ルツの信仰
15:そこでナオミは言った、「ごらんなさい。あなたの相嫁は自分の民と自分の神々のもとへ帰って行きました。あなたも相嫁のあとについて帰りなさい」。
16:しかしルツは言った、「あなたを捨て、あなたを離れて帰ることをわたしに勧めないでください。わたしはあなたの行かれる所へ行き、またあなたの宿られる所に宿ります。あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神です。
17:あなたの死なれる所でわたしも死んで、そのかたわらに葬られます。もし死に別れでなく、わたしがあなたと別れるならば、主よ、どうぞわたしをいくえにも罰してください」。
18:ナオミはルツが自分と一緒に行こうと、固く決心しているのを見たので、そのうえ言うことをやめた。ルツ記 1章 15節から18節
「わたしはあなたの行かれる所へ行き、またあなたの宿られる所に宿ります。あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神です」
今朝もみ言葉に聴いて参りましょう。
今日はルツ記1章からみ言葉に聴いて参りますが、ルツ記については、皆さまもうよくご存知だと思います。ですから、今日はみ言葉の恵みをここでご一緒に味わっていこうということになるかと思います。
今お読みいただいた所は、1章のクライマックスとも言うべき所ですが、その前段、物語の発端について、見て参りましょう。
1章1節前半。「さばきづかさが世をおさめているころ」とあります。この物語は、さばきづかさ=士師の時代の出来事でありました。士師の時代とはヨシュアの死後、サムエル(最後の士師)が登場するまでの時代と言えましょう。それがどのような時代であったかというと、ヨシュアの時代が、神様の導きのもと敢然と進んだ時代であったのに反して、士師記21章25節「そのころ、イスラエルには王がなかったので、おのおの自分の目に正しいと見るところをおこなった」というように、人々は神様を見失いそれぞれが、自分の判断によって自分の心のままに生きた時代であったと言えましょう。
12人の士師たちが立てられ、人々を率いていったのですが、たびたび外敵に攻められ、人々の間にも厭戦気分が漂い、偶像礼拝が行われ、言わば闇が支配する時代でありました。人々は、神さまのみ心を仰ぐのではなく、それぞれ自分の目に正しいと思われることを行い、それはやがておぞましいまでの混乱に陥ったのであります。
1章1節。そのような時代に飢饉が起こり、一人の人が妻と2人の息子とともにユダのベツレヘムを去り、モアブの地に移り住みました。彼らが移り住んだモアブの地は、肥沃な農業地帯でありました。しかしモアブ人はイスラエルとはいろいろな因縁のある民でありました。
モアブ人はアブラハムの甥、ロトの子どもを祖先とする民族です。しかしそれはロトとその娘の間にできた子ども(創世記19章31~38節)でした。ですからイスラエルとは血のつながる民でありましたが、罪と汚れの子として、蔑まれておりました。また申命記23章3-6節「あなたは一生いつまでも彼らのために平安をも、幸福をも求めてはならない」というように、モーセに率いられたイスラエルの民を恐れて呪おうとしたことにより、イスラエルの会衆から断たれていたのであります。
1章2~5節。 飢饉を逃れてモアブの地に移り住んだエリメレクと妻ナオミ、マロンとキリオンという2人の息子でしたが、ナオミの夫エリメレクが死んでしまいます。2人の息子はそれぞれモアブ人の妻オルパとルツを迎え、その地での生活を続けていきます。しかし、10年ほど後、その2人の息子も死んでしまいました。
1章7節。そのような折り、ナオミは故郷では飢饉が去ったことを聞き、ふるさとへ帰ることとなり、2人の嫁も従っていきました。しかしナオミは(1章8~9節前半)2人の嫁の前途を思い、自分たちの母の家に帰り、再婚して平穏に暮らすようにと促します。寡婦の身で一人故郷へ帰っていくことは、心細く淋しいことであったでしょう。しかし2人の嫁を自分の犠牲にしてはならないと、それぞれ親元へ帰るよう促したのであります。
1章9節後半~10節。しかし2人の嫁は、声を上げて泣き、あなたと一緒に帰っていくと言いました。ナオミとオルパ、ルツの間には、温かい気持ちが通っており、オルパとルツは心からナオミを慕っておりました。
1章11~13節。しかしナオミは2人を厳しく退けました。「あなたがたの夫となる子がまだわたしの胎内にいると思うのですか」これは先日お話ししたレビラート婚のことを言っています。寡婦となった女性を、死んだ夫の兄弟が妻として家を継いでいく制度であります。
今からわたしが誰かを夫として子をもうけ、その子が成人するまで待つつもりですか、そのようなことはあり得ないでしょうというのです。「主の手がわたしに臨み、わたしが責められたことで、わたしは非常に心を痛めているのです」。ナオミは、夫と息子たちを取り去られたことを、主が自分を責められたと受け止め、2人の嫁を巻き添えにしてはならないと、彼女たちのみが立つように、懸命に説得したのです。そして(1章14節)オルパはナオミの思いを受けて、悲しみながらも別れの口づけをして去っていきました。
1章15節。ナオミは、それでも去ろうとしないルツに、オルパのあとを追うよう促しました。しかしルツは聞きません。1章16~17節ルツは「あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神です」と言い切ります。さらに「もし死に別れでなく、わたしがあなたと別れるならば、主よ、どうぞわたしをいくえにも罰してください」と、主に向かって誓いを立てたのです。1:18最早ナオミに説得の余地はありませんでした。このようにして、ナオミはルツを伴って、ユダのベツレヘムに向かうこととなりました。
さて、物語はこのあとも、ルツの献身、異郷にやってきて姑に仕えるルツに対するボアズの義侠心、ルツの将来を思いやるナオミの知恵など、美しい出来事の中で幸せな結末へと進んでいくのですが、そのため人間的な要素が強調されがちなきらいがあります。ルツの心根が強調されるあまり、夫の死後も姑に仕え抜く堅固な貞操観、献身などの倫理的な側面が言われ、「婦女子の取るべき道は」という話しになりかねないのです。
しかし、この物語の中心点は、すべてを善に導く神さまのご計画であり、エリメレクとナオミの夫婦からルツへと受け継がれた、信仰であります。
この物語の発端は、飢饉に際して、エリメレクの一家が異教の地であるモアブの地に移り住んだことであります。そこでの10年少々の生活の中で、エリメレクと2人の息子が死んでしまい、ナオミは失意の中で故郷へ帰ります。そして同行したオルパとルツ。しかし2人の将来を慮るナオミの説得によって、オルパは心を残しながらも帰っていきますが、ルツは帰ろうとしませんでした。2人の行動を分けたのは、ルツに与えられた信仰でありました。
「あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神です」と言い切るルツは、結婚生活の中で、主なる神さまヘの信仰を、しっかりとわがものにしていたのです。エリメレクの一家は、異教の地にありながらも偶像礼拝に染まることなく、信仰を堅持しておりました。それはナオミの言葉の端々にも現れています。ナオミはイスラエルの飢饉が去ったのも「主がその民を顧みられた」と受け止め、自身に降り掛かった災難も「主の手がわたしに臨み、わたしを責められた」と、神様との関係で捕らえています。そして嘆きはしても恨みや愚痴を言うことはありませんでした。そのような一家での生活で、ルツには神様への信仰が与えられていたのです。モアブにはモアブの神があり、その信仰生活がありました。しかしルツは今やイスラエルの神、主こそが自分の神であると確信し、その信仰の決意をもって生きていくことを決心したのです。
見知らぬ土地へ行くことは、ただでさえ不安なことでありましょう。それだけではなく、イスラエルとモアブの関係を考えると、一層の困難が予想されます。しかしルツは、信仰という一点で、そのような人間的は思いを跳び越えました。ナオミへの思慕や同情だけではなく、イスラエルの神こそが自分の神、イスラエルこそが自分の霊的な故郷であると確信したのです。
エリメレクとナオミの一家が、飢饉に際して、ユダのベツレヘムから、異教の地であるモアブへ移り住んだことは、神さまの約束の地を離れて異教徒の地に住むことであり、褒められたことでなかったかもしれません。またそのようにして異教に染まり、偶像礼拝に陥る例も、聖書の中にはしばしば見られます。しかし、この一家は主への信仰を堅く保っていたと思われます。少し余談めきますが、エリメレクという名は「彼にとって神は王である」という意味だそうです。彼はモアブに住んだ結果として、その地の女性ルツに宣教し、信仰に導いたのであります。
モアブは先に述べたように、近親相姦の子どもから興った民として、イスラエルの人々からは蔑まれておりました。また歴史的な経緯の中で、会衆から断たれるなど敵意を抱く民でもありました。しかし、その民に信仰の火種が点され、モアブの女ルツによって、イエス・キリストの系譜に連なる子どもが誕生します。ここに神さまのご計画の偉大さ、深遠さがあります。
今、私たちは疫禍の中に投げ出されています。先が見えない不安の中にいます。最早為政者、指導者を信じきれない混乱の中にあります。混乱と不信の中で、ともすれば「おのおの自分の目に正しいと見えることを」行ってしまいます。しかし、そのような時でも、私たちは神様のみ手の中にあります。私たちには分かりませんが、神様のご計画は必ずやあらゆることを通して善に導いてくださいます。
ルツの物語に聴きながら、上よりの平安、上よりの力をいただいて、歩んでいきたいと思います。 (滝田善子 教師)