聖霊が語らせるままに
2・1:五旬節の日がきて、みんなの者が一緒に集まっていると、2:突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起ってきて、一同がすわっていた家いっぱいに響きわたった。3:また、舌のようなものが、炎のように分れて現れ、ひとりびとりの上にとどまった。4:すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した。5:さて、エルサレムには、天下のあらゆる国々から、信仰深いユダヤ人たちがきて住んでいたが、6:この物音に大ぜいの人が集まってきて、彼らの生れ故郷の国語で、使徒たちが話しているのを、だれもかれも聞いてあっけに取られた。7:そして驚き怪しんで言った、「見よ、いま話しているこの人たちは、皆ガリラヤ人ではないか。8:それだのに、わたしたちがそれぞれ、生れ故郷の国語を彼らから聞かされるとは、いったい、どうしたことか。使徒行伝 2章 1節から8節
「すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した。」
使徒行伝、2章4節の御言です。本日はペンテコステ記念礼拝です。この日は、いわゆるこの地上の教会が世生れた、記念すべき日とされています。真の教会は、見えない教会。旧約の時代から、全ての主を信じる者、また将来に至るまで選び分かたれた、全ての神の民の集合体でありますが、そこに繋がる、この地上のキリストの教会の始まりです。ペンテコステとは当時、五旬節、または七週の祭と呼ばれていたイスラエルの儀式、祭の日のことです。今朝は、使徒行伝からこのペンテコステの日に起きた出来事について、聞いてまいりたいと思います。
先週は、マタイによる福音書の28章から、イエス様による「大宣教命令」について聞きました。それは、「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。」そして、「父と子と聖霊の御名によって洗礼を授け、イエス様が命じられた一切のことを守るように教えなさい」という、天と地の全て権威を与えられた、まことの王、イエス・キリストのご命令でした。
この宣教命令が発せられ、それを受けた弟子たちが、一斉に走り出したかと言うと、そうではありませんでした。マタイ伝には記載されていませんが、イエス様は宣教命令の後に、もう一つ指示を出されています。それは、ルカ伝の最後のところです。新約聖書の134頁をお読みいたします。ルカによる福音書24章47節から49節です。
ルカ「24・47:そして、その名によって罪のゆるしを得させる悔い改めが、エルサレムからはじまって、もろもろの国民に宣べ伝えられる。48:あなたがたはこれらの事の証人である。49:見よ、わたしの父が約束されたものを、あなたがたに贈る。だから、上から力を授けられるまでは、あなたがたは都にとどまっていなさい」。
イエス様が上から。すなわち天から力を与えるから、それまで待っていなさい、というご命令です。その後イエス様は天に昇られました。このご命令は、ルカ伝の最後にあって、同じルカによる使徒行伝の1章の8節でもう一度、繰り返されます。180頁の1章8節と9節をお読みいたします。
「1:8『ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらには地のはてまで、わたしの証人となるであろう。』こう言い終るとイエスは彼らの見ている前で天にあげられ、雲に迎えられて、その姿が見えなくなった。」
ここでは、イエス様が天に昇られ、そこから、要は上から与えて下さる力が、聖霊であることを、はっきりと明言されています。このことは、あらゆる国への大宣教命令を出されたイエス様が、その宣教の働きは、聖霊の力によるのだ、ということを明らかにされたということです。6節では、復活されたイエス様に対し、ここにいたっても弟子たちは「イスラエルの国の復興はこの時ですか?」というように、まだイエス様のお言葉や、お約束の意味をはっきりと分かっていません。イエス様の復活の事実に喜び、浮かれていた部分はあったかもしれません。ただ、確かなことは、イエス様から御霊を与えられないと。その教え、また聖書の御言に示された神の御心を知ることはできない、ということであります。
じつは、このことをイエス様は、もっと、ずっと前から、お示しになっていました。ヨハネによる福音書の16章の7節と8節。新約聖書の168頁です。
「7:しかし、わたしはほんとうのことをあなたがたに言うが、わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのだ。わたしが去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はこないであろう。もし行けば、それをあなたはたにつかわそう。8:それがきたら、罪と義とさばきとについて、世の人の目を開くであろう。」
このように、十字架にかかられる前から、その後のことまで。また、ここでイエスさまが遣わすと仰っている助け主が聖霊であって、聖霊が「世の人の目を開くだろう」と明言されています。これも必ず目を開くのだ、と言う断言の形です。弟子たちは、この時点ではその意味が全く分かりませんでした。しかし、イエス様が十字架にかかられ、死なれてのち、復活されて、弟子たちに聖書を解き明かされて行かれる中で、少しずつですが、弟子たちも感じ始めます。イエス様の仰っていることが真実であること。はっきりと明確には理解していなくても、そのお言葉に信頼して、従うようになって行きました。そして、命じられた通り、エルサレムにとどまり、共に集って祈りつつその時を待っていたのであります。
使徒行伝1章の12節から14節にそのことが記されています。裏切者ユダを除く十一人の使徒。そこに、新たにマッテヤがくじで選ばれて加わりました。その使徒を中心に、婦人達。マグダラのマリヤや、サロメやヨハンナと言った主にガリラヤの女性達です。さらにイエス様の母マリヤと、イエス様の兄弟たち。その他総勢120人程いたと記されています。イエス様の死によって散らされたり、逃げたり隠れたりしていた弟子たちが、復活のイエス様に会って、力づけられ、集まってきました。かつては、イエス様を信じなかった、イエス様の兄弟も含まれています。そして、イエス様の約束を信じて、ご命令を守って待っていました。
ここで、こう言った集団において男性も女性も共に集う、ということは、同時のユダヤ社会ではありえないような形態、組織の姿でありました。男女共に心を合わせて、ひたすら祈っていたとあります。ここにその後のキリストの教会の繋がる、キリストの民の姿が早くも現されてきます。男性も女性も関係なく、イエス様の約束を信じ、心を合わせて祈る。祈りつつ待つことの大切さと、尊さ。そして、その先に主のお約束が必ず実現することが教えられます。私たちも、あらためて、共に祈ることの大切さを心に刻み、この姿を見習いたいと思います。
そして、祈りつつ待つ内に、ついにその時がやってきました。本日の聖書箇所に戻ります。2章の1節から4節。
「1:五旬節の日がきて、みんなの者が一緒に集まっていると、2:突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起ってきて、一同がすわっていた家いっぱいに響きわたった。3:また、舌のようなものが、炎のように分れて現れ、ひとりびとりの上にとどまった。4:すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した。」
その時がこの五旬節、ペンテコステの日であります。集まっていた弟子たち一同は聖霊に満たされて、語りだしました。また、みんなが聖霊に満たされる前には、印が現わされました。
まず、天から風が吹いてきたような音が響き渡ります。そして舌のようなものが、炎のように分かれて現れます。これは、炎のような舌と訳す方が分かりやすいです。それが分かれ分かれに、一人一人に臨んだようです。風の音、つまり耳で聞く聴覚と、炎と言うように目に見える、視覚の両方で確認できる、明確なしるしが現れたと言うことです。さらに、
この風という言葉は、神様のご臨在を示したりするのですが、その時はπνευμα(プネゥマ)という単語が使われます。プネゥマは、息吹とか、霊魂とかいう意味があります。でもここでは、語源は同じですが、πνοη(プノェー)という言葉で、単なる風、または息という単語ですから、この風は聖霊を示しているのではなくて、天から響き渡った音をあらわす、形容ということが言えると思います。これに対して、炎のような別れた舌。ここではこの「舌」と言う単語が重要で、ギリシャ語でγλωσσα(グロッサ)といいますが、舌と言う意味と同時に、言葉とか方言と言う意味を持っています。11節で、「わたしたちの<国語>で、神に大きな働きを述べる」と言っている、「国語」という単語と全く一緒です。つまり、これこそが聖霊の働きを表しています。人々に、神の大いなる御業、すなわち救いの御業、福音を知らしめ、理解させる言葉。それが、炎のような舌として、全ての弟子たち。キリストの民に与えられた聖霊によって語られる御言。これが人を信仰に導き伝道を進める、上からの力なのであります。
かつて、預言者や選ばれた人に聖霊が働き、また語り掛けることはありましたが、このようにキリストの弟子、信じる者すべての中に聖霊が降りて来られ、私たちのうちに住み給うようになったのは、この時、ペンテコステ以来であります。そしてこの聖霊は、私たちに天のイエス様から与えられた、助け手でありました。ですから、今、私たちはイエス様による聖霊の時代に生きていると言うことができます。この聖霊降臨は、イエス様の弟子たちへ約束の実現というだけでなく、かつてバプテスマのヨハネが予言したことの成就でもありました。ヨハネはヨハネ伝3章で次のように言っていました。
「わたしは水でおまえたちにバプテスマを授けるが、わたしよりも力のあるかたが、おいでになる。・・このかたは、聖霊と火とによっておまえたちにバプテスマをお授けになるであろう。」 この言葉の成就がペンテコステです。
もっとに遡って、旧約聖書の歴史と照らし合わせると、ペンテコステの出来事のさらに深い意味が示されます。儀式律法に定められたユダヤの最も重要な祭りは「過越し」でした。奴隷となっていたエジプトから救い出され、自由となった記念の日です。その前日に、生け贄の小羊が屠られますが、これはイエス様の十字架と同じ日です。つまり過越しは十字架の予表といわれます。過越しの翌日の初穂を献納する儀式は、甦りの初穂であるイエス様復活の予表です。そこから、7週間後、過越しすなわちエジプト脱出から50日目に、シナイ山でモーセに律法が与えられます。ですから当時ペンテコステは七週の祭とも言われて神様からの律法授与の記念日でもありました。これが、聖霊降臨の予表です。その意味は、岩に刻まれた律法はイエス様によって成就され、いまや聖霊が下って、聖霊によって私たちの魂に、律法が記されたと言うことになります。
このことを解き明かしている新約聖書の箇所があります。ローマ人への手紙8章の2節(新約242頁)から3節をお読みします。
「2:なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則は、罪と死との法則からあなたを解放したからである。3:が肉により無力になっているためなし得なかった事を、神はなし遂げて下さった。すなわち、御子を、罪の肉の様で罪のためにつかわし、肉において罪を罰せられたのである。」
この2節にある「キリスト・イエスにある御霊の法則」という、「法則」という言葉と「罪と死の法則」の「法則」という言葉は、すぐ後の3節にある「律法」という言葉と同じなんです。ですから、新改訳では「御霊の律法」とはっきり訳しています。御霊の律法が与えられて、そして罪と死の律法から私たちを解放してくれた。それを表している。だから、シナイ山においてモーセに律法が与えらえた、同じ日に、ペンテコステに、エルサレムにおいて、キリストの民に聖霊による律法が与えられた。このように繋がっているわけであります。
ある仲介者は、聖書の構造について、旧約聖書は父なる神の契約と予言の書で、福音書、四福音書は御子キリストによる救いの御業と預言成就の書である。それに続く使徒行伝は、御子を通して与えられた聖霊による伝道の書だ、というように表現していました。以前にエペソ人への手紙1章から、三位一体の、父・子・御霊の神様による私たちの救いと、伝道の御業ということを教えられたのですが、その1章だけではなくて、聖書全体において、そのように父なる神様のご計画と、御子イエス様の贖いの御業と、そこに私たちを繋いでくださる聖霊の御業というものが、はっきりと示されている、ということを覚えたいと思います。
聖霊が語らせるままに、様々な国の言葉で弟子たちは語りました。語られた福音は、聞くものにその内容が神の大いなるお働き、御業であることが理解されました。ですから、他で言われる、いわゆる異言とは少し違ったものであることが分かります。異言はその解き明かしが必要でしたが、ここで聖霊が語らせた、様々な国々の言葉は、語っている人は分かりませんでしたが、聞いたその国の人たちには、そのまま人々の心の届き、それが神の偉大な御業のことであると理解されました。かつて、バベルの塔で犯された、高慢の罪によって、主なる神様が人々の言語を乱され、ノアの子、セム、ハム、ヤペテの子孫は、世界にばらばらに散らされました。これに基づいて、昔は民族をセム語族、ハム語族、ヤペテはインド・ヨーロッパ語族というように、言葉の系統に違いで分類していました。それが、このペンテコステにおいて、聖霊が語られる福音により、あらためて、頭なるキリストの下で一つの体、教会とされていく、その始まりがここで示されたのであります。
実際、バベルの事件との関連が非常に印象的に示されているところが、2章の9節以降にあります。様々な国や地域のことが記されています。2章の9節から11節を見ますと、
「9:わたしたちの中には、パルテヤ人、メジヤ人、エラム人もおれば、メソポタミヤ、ユダヤ、カパドキヤ、ポントとアジヤ、10:フルギヤとパンフリヤ、エジプトとクレネに近いリビヤ地方などに住む者もいるし、またローマ人で旅にきている者、11:ユダヤ人と改宗者、クレテ人とアラビヤ人もいるのだが、」
これは、セムの子孫、ハム、ヤぺテのぞれぞれの子孫の順に並べられていると注釈されています。ペンテコステは、バベルにおいて言葉を分かたれ、罪の内に散らされた人々が、聖霊が明かされる聖書の御言によって、やがて一つとなることが示された瞬間でもありました。
事実、聖霊は、御言・聖書を通して私たちに、キリストを信じる信仰を与えてくださり、また私体をキリストにつなぎ続けて下さる、命綱のようなご存在です。私たち、一人一人、全員をキリストを繋ぐホットラインであって、見えないですから、切れないWifiのようだと言えるかも知れません。聖霊は、私たちの心の奥底まで測り、私たちの気づかない思いや願い、また罪深さや弱さもそのまま、イエス様に届けて下さいます。そしてイエス様という唯一の仲保者、完全な浄水器のようなイエス様を通して、御父のもとに私たちの祈りとして届けられます。イエス様の御名によって、み心に適うものとされていきます。
ウェストミンスター小教理問答の85問では、人が神の怒りと呪いをまぬがれるために求められる事として、イエスキリストへの信仰、命に至る悔い改め、そしてキリストの贖いの恵みを私たちに伝達される全ての外的手段を、忠実に用いる事だと教えられています。この「外的手段」とは、すなわち、御言と礼典と祈りであります。御言も、礼典も、祈りも全て聖霊が共いて下さり、働いて下さることで、はじめて、み心にかなう有効なものとなります。つまり、キリストの贖いによる救いに私たちを入れて、キリストに結合させ、とどめて下さるのが聖霊の御業であります。本日は、主の定められた礼典、聖餐式に与る祝福が与えられています。どうか、聖霊がご臨在下さり、その恵みを確かなものとしてくださいますよう、お祈りいたします。