主がわたしに耳を傾けられる

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主がわたしに耳を傾けられる

1 わたしは主を愛する。主はわが声と、わが願いとを聞かれたからである。
2 主はわたしに耳を傾けられたので、わたしは生きるかぎり主を呼びまつるであろう。
3 死の綱がわたしを取り巻き、陰府の苦しみがわたしを捕えた。わたしは悩みと悲しみにあった。
4 その時わたしは主のみ名を呼んだ。「主よ、どうぞわたしをお救いください」と。
5 主は恵みふかく、正しくいらせられ、われらの神はあわれみに富まれる。
6 主は無学な者を守られる。わたしが低くされたとき、主はわたしを救われた。
7 わが魂よ、おまえの平安に帰るがよい。主は豊かにおまえをあしらわれたからである。
8 あなたはわたしの魂を死から、わたしの目を涙から、わたしの足をつまずきから助け出されました。
9 わたしは生ける者の地で、主のみ前に歩みます。
10 「わたしは大いに悩んだ」と言った時にもなお信じた。
11 わたしは驚きあわてたときに言った、「すべての人は当にならぬ者である」と。
12 わたしに賜わったもろもろの恵みについて、どうして主に報いることができようか。詩編 116篇 1節から12節

<わが魂よ、おまえの平安に帰るがよい。主は豊かにおまえをあしらわれたからである。あなたはわたしの魂を死から、わたしの目を涙から、わたしの足をつまずきから助け出されました。>


 詩篇1167節と8節の御言です。主なる神が、どのように私たちを助け、恵んでくださっているかを告白した、慰めに満ちた詩篇から、本日は導かれたいと思います。 


 まず、詩篇116篇は、詩篇の第5巻にあります。第5巻は107篇から最後の150篇までですが、全体としては「讃美について」讃美とはどういうことかを教えてくれます。その中で、前半の107篇から118編は「讃美は感謝である」。神様を讃美することは、神様への感謝から生まれるということがうたわれています。これほどに感謝すべきことがあるのだ、という告白であります。


 更に、113篇から118篇は、実際に、ユダヤの民の季節ごとの祭。過ぎ越しの祭や、五旬節、仮庵の祭、宮清めの祭と言った、大きな催しで、多くの民が神殿に詣で、礼拝を捧げる間に、実際に歌われていた、讃美歌でもあります。114篇の出エジプトに因んだ讃美歌から、113から118篇をまとめて「エジプトの賛歌」「出エジプトの歌」とも呼ばれています。


116篇は、作者は不明ですが、その中で唯一、一貫して「わたしは」という一人称(単数)で書かれた、本当に個人的な経験からくる、わたし自身の思い。感謝と、神への応答が告白されます。そして、それが実は、おおやけの公的な真理である、真実だということであります。116篇の構造としては、1、2節が讃美の序文。ある程度定式化された、式文ともいえるものです。次に3節から8節が、絶望の中からの叫びに対する答、主なる神の答え。9節以降は、それに対する感謝と信頼の表明、応答と分けることができます。


 


まず、1節から2


<わたしは主を愛する。主はわが声と、わが願いとを聞かれたからである。主はわたしに耳を傾けられたので、わたしは生きるかぎり主を呼びまつるであろう。> 


 116篇の記者は、古い詩篇を、よく学び通じていたと言われます。多くの詩篇からの引用がみられるのですが、特に18篇の影響が強いようです。18篇は、ダビデが自分の命を狙う、サウルや様々な敵に追いつめられる中で、絶体絶命の危機から、主なる神が助けて下さったことを讃美する詩篇です。その書き出しは、「わがちからなる主よ、わたしはあなたを愛します」という告白から始まっています。116篇もそれを踏まえているようです。この後につづく、危機から救って下さった神への讃美にふさわしい、と考えたとおもわれます。


 しかし、先に定式的と申し上げましたが、ここでは、微妙ですが、大きな違いがあります。それは、1節の「わたしは主を愛する」の「主」と、2節の「主を呼びまつる」の「主」は、原文にはその単語が書かれていません。ですから、直訳しますと、いきなり「わたし愛します」と叫んでいることになります。


 2節の「呼びまつる」は文語訳から引き継いでいる、古い日本語の言い回しですが、これは「呼び求める」という、本当に求める気持ちの強い言葉です。この短い詩篇の中に、この後3回、「御名を呼ぶ」という言葉が出てきますが、やはり同じく「呼び求める」と言う意味です。私は呼び求めた、呼び求めます。呼び求めよう、言うように。2節に「生きる限り」と宣言しているとおり、主なる神を呼び求めるという生き方が示されています。


 このように愛する、呼び求める対象である「主」が省略されていることが分かるところが、もう一カ所あります。10節の「わたしは大いに悩んだ」と言った時にもなお信じた。」。しかし「主」を信じるとは書いていません。この詩篇記者は、美しく落ち着いた印象を受ける、日本語訳からは伝わりにくいのですが、実際には、「愛する」「呼び求めます」「信じました」と、いきなり、激しく告白していて、神様への感謝と感情があふれ出ているような、叫びのような文章だということです。ここを意識して味わいたいと思います。


記者に、そのように昂った、あふれ出るような告白をさせたのは、何かともうしますと、「主がわたしに耳を傾けられた」からであります。天の至高におられる、全能の主が、地の低いところの、ひとりの弱きものの叫びに耳を傾けて下さった。そうして、


<主はわが声と、わが願いとを聞かれたからである。主はわたしに耳を傾けられたので>


 と書かれてある通り、まず、主が願いを聞いてくださった。苦しい絶望の中からの叫びに、耳を傾けて下さったという、深いあわれみ。愛を示して下さったからであります。神の愛が必ず先行するということを、何度も教えられてきました。これを忘れてはならない。詩篇記者はまさにこのことを述べています。何故、耳を傾け、願を聞いてくださるかと言うことは、この後明らかにされてまいります。


 3節に進みますと、ここではその苦しい状況が描かれています。


 <死の綱がわたしを取り巻き、陰府の苦しみがわたしを捕えた。わたしは悩みと悲しみにあった。その時わたしは主のみ名を呼んだ。「主よ、どうぞわたしをお救いください」と。>


 ここも詩篇18篇の表現を踏襲しています。お読みいたします。詩篇18篇の4節から6節。(旧約760頁)


<死の綱は、わたしを取り巻き、滅びの大水は、わたしを襲いました。よみの綱は、わたしを取り囲み、死のわなは、わたしに立ちむかいました。わたしは悩みの内に主に呼ばわり、わが神に叫び求めました。主はその宮からわたしの声を聞かれ、主に叫ぶわたしの声がその耳に達しました>


 その置かれた状況は、死が私を取り囲んで、よみの苦しみに捉えられて、逃げようがない。どうしていいのかわからない、どうしようもない、絶望的な状況。何に頼ればいいのか。116篇の11節に「人は当てにならない」と言っているように、もう自分でも人に頼ってもどうにもならない状況。結局、主を呼び求めるしかないということであります。そして、先月の月報でも触れましたように「助けは天地を造られた主からくる」と言われる通り、実際に主が、この絶体絶命の状況から助け出して下さった。悩みと悲しみの中からの、「お救い下さい」という、素直な素朴な祈りを主は聞き給いました。6節に「主はわたしを救われた」と告白されているように、記者は主の助けと愛を実際に経験して、心から感謝して、「愛します」「信じます」と叫んだのであります。


<主は無学な者を守られる。わたしが低くされたとき、主はわたしを救われた。>


 無学なものとは、たくらみの無い、素朴な者、賢しくないという意味合いです。あえて、この世的には強くもなく、力もない者を守ってくださる。おごり高ぶるものをひれ伏させ、主の栄光が表されるためです。低くされた、という言葉は、陥れられたとか立場的なものではなく、肉体的に衰弱した、病気がちなあるいは重い病。治りようがない、このまま死んでしまうのじゃないか、といった状況を示しています。そしてそこから、救って下さった主の事を5節で、このように讃えています。


<主は恵みふかく、正しくいらせられ、われらの神はあわれみに富まれる。>


 これは、ピンときた方もおられると思います。主なる神の、御名そのものであります。出エジプト記の34章で、主がモーセに語り掛けられた、ご自身を表すお言葉です。その346から7節では主はこのように言われました「主、主、あわれみあり、恵みあり、怒ることおそく、いつくしみと、まこととの豊かなる神。いつくしみを千代までも施し、悪と、とがと、罪とを許す者、しかし罰すべきものおば、決してゆるさず」と主が御自ら示された、その通りの神様であられるということを、詩篇記者は自ら主に救われて、現実に経験して、悟って、その恵みの大きさに感謝があふれて讃美となっているわけです。


 5節では、「主は恵みふかく、正しくいらせられ」と簡潔に表現されていますが、その言葉をもっと凝縮しますと、恵みと言う言葉は愛と密接につながっていますから、「主は愛であり、義である」ということになります。無限、永遠、不変の愛と義の神様である。そのうえで「あわれみに富まれる」ように、「愛が先行しているのだ」と言うことを、証ししているわけです。それは、真実なる主が、ご自身を表された際に、「見よ、わたしは契約を結ぶ」と言って下さったその恵の契約ゆえに、示された愛であり、われらの声に耳を傾け、願を聞いて助けて下さるのであります。今や、この願いは、救い主イエス・キリストの御名によって、より明確に、真実聞かれる祈りとされていることに感謝したいと思います。


 78節では、救いの主の御業がさらに讃美されます。


<わが魂よ、おまえの平安に帰るがよい。主は豊かにおまえをあしらわれたからである。あなたはわたしの魂を死から、わたしの目を涙から、わたしの足をつまずきから助け出されました。>


 まず、魂の平安。この魂の平安を与えられるのは主のみであります。有名なマタイによる福音書の1128から29節でにイエス様の御言を抜粋します。「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう・・私のくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすればあなたがたの魂に休みが与えられる」と。7節の平安とは、この魂の休みのことであります。さらに、この「平安」は複数形で書かれおり、主が与えて下さる平安が、一つではなく、大変豊かであることを表しています。


 8節では、魂を死から、目を涙から、足をつまずきから、助け出されたと言うように、3重の表現で主を讃えます。魂と、感情と、肉体の全ての助けを示されて、その救いが完全なものであることが教えらえます。一時的、一面的なものではなく、私たちのあらゆる面での完全な、とこしえの救いを与えて下さったのだ。だから、主を褒めたたえずには、おれましょうか、と言う感謝の讃美であります。


 


9節以降は、この豊かで、完全な主の助け。与え得てくださった恵に対して、どのように「お答えしていこうか、という応答が記されていきます。冒頭の9節では、まずこのように宣言されます。


<わたしは生ける者の地で、主のみ前に歩みます。>


 生ける者の地でということは、召されてからでは意味がない、と言うことをいっています。生きているうちに、この世に遣わされている間は、主の御前に歩む。歩むという言葉は、元は歩き進むとか歩き回るという言葉で、転じて、生活するということを意味します。生きている間に、主の御前で、主をほめたたえて生きていきます、という誓約でもあります。当時は感謝の応答には誓約を伴うことが習慣的におこなわれていました。これは、助けられ、救われたものが、生きている間は隠れていて、召されてから讃美できると思ってはいけない。死んでからでは義と認められないという、当時の伝統的な教えでもあります。


しかし、これは同時に、今日、真の救い主イエス・キリストを信じて救われた者にも、全く当てはまることだと言えます。永遠の内より選び分かたれ、召されて救われたものは、生きている限り、天に召されるまで、主を讃美する生活を、歩みを目指すわけであります。それはやがて天に召されて、この世を離れてから、完全に実現することではあります。この世の内では、なかなか思うような信仰生活が送れるとは限りませんけれども、やはり、主に求めて祈りつづけることが大切なことであり、慰めであります。主は、必ず耳を傾けていて下さるからであります。


11節で示されたことは、これは、人を軽視する、ということではなくて、絶対的で最終のご主権は主なる神にある、という確認です。主のご支配、御手の内にあるのだから、その御心にかなうよう、主に求めよということで、それを私は悟りましたと言う告白です。


最後の12節では、


<わたしに賜わったもろもろの恵みについて、どうして主に報いることができようか。>


 私たちは、なかなか足ることを知らず、日ごろから不平不満を心に持ち、自分中心の、自分の欲望に振り回される、罪深く弱い者であります。しかし、実はこの詩篇記者が気づいたように、どうして報いたらいいだろうか、という大きな、豊かな恵みを賜っており、さらに日々増し加えていただいているのであります。


 本日は詩篇116篇の前半に聞いてまいりました。日本語に訳されたこの詩篇は、シンプルで美しく落ち着いた、しかし力強い文章で主を讃美していますが、じつはその底には、本当にあふれんばかりに、いまにも飛び上がりそうな情熱に満ちた感謝が。われらに耳を傾け助けて下さる主への感謝の気持ちが述べられています。ふつふつと煮えたぎるような、熱い感謝であります。どうか、御言を通して、私たちの魂と心と肉体とが、そのような感謝の内に主を讃美できますよう、一層の御霊のお導きを祈りたいと思います。(以上)

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