神が遣わされる

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神が遣わされる

1:主の言葉がアミッタイの子ヨナに臨んで言った、2:「立って、あの大きな町ニネベに行き、これに向かって呼ばわれ。彼らの悪がわたしの前に上ってきたからである」。3:しかしヨナは主の前を離れてタルシシへのがれようと、立ってヨッパに下って行った。ところがちょうど、タルシシへ行く船があったので、船賃を払い、主の前を離れて、人々と共にタルシシへ行こうと船に乗った。
4:時に、主は大風を海の上に起されたので、船が破れるほどの激しい暴風が海の上にあった。5:それで水夫たちは恐れて、めいめい自分の神を呼び求め、また船を軽くするため、その中の積み荷を海に投げ捨てた。しかし、ヨナは船の奥に下り、伏して熟睡していた。6:そこで船長は来て、彼に言った、「あなたはどうして眠っているのか。起きて、あなたの神に呼ばわりなさい。神があるいは、われわれを顧みて、助けてくださるだろう」。
7:やがて人々は互に言った、「この災がわれわれに臨んだのは、だれのせいか知るために、さあ、くじを引いてみよう」。そして彼らが、くじを引いたところ、くじはヨナに当った。8:そこで人々はヨナに言った、「この災がだれのせいで、われわれに臨んだのか、われわれに告げなさい。あなたの職業は何か。あなたはどこから来たのか。あなたの国はどこか。あなたはどこの民か」。9:ヨナは彼らに言った、「わたしはヘブルびとです。わたしは海と陸とをお造りになった天の神、主を恐れる者です」。10:そこで人々ははなはだしく恐れて、彼に言った、「あなたはなんたる事をしてくれたのか」。人々は彼がさきに彼らに告げた事によって、彼が主の前を離れて、のがれようとしていた事を知っていたからである。ヨナ書 1章 1節から10節

「1:主の言葉がアミッタイの子ヨナに臨んで言った、2:「立って、あの大きな町ニネベに行き、これに向かって呼ばわれ。彼らの悪がわたしの前に上ってきたからである」。」
 ヨナ書の冒頭、1章1節から2節の御言葉です。ここでは、「主」が預言者ヨナに対して、使命を与え、それを告げられるところから始まります。本日から、このヨナ書に聞いてまいりたいと思います。この1章1節から10節の間に5回「主」という言葉が出てきますが,これは全て、私たちの主なる神様が、ご自身が、その契約の民に示された、YHWH「固有名詞」であります。一般名詞のぬしでもなければ、神でもない、固有名詞の「主」であることを、確認しておきましょう。
 まず、ヨナ書についてですが、1節にあるように「アミッタイの子ヨナ」に主の言葉が臨みます。このヨナは、ダビデ王、ソロモン王の後、イスラエルが、北のイスラエルと南のユダに分裂した後、北イスラエルの王、ヤラベアム2世の時代に、活躍した預言者でありました。ヤラベアムの治世は紀元前786年から746年ですので、そのころの話になります。列王記下の14章25節(旧約543頁)に、預言者ヨナの名が記されていますので、そちらをお読みいたします。
「彼は(彼とはヤラベアム王のことです)・・彼はハマテの入口からアラバの海まで、イスラエルの領土を回復した。イスラエルの神、主がガテヘベルのアミッタイの子である、そのしもべ預言者ヨナに言われた言葉のとおりである。」
 このように、ヨナの予言について具体的な記事は残っていませんが、当時の預言者として召されており、実際の主の預言がヨナに与えられていました。それは、北イスラエルを強く圧迫して、領土を奪っていた強大な国アッシリアから、イスラエルが領土を回復するという預言のようで、事実そのヨナの預言通りになったという記録であります。
 さて、このヨナに対して、主の言葉が臨みます。
「1:主の言葉がアミッタイの子ヨナに臨んで言った、2:「立って、あの大きな町ニネベに行き、これに向かって呼ばわれ。彼らの悪がわたしの前に上ってきたからである」。」
このように、それはニネベという大きな町へ行って、呼ばわれというものでした。呼ばわれというのは、大きな声で叫べという意味で、主の預言を宣べ伝えなさい、という命令であり、主がそのためにヨナを召されたということでありました。ここから、この預言書が始まります。ヨナ書は、ご存じのとおり、4章までの短い書でありますが、いわゆる預言書に分類されています。しかし、ヨナ書は形態が少々特殊で、他の預言書のように、主なる神の託宣、預言が延々と書き連ねられているような形ではありません。どちらかと言えば、ルツ記やエステル記、あるいはヨブ記といったような、文学書や歴史書のような、物語性が強い書となっています。その内容も独特でるため、歴史的な根拠を持たない例え話であるとか、寓話だというような評価をするものもいました。
しかし、やはりこれは、紛うことなき預言書である、というのが結論であります。短いが故ですが、主なる神様が召された預言者ヨナと、主との一対一の交わり、やり取りが中心ですが、実際に預言者に臨んだ主の言葉と、その御業、歴史的な実際の出来事として、御言葉の実現の記録とともに、主がイスラエルだけの限られた範囲ではなく、全世界に対するご主権と、憐れみとお持ちであることが明かされている、独特な書であります。イエス様も、マタイやルカの福音書でヨナのことについて、言及されておられ、ヨナ書の出来事がそのまま事実であることを認めておられます。
もう一点、ヨナについて説明いたしますと、先ほど、列王記の記事にありましたように、ヨナの出身はガテヘベルという土地であります。この町は、イエス様の故郷ナザレから北東に数キロ程度のところにありました。つまり、ガリラヤ地方ということになります。ヨハネによる福音書の7章で、祭司長やパリサイ人が、イエス様を殺すため、捕まえるように命令した下役たちが、イエス様の語られることを聞いて、どうするか意見が合わず、結局見逃すという出来事がありました。ここで、やがてイエス様を信じるようになるニコデモが、イエス様をかばう発言をするのですが、これに対して、パリサイ人達は次のように叱りました。
「よく調べて見なさい。ガリラヤからは預言者が出るものではないことが、わかるだろう。」
よく調べなさいと言いながら、この時かれらはヨナのことを完全に見落としていたことが分かります。自分たちに都合の良いことしか、目に入っていなかったということです。イエス様は、ご自身のことを、「見よ、ヨナにまさる者がここにいる」と、ヨナのことをしっかり覚えておられ、ご自身と重ねておられることが分かります。

 さて、この預言者ヨナに対して、主が命じられました。主の言葉を伝え、知らしめるために、ニネべの町へ行きなさいというものです。
この、主の召し。ご命令に対してヨナがとった行動はどうかといいますと、1章3節。
「3:しかしヨナは主の前を離れてタルシシへのがれようと、立ってヨッパに下って行った。ところがちょうど、タルシシへ行く船があったので、船賃を払い、主の前を離れて、人々と共にタルシシへ行こうと船に乗った。」
 なんと、主なる神の言葉を取り次ぐものとして召された預言者であるヨナは、主が遣わそうとされたニネベには向かわず、主の前を離れて逃れようとしました。ヨッパというのは、地中海に面したサマリヤ地方の港町で、当時でいえば北イスラエルとペリシテ人の土地の境目あたりにありました。そこからタルシシへ行こうとしたと書かれています。タルシシというのは、いまのスペイン南部の町と言われていますから、ニネベとは反対方向です。ヨナは、主の命に従わず、イスラエルの地を出て、地中海の東の端から西の端まで、紀元前8世紀の当時で言えば、まさに海の果てまで逃れようとしたわけであります。
 主の預言者として、主なる神の御旨、御業を知らされており、全知全能の神を信じ、その御力を十分に知っていたはずのヨナが、その主の御前から、離れようとしました。このことは、単にヨナが一時不信仰であった、というだけで済ませることはできない経緯があります。主が、行きなさいと命じられたニネベは、アッスリヤの首都でありました。アッスリヤは、イスラエル北方の強大な国家で、常にイスラエルの国境を脅かす天敵で、この時は一時勢力を弱めていましたが、実際に紀元前721年、北イスラエルは、アッスリヤによって占領され、10部族は捕虜となって散り散りになりました。北イスラエルを滅ぼすことになる国だったわけであります。
 主が、このアッスリヤの首都ニネベに、ヨナを遣わそうとされた理由は、2節にあるように、
「彼らの悪がわたしの前に上ってきたからである」
アッスリヤの暴虐が主の目に余った。それため、首都ニネベにいって、呼ばわれ。真の神の言葉を伝え、警告しなさい、ということであります。これは、警告に従わなければ、その悪ゆえに主の裁きが下されるのですが、万一、ニネベが悔い改めて、主に聞き従うようなことがあれば、主はこれを赦されて、お救いになるということが、ヨナには分かっていたのであります。それは、つまり、母国の脅威でる敵国を救うという役目を命じられたのであり、ヨナは素直に従うことができなかったということであります。
 北イスラエルも、ソロモンをはじめその子孫らの罪によって、主に従わず罪を重ねておりましたが、その中で、主に召された預言者として、主の言葉を宣べ伝え、イスラエルが何とか主に立ち帰るように努めていたヨナにとっては、主の召いとはいえ、納得しがたいものであったと思われます。かつて、モーセも、一時エジプトから逃れていた時、エジプトに戻って、イスラエルの民を救うように主に召された際に、彼らは私に従わないでしょうとか、私は口がうまくない、といった理由をつけて、三度も主の命を拒んでいました。結局、主が召され、その御旨は行われるのですが、ヨナもまた主の言葉を受けながら、素直に、それに従うことができ負かったのであります。どのような葛藤があったのか、どれくらい悩んだのかは記されておりませんが、預言者であっても、本当に迫られた時に、不信仰に陥ってしまう人の弱さが教えられています。
 ヨナの場合は、愛国心ということもあったでしょうが、やはり人の有限性といいますか、目の前のこと、身の回りのことに心をとらわれる。明確な主の御心が示されたにもかかわらず、自分の常識や判断に従ってしまう、そのような不信仰を露呈してしまいました。主に信頼せず、御前を逃れてまで、自分に従ったということであります。実際に、私たちも、それぞれ主に与えられた賜物、知恵や経験をもって、日々様々な判断をし、自分自身や家族、社会のためにいろいろ計画し、また務めています。しかし、ぞ望分の思いや計画が、その通り叶うか、成就するかどうかは、全て主なる神の御手にあるわけであります。ですから、私たちは、当然いかなる時も、主なる神の御心がなうようにとの祈り、助けを願う祈りとを捧げ、主に聞くことが求められるのであります。
 4節から6節をお読みいたします。
「4:時に、主は大風を海の上に起されたので、船が破れるほどの激しい暴風が海の上にあった。5:それで水夫たちは恐れて、めいめい自分の神を呼び求め、また船を軽くするため、その中の積み荷を海に投げ捨てた。しかし、ヨナは船の奥に下り、伏して熟睡していた。6:そこで船長は来て、彼に言った、「あなたはどうして眠っているのか。起きて、あなたの神に呼ばわりなさい。神があるいは、われわれを顧みて、助けてくださるだろう」。」
 しかし、ヨナは主の前から離れることはかないませんでした。主は大風を起こされ、ヨナが乗って海上に出た船の進みを妨げられました。ヨナ書が、ヨナ一人の手によって書かれたかどうかは不明ですが、ヨナ以外の多くの人の視点から描かれています。ヨナが寝ている間のことも、証言として記されます。船に乗っていた、様々な国から来た水夫たちが、それぞれ自分たちの神を呼び求めた、とあります。彼らは、真の神、唯一の主を知りませんでした。当時の多くの国々の常識は、国ごと、民族ごとに神があって、それぞれの守護神のように認識されていたことが分かります。ですから、船長はヨナに対してもあなたの神に助けを求めるよう、命じたわけであります。7節以降をお読みいたします。
 「7:やがて人々は互に言った、「この災がわれわれに臨んだのは、だれのせいか知るために、さあ、くじを引いてみよう」。そして彼らが、くじを引いたところ、くじはヨナに当った。8:そこで人々はヨナに言った、「この災がだれのせいで、われわれに臨んだのか、われわれに告げなさい。あなたの職業は何か。あなたはどこから来たのか。あなたの国はどこか。あなたはどこの民か」。9:ヨナは彼らに言った、「わたしはヘブルびとです。わたしは海と陸とをお造りになった天の神、主を恐れる者です」。10:そこで人々ははなはだしく恐れて、彼に言った、「あなたはなんたる事をしてくれたのか」。人々は彼がさきに彼らに告げた事によって、彼が主の前を離れて、のがれようとしていた事を知っていたからである。」
大切な船の積み荷を捨てても、どうにもならないような暴風の中で、原因追及のためにくじが引かれヨナがくじ当たります。ヨナは自らがヘブル人であることを名乗り、また信じ、恐れる神、主を明らかにしました。10節で、水夫らが「あなたはなんということをしてくれたのか」とヨナを責めていますが、9節と10せつの間で、ヨナがこの船に乗ったいきさつを説明したようです。主なる神の言葉を託され、それを伝えるべき者が、主に背を向けて逃げ出したこと、そのため主の御手が望んだことが、人々の前に明らかにされました。主はくじも、天候も自由にお用いになる、造り主で全地の支配者なる主であることを示されたのでありあます。
ヨナは、預言者として相応の覚悟で主に背を向け、海の果てまで逃れようとしましたが、主はそれをお許しになりませんでした。このヨナの行動と、主の御手が望むところは、詩篇139篇を思い起こさせます。139篇では、「わたしはどこへ行って、あなたの御前を逃れましょうか。」と歌っています「天に昇っても、黄泉に床を設けても、海の果てに住んでも」主の御手はわたしを導き、支えられるという、主はどこででも、いつでも共にいて下さる。主の下で常に光の内に保たれているという、讃美の歌でした。ヨナ書では、本当に主の御前から逃れようとするのですが、人の頑なな思いや、肉の考えを超えて、主のその御旨を実行されます。主の召しには、現実的な、完全な強制力あるということを覚えたいと思います。
しかし、その強制力は、水夫たちが感じたように、一見災いのように感じられることもあります。困難や不遇と思われることもあるでしょう。しかし、イエス・キリストによって、主を信じる者の全ての罪は許されており、主のご摂理は、死に至る災いではなく、永遠の命へと導いて下さる恵みであります。万事を益としてくださる、すなわちキリストにあって、子として下さり、愛する子を訓練し、成長を促される父なる神の愛であります。私たちも、日々迷い、また困難の中に置かれますが、主に信頼し、御言葉に聞いて、御手に委ねる平安が与えられますよう、祈りたいと思います。

2021年度 メッセージ一覧

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■サタンの試みにより、大きな困難と苦しみを受けたヨブ。友人達との議論や神への問いかけの中に、やがて地…

月報 2021年10月【キリストは誰のためにご自身を捧げられたか】

 

心は舌に表れる

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生きる信仰

■ヤコブによる手紙の2章後半、手紙のメインテーマ「信仰は行いと共に働いて生きる信仰になる」ことが教え…

憐みは裁きに勝つ

魂を救う力

■イエス・キリストの兄弟ヤコブが記した手紙は、試練と誘惑の中で弱っていた人々を励まし、導くものでした…

全ての善い贈り物

■ヤコブの手紙1章9~18節から、試練に潜む誘惑と耐える力。神様が贈って下さる真の富について、教えられた…

試練を喜んで

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主は聖霊によりて宿り

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神は世界を憐れむ

■ヨナが神の言葉を叫んで回ると、ニネベの町中、王や高官まで主の前に平伏し、悔い改める姿を示しました。…

悔い改めの実現

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■神様の命に背き逃れようとしてヨナが乗った船を、神様が暴風をもって遮られます。今にも沈没しそうな中、…

月報 2021年9月【救いへの選びは無条件】

 前回「全的堕落」ということについて御言葉に聞きました。人はアダムの堕落以来「全ての部分で」悪くな…

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■ピリピ人への手紙3章から。私たちは人生において、ただ一つの目標を目指し進んでいること。その歩みが完…

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 先月、ヤコブの手紙で「御言を行う人になりなさい」と教えられましたが、それは、神様の御心に適う事。…

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真実と愛とゆるし

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新しい人を着る

■ペソ人への手紙から、連続して聞いています。キリストの体である教会の一員とされ、キリストの民、神の子…

月報2021年6月 【熱心と、準備と、祈りをもって】

◆詩篇119篇18節は、ウェストミンスター小教理問答の90問で「御言葉が救いに有効になるために、それはどの…

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■エペソ人への手紙に聞いてまいります。4章からは教会に求められる実践編に入ります。その入り口です。

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このイザヤ書の聖句から、神様が定められた「安息日」をどのように過ごすべきか、それがいかに幸いかを教…

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イエスは甦って、

■十字架刑によって絶命されたイエスは墓に葬られ、大きな石で封がされました。しかし、日曜の朝、番人が見…

月報2021年3月 【万物を賜る主の愛】

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■【イエス様の系図に特別に記された女たち。神様は彼女たちはどのように用いられたのだろう。 今回はエリ…

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神とみ言にゆだねる

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神の永遠の目的

■「エペソ人への手紙」3章から。神のさまの永遠の目的。キリストの教会の実現について、その恵みの豊かさ…

神の住まい

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月報2021年2月号 【神に戒められる人は幸い】

■聖霊によって、イエス・キリストを信じる信仰を与えられたものが賜る祝福。この世における三つの祝福の内…

敵意を取り除く

■「エペソ人への手紙」2章の後半から、当時の教会の構成要員であったユダヤ人と異邦人。その隔てを取り払…

教会を満たすもの

■エペソ人への手紙1章の後半です。1章の前半から、三位一体の神様による救いの御業と、救われた民としての…

罪に中にも漸進する恵み

■新約聖書マタイによる福音書の1章に記されたイエス・キリストの系図。父親の名前が列挙される系図の中に5…

主は倒れる者をささえられる

■『主はすべて倒れんとする者をささえ、すべてかがむ者を立たせられます。』 この詩篇145篇14節の御言は、…

耳触りのよい話を求める

■新年礼拝で聞いた「テモテへの第二の手紙」4章から続いて、御言を宣べ伝える心構えと困難さについて教え…

主がわたしに耳を傾けられる

■詩篇113篇から118編は「讃美の詩篇」です。ユダヤの季節ごとの祭で、神殿に詣でる人々の前で歌われた、神…

御言をのべつたえなさい

■新型コロナウィルスへ感染の解決がまだまだ不透明な中、あらたな一年が始まります。年初にあたりあらため…