。人が、救いに関して全的に無能力であることと、主なる神様の無条件の選びは、必然的に密接に繋がり、互いに証しする重要な聖書の教えであります。選びと救いが、一切の根拠を人に置かず、全能の主なる神様に、愛と真実の主にあるという教えは、救いの確実性と確信をもたらしてくれるものです。
確かに、私たちは、それぞれ何らかの経緯や理由で、教会に足を運び、あるいは聖書の御言葉に触れ、それが神の言葉であるかも知れない、と思い、また正にそうであると信じるようになります。それは、自分の意志や感覚であり、選択でもあります。しかし、私たちをそのように導かれたのは、聖霊であると聖書は明言しています。「あなたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたを選んだのである。」(ヨハネ伝15:16)と言われる通りです。
「全知の神が、予知によって誰が信じるかをあらかじめ知っておられた」との解釈もありますが、人に救いを委ねる余地を残すのは正確ではありません。
まず神がご計画され、永遠のうちに選んでいて下さったのです。その基準も、誰が選ばれ誰がそうでないかは、私たちの内になく、すべて神の御心であります。それゆえ、神は救いに定め給うた者を一人残らず、イエス様の下へと招き、信仰を与え、天国まで堅く保ち、永遠の命を約束して下さいます。この世の様々な困難や迷いの中でも、この主に信頼し、平安の内に歩みたいと願います。