使徒の覚醒
14:そこで、ペテロが十一人の者と共に立ちあがり、声をあげて人々に語りかけた。「ユダヤの人たち、ならびにエルサレムに住むすべてのかたがた、どうか、この事を知っていただきたい。わたしの言うことに耳を傾けていただきたい。15:今は朝の九時であるから、この人たちは、あなたがたが思っているように、酒に酔っているのではない。16:そうではなく、これは預言者ヨエルが預言していたことに外ならないのである。
すなわち、17:『神がこう仰せになる。終りの時には、わたしの霊をすべての人に注ごう。そして、あなたがたのむすこ娘は預言をし、若者たちは幻を見、老人たちは夢を見るであろう。18:その時には、わたしの男女の僕たちにもわたしの霊を注ごう。そして彼らも預言をするであろう。19:また、上では、天に奇跡を見せ、下では、地にしるしを、すなわち、血と火と立ちこめる煙とを、見せるであろう。20:主の大いなる輝かしい日が来る前に、日はやみに月は血に変るであろう。21:そのとき、主の名を呼び求める者は、みな救われるであろう』。
22:イスラエルの人たちよ、今わたしの語ることを聞きなさい。あなたがたがよく知っているとおり、ナザレ人イエスは、神が彼をとおして、あなたがたの中で行われた数々の力あるわざと奇跡としるしとにより、神からつかわされた者であることを、あなたがたに示されたかたであった。23:このイエスが渡されたのは神の定めた計画と予知とによるのであるが、あなたがたは彼を不法の人々の手で十字架につけて殺した。24:神はこのイエスを死の苦しみから解き放って、よみがえらせたのである。イエスが死に支配されているはずはなかったからである。使徒行伝 2章 14説から24節
「22:イスラエルの人たちよ、今わたしの語ることを聞きなさい。あなたがたがよく知っているとおり、ナザレ人イエスは、神が彼をとおして、あなたがたの中で行われた数々の力あるわざと奇跡としるしとにより、神からつかわされた者であることを、あなたがたに示されたかたであった。」
使徒行伝、2章22節の御言です。5月第4週の主日。23日はペンテコステの記念礼拝でした。この日は聖霊降臨の日とも言われます。本日も、同じペンテコステに起こった出来事の続きを、御言に聞いてまいりたいと思います。
このペンテコステは、元々は七週の祭といわれ、ユダヤの最も重要な祭りであった、過越しの祭から50日目。刈り終わった麦の初穂を捧げる祭りであり、同時に、シナイ山でモーセを通して与えられた、主なる神による、神の民への律法授与の記念日でもありました。
過越しは、エジプトから、贖い救い出されて、奴隷から自由にされた、ユダヤの民の記念でした。エジプト全地に及んだ神の裁きから、契約の民を守ったのは、屠られた傷のない小羊の血が目印でした。これら歴史的な出来事が、やがて来られる、真の贖い主。約束された救い主イエス・キリストを表す、予表であったことが明かされました。生け贄の小羊なるイエス・キリストの血によって、もたらされたのは、単なる奴隷からの解放ではなく、罪からの解放、神の聖なる怒りからの救いでありました。更にキリストの復活によって、キリストを信じる者の御国での永遠の命が保証されることになりました。ただ、一民族ではなく、主がかつて、アブラハムに示された「地のもろもろの国民はあなたの子孫によって祝福を得る」というご契約の実現でもありました。
さらに遡れば、そこにはアダムに示された命の契約があります。神は人を永遠の命に導くべく、命の契約をなさいました。従えば命、背けば死と言う命の契約、わざの契約とも言われます。しかし、アダムらはこれを破ったため、人類は死に定められてしまいました。しかし、私たちを愛して下さる主なる神は、人を亡びるままになさらず、もう一度、救い出し、永遠の命、神との交わりに入れるための、救い主を与えることを約束して下さいます。その実現がイエス・キリストであります。ですから、「命の契約」プラス「イエス・キリスト」が「恵みの契約」と言うことになります。全く別々のものではないのです。
そして、モーセを通し、神の選びの民が、罪のこの世において、神の御心に叶うべく生きていく術として、恵みの律法が与えられました。律法自体は、民の罪を抑制することと同時に、誰一人、律法を完全に全うすることができないことを教え、真の救い主が必要であることを示す役目を果たしました。その神の教えは岩に刻まれ、契約の箱に収められて、聖なる幕屋に置かれていました。一般の人が見ることも、近づくこともできませんでした。主が立てられた大祭司のみが、契約の箱が治められた聖所に入ることができ、定められた儀式を行っていましたが、その祭司もまた、全身を覆う長い着物を着、主の御言が刻まれた岩にその肌をさらすことはかないませんでした。聖なる神が直に与えられたその御言は、罪ある人間がそのままでは、耐えられない。貫かれ、刻まれ、焼かれてしまうような、それほどに聖なる力あるものであったと言えます。
昔、「インディ・ジョーンズ:失われたアーク」という、映画があって、大ヒットしました。続編もいくつか作られましたが、その最初は、アークという、この契約の箱がテーマになっていました。考古学者のインディ・ジョーンズ博士が、暗号を解いて、冒険のすえ見つけた契約の箱を、ナチスに奪われるのですが、その箱を開けた時、目を開けてそれを見ていた人々は全て、体の内から炎が出て死んでしまいました。敵に捕まって柱に縛り付けられていたジョーンズ博士らは、目を瞑って、決して開かなかったため、助かるわけです。冒険娯楽映画ですので、聖書的に正確かどうかは別にして、それなりに敬意を払っていることが分かりました。奇跡は奇跡のままにして、無理やり人間的な説明を加えていないところが上手でした。話自体は、空想的な楽しいもので、すっかりファンになりました。今でも頭の中であの映画音楽を鳴らすと、歩く足が速くなります。
話を戻しますが、こうして、かつては特別に選ばれ立てられた祭司や預言者だけが、契約の箱に近づき、また神の言を授けられていました。しかし、イエス様が十字架にかかられた後のペンテコステにおいては、すべての弟子たちに聖霊が望み、みんなが神の御業を語りだす、と言うことが起こったわけであります。このことは、イエス様ご自身による、助け手を遣わすという、お約束の実現でした。ただ、既にイエス様が十字架にかかられた、まさにその時。神殿の聖所の幕が上から下まで真二つに裂けた、という徴が表されていました。人々と、主なる神の契約の箱、御言を隔てていた幕が裂けた。イエス様の血によって、私たちの罪が贖われ、御言は聖霊によって、あらゆる人に働いてイエス・キリストへの信仰へと導き、その信仰を通して、誰もが主なる神へと近づく道が開かれたのであります。
そして、復活されたイエス様が、40日間、弟子たちに姿を現し、教え、命じられ、昇天された翌週。ペンテコステの朝。弟子たちが共に集い、祈りつつ待っている中、その時がやってきました。天から起こった音が響き渡り、炎のような舌が分かれて、一人一人の上にとどまりました。別れたとあるように、元は一本の炎、舌であることが分かります。この聖霊に満たされて、弟子たちは様々な国の言葉で、神様の大いなる御業を語りだしました。アブラハムへの約束。また、イエス様によるあらゆる国の人々への宣教命令の実行が始まったわけであります。これは、弟子たちだけでなく、エルサレムに集っていた多くの人々が目撃した、具体的な出来事。歴史的事実でありました。
ですから、語りだした弟子たちを見ていた一部の人たちは、彼らをあざ笑います。2章の13節で、「あの人たちは、新しい酒で酔っているのだ」と馬鹿にしています。新しい酒というのは、発酵が進んでいない、アルコール度が引くい甘いお酒のことで、それこそ甘酒で酔っ払っている、というようなあざけりの言葉です。
その言葉を受けて、ペテロと十一人の使徒が立ち上がって、ペテロが語り始めたのが本日の御言であります。14節から16節。
「14:そこで、ペテロが十一人の者と共に立ちあがり、声をあげて人々に語りかけた。『ユダヤの人たち、ならびにエルサレムに住むすべてのかたがた、どうか、この事を知っていただきたい。わたしの言うことに耳を傾けていただきたい。15:今は朝の九時であるから、この人たちは、あなたがたが思っているように、酒に酔っているのではない。16:そうではなく、これは預言者ヨエルが預言していたことに外ならないのである。』」
「立ち上がる」という言葉は、「押し出される」とも訳せる言葉です。満たされた聖霊によって、押し出されて、支えられてペテロは語りだしました。その語り出しは、極めて冷静で、理性的であり、堂々としたものでありました。この人たちは酔ってなどいない。朝の九時と言う時間は、ユダヤ人にとって祈りの時間であって、食事や飲酒するような習慣はありませんでした。酔っているのではなくて、預言の成就である。といってヨエル書を引いて解き明かします。
17節から21節。
17:『神がこう仰せになる。終りの時には、わたしの霊をすべての人に注ごう。そして、あなたがたのむすこ娘は預言をし、若者たちは幻を見、老人たちは夢を見るであろう。18:その時には、わたしの男女の僕たちにもわたしの霊を注ごう。そして彼らも預言をするであろう。19:また、上では、天に奇跡を見せ、下では、地にしるしを、すなわち、血と火と立ちこめる煙とを、見せるであろう。20:主の大いなる輝かしい日が来る前に、日はやみに月は血に変るであろう。21:そのとき、主の名を呼び求める者は、みな救われるであろう』。
ヨエル書2章28節から32節の引用です。ヨエル書はおそらく紀元前800年頃書かれたと考えられますが、この前半部分。れわたしの霊を全ての者に注ぐ、そして男女の僕たちが預言するという、まさにこのペンテコステの日の状況を表しています。今起こっていることは、ここに書かれたことだ、とペテロは断言しました。ヨエルが予言したことに外ならない。預言の成就である、ということです。そして、後半部分は、イエス様の再臨と最後の審判の時。そこで、主の名。つまりイエス様の御名を呼ぶものは救われる、と言うことを示しています。
つまり、まず聖霊が全ての人にもたらされた、ということ。イエス・キリストが天に昇られることによって、天より聖霊が遣わされて、新たな時代を迎えたのだと言うことが宣言されます。同時に、今私たちは、その聖霊によって語る。救いの福音である。これに耳を傾けてほしい、ということを言っています。そうして、ペテロはイエス・キリストを証ししていきます。「その名によって罪のゆるしを得させる悔い改めが、エルサレムにはじまって、もろもろの国民に宣べ伝えられる。あなたがたは、これらの事の証人である」とイエス様が仰ったとおり、キリストの証人としての務めを始めたということです。その証は次のようなものでした。
22節から。
「22:イスラエルの人たちよ、今わたしの語ることを聞きなさい。あなたがたがよく知っているとおり、ナザレ人イエスは、神が彼をとおして、あなたがたの中で行われた数々の力あるわざと奇跡としるしとにより、神からつかわされた者であることを、あなたがたに示されたかたであった。23:このイエスが渡されたのは神の定めた計画と予知とによるのであるが、あなたがたは彼を不法の人々の手で十字架につけて殺した。24:神はこのイエスを死の苦しみから解き放って、よみがえらせたのである。イエスが死に支配されているはずはなかったからである。」
これはまず、第一に、イエス様の地上での公生涯、受難の物語。第二に、その復活により救い主、目者であることが確証されたこと。第三に、イエス様がメシヤであることを証明する旧約聖書からの証言。そして最後に、これはこの後に語られますが悔い改めと信仰への勧めであります。イエス様の御業、死と復活。聖書による証明。信仰への勧め。これが、キリストの教会が立ち上がっていく時代に、使徒たちによって宣べ伝えられていった宣教の教えの柱。骨子であります。それがペテロによって語られました。
この宣教の言葉は、このあと25節以降、39節まで続きます。そこでは、詩篇16編や、イエス様自身がかつてパリサイ派の人をやりこめた詩篇110篇を用いています。イエス様が予言された真の救い主で、死から復活される方であること。その救い主は、ダビデの子孫のただの人ではなく、ダビデ自身が主と仰ぐ、神様であられることを明かしていきます。これを聞いた多くの人々が、悔い改め、この日一日で三千人の人がバプテスマを受けることになりました。ここに、教会が見える教会として形作られることになったのであります。
ペテロが語った、この宣教の説教。かつてまだ心が開かれる前に、イエス様に教えられたこと。また、復活にイエス様が明かされた、ご自身についての聖書の予言。これらが、聖霊によってペテロの心に刻まれ、浮かび上がって、押し出されてあふれ出た御言の説教であります。そこに、かつてイエス様を三度も「知らない」と言った、弱気なペテロの姿は見られません。情熱的で、熱心ではありましたが、少々気が短くせっかちで、早とちりなペテロではなく、聖霊が臨まれ、必要な力を与えられた救い主イエス・キリストを証しする、証人。宣教者ペテロの姿であります。もしかしたら、日常生活のふとした時々は、かつてのペテロと変わらなったかもしれません。しかし、御言を語り、主を証しする時。すなわち、主がお用いになる時は、そこに聖霊が共にいまし、その力を与えられたのであります。実際、様々な癒しの業をも表していくことになります。
イエス様の宣教命令は、行って全ての国民を弟子とせよ、でした、弟子とすることは、父・子・御霊の御名によって「洗礼を与える事」、イエス様の命じられたことを守るよう「教える事」でした。洗礼とはキリストを信じて告白すること。命じられたことを守る、ということは、従うと言うことです。信じることと従うこと。それはすなわち信仰と愛であって、聖書全体の、神様の教えのまとめでもあります。宣教、伝道とはつまり、イエス様を神の御子、救い主と信じるよう証しすること。そしてその御言に従うよう、教える事だと命じられたと言えます。ペテロは、イエス様が命じられた通りに、力強くその働きを始めました。
ペテロは、本名がご存じのとおりシモンです。ペテロという名はイエス様から与えられました。アラム語ではケパ。その意味をギリシャ語にしたのがペテロです。「岩」と言う意味と言われますが、正確に言いますと「ペトゥロス」。岩が欠けて出来た石の塊とか、石と言う意味になります。イエス様が教会を建てる、と言われた岩は「ペトゥラ」で、こちらは岩盤の意味です。両者は明確に区別されますので、カトリック教会が、その使徒的権威の源としているのは、無理があると言われています。教会が立てられる岩、岩盤はイエス様ご自身だ、と言うことは他の箇所からも明らかであります。
少しそれましたが、それでもイエス様は自ら与えた、硬い石を意味する、ペテロと言う名では彼のことをお呼びになりませんでした。実は福音書では一回だけ記録があります。それが、「鶏が三度鳴くまでに、あなたは三度私を知らないと言うだろう」と仰ったときでした。この時だけ「ペテロよ」と呼び掛けておられます。皮肉と言うか、イエス様の戒めであるといえます。ペテロはまだ、全く堅い岩などではない、心の移ろいやすい弱い存在であることを、自覚させるためでした。しかし、聖霊に満たされて、シモンは真実ペテロとされたのであります。
このペンテコステの朝、弟子たち全員、その一人一人に聖霊が降されました。彼らはそれぞれ、みな違う賜物を与えられていました。しかし、分かれて臨んだ炎。聖霊の元は一つでした。私たちも同じく、お一人の聖霊によって、一つの信仰、唯一の救い主イエス・キリストへと繋がれ、その主を一つの頭とする、教会の体とされています。岩どころか、わしたちは砂粒のような、また泥のような、小さく、弱く、また穢れたものであります。御言を通して、聖霊によって、主が常に共にいて下さり、み心のままに、必要とされる働きに用いて下さいますように。「そこで、ペテロが十一人の者と共に立ちあがり、声をあげて人々に語りかけた。」
主の伝道の御用のために、必要な声を上げることができますよう、主にある兄弟姉妹と、共に祈りつつ、主に聞き従う道を歩むことが許されますよう、願います。