私たちは癒された

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私たちは癒された

1:だれがわれわれの聞いたことを信じ得たか。主の腕は、だれにあらわれたか。
2:彼は主の前に若木のように、かわいた土から出る根のように育った。彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさもない。
3:彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。

4:まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。
5:しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。
6:われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた。

7:彼はしえたげられ、苦しめられたけれども、口を開かなかった。ほふり場にひかれて行く小羊のように、また毛を切る者の前に黙っている羊のように、口を開かなかった。
8:彼は暴虐なさばきによって取り去られた。その代の人のうち、だれが思ったであろうか、彼はわが民のとがのために打たれて、生けるものの地から断たれたのだと。
9:彼は暴虐を行わず、その口には偽りがなかったけれども、その墓は悪しき者と共に設けられ、その塚は悪をなす者と共にあった。

10:しかも彼を砕くことは主のみ旨であり、主は彼を悩まされた。彼が自分を、とがの供え物となすとき、その子孫を見ることができ、その命をながくすることができる。かつ主のみ旨が彼の手によって栄える。
11:彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足する。義なるわがしもべはその知識によって、多くの人を義とし、また彼らの不義を負う。
12:それゆえ、わたしは彼に大いなる者と共に物を分かち取らせる。彼は強い者と共に獲物を分かち取る。これは彼が死にいたるまで、自分の魂をそそぎだし、とがある者と共に数えられたからである。しかも彼は多くの人の罪を負い、とがある者のためにとりなしをした。イザヤ書 53章 1節から12節

◆【5:しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。】

 イザヤ書53章5節の御言葉でございます。イザヤ書は、紀元前700年代に預言者イザヤを通して語られた、神様の予言であります。イザヤは紀元前740年頃、主に召されて予言者となり、約40年間、分裂した南ユダの国で、4代の王に仕えた預言者でした。彼は北イスラエルの滅亡を見、150年後のバビロン捕囚を予言し、その回復と、さらにその先に約束された、最終の救い主、メシヤの予言を記しました。クリスマスを近くに控え、本日も御言葉自体を味わいながら、聞いて参りたいと思います。
 本日の53章は、その直前の52章13節以降と併せ「第4の主のしもべの歌」と呼ばれています。ここでは、約束のメシヤ、すなわちキリストの御姿、ご生涯とその意味が明らかに表されています。そこで、少し戻って、52章の13節から15節をお読みいたします。(1021頁上段)
52章。
【13:見よ、わがしもべは栄える。彼は高められ、あげられ、ひじょうに高くなる。
14:多くの人が彼に驚いたように―彼の顔だちは、そこなわれて人と異なり、その姿は人の子と異なっていたからである―
15:彼は多くの国民を驚かす。王たちは彼のゆえに口をつぐむ。それは彼らがまだ伝えられなかったことを見、まだ聞かなかったことを悟るからだ。】

 この52章では「主の慰め」、「主の贖い」、「神の救い」が予言され、13節から15節で、その担い手である「主のしもべ」の姿が端的に表されています。13節では、主の大いなる救いの御業ゆえに、メシヤが高く上げられる。つまりキリストの高挙が予言されます。しかし、14節は、主のしもべ、御子なるメシヤが低くなられたこと。先に予言されたその栄光は、この世の低いところに来てくださり、嘲りと苦難の中でも従順であられた故であった、キリストの謙卑が表されています。
そして15節では、そのキリストの御姿が、多くの国という世界的規模であったこと。しかし、王達が口をつぐむこと。つまり、多くの人たちがキリストを悟り得ないこと、信じないことが予言されています。その理由は、キリストの姿が、彼らが思い描くことのできなかった全く新しいものであったこと。そして、主が、その目を閉ざしておられたことによります。主が悟らせなかったということ自体、主の御心であったことはイザヤ書6章の9節、10節にすでに予言されていますので、後ほどご参照いただければと思います。

 こうして、52章13節から15節で、メシヤ=キリストの何より高い栄光、神の御子の究極のへりくだり、諸国の王、人々の不信仰が、見出しのように語られて、53章に入ってまいります。この第4の主のしもべの歌の主題は「主のしもべの生涯と苦難」砕いて言いますと「私たちの罪のために苦難を引き受けて死なれた主のしもべ・キリスト」ということになります。そして最後は。苦難の救い主の勝利。その恵みが予言されています。まず1節から3節。

【1:だれがわれわれの聞いたことを信じ得たか。主の腕は、だれにあらわれたか。
2:彼は主の前に若木のように、かわいた土から出る根のように育った。彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさもない。
3:彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。】

 一体、誰が信じたか。我々に聞いたこと、預言者が語ってきた救い主を、神の授けられた御言葉による約束を、誰が本当にまに受けたであろうか。多くの人は信じませんでした。なぜかというと、彼には威厳もなく、美しさもなく、見栄えがしなかった。人々が勝手に思い描いていた姿ではありませんでした。乾いた土地から出る枯れかけた根のように。倒された大木、エッサイの株から、かろうじて目を出した若木のように、か弱く映っていました。事実、全知全能の神。全てをご支配される造り主なる神の御子が、人となられたのは、貧しい大工の家で、馬小屋でお生まれになった方でした。真の王を願っていた人々に、受け入れられる姿ではありませんでした。
 それゆえ、メシヤは人々に侮られて、捨てられ、その中で、彼は悲しみの人。これは「痛みを知る人」という意味です。その方は、私たちと同じ、痛みと悲しみを知っておられました。病の苦しみを、罪の悩みをご存じでありました。このか弱い若木は主に御前に育ち、全く主に従順に歩まれるのですが、多くの人から尊ばれることはありませんでした。重ねて「侮られて」と語っています。新約聖書を1ヶ所引用いたします。ヨハネによる福音書12章37節。新約聖書162頁です。37節から41節まで。

【37:このように多くのしるしを彼らの前でなさったが、彼らはイエスを信じなかった。3:それは、預言者イザヤの次の言葉が成就するためである、「主よ、わたしたちの説くところを、だれが信じたでしょうか。また、主のみ腕はだれに示されたでしょうか」。
39:こういうわけで、彼らは信じることができなかった。イザヤはまた、こうも言った、40:「神は彼らの目をくらまし、心をかたくなになさった。それは、彼らが目で見ず、心で悟らず、悔い改めていやされることがないためである」。41:イザヤがこう言ったのは、イエスの栄光を見たからであって、イエスのことを語ったのである。】

 ここで、イエス様がなさったしるしは、11章でラザロを生き返らせたこと、12章で天の父に呼びかけられると、天からの御声があったことなどがありました。しかし、それでも多くの人は信じなかったとあります。イエス様はそれを、イザヤの予言が成就するためであったと、解き明かされています。イザヤは、イエス様の栄光を見ていた、主によって知らされていたということが、分かりました。
今、私たちは幸いなことに、すでにイエス様が来てくださっており、新約聖書に記されたイエス様を通して、旧約の予言を知ることができます。何千年にもわたって、少しずつ開示されてきた、主なる神様の啓示、自己開示とも言えます。救いの御業のご計画がイエス様によって、すべて明らかにされ、実行されました。この新約、新しい契約。恵みの契約の光によって、イエス様を通して父なる神の御心が明かされ、子とされて御前に平伏すことが適うわけであります。

 イザヤ書に戻りますと、1から3節で示された、誰も信じなかったこと。卑しい外見であること。人々に繰り返しあざけられた、主のしもべ、メシヤの本当の姿が明かされていきます。4節から6節。
【4:まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。
5:しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。
6:われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた。】

 ここに、これが書かれた700年後に実現する、救い主イエス様の贖いの御業が、本質的に語られています。マタイによる福音書8章では、イエス様による多くの癒しの御業が記録されています。らい病の癒し、百卒長の従者の癒し。またペテロの姑の熱病の癒しなどが示され、8章37節では、それらが、イザヤのこの予言が成就するためであった、と締めくくっています。
 しかし、イエス様による癒しの奇跡は、病気を治すことが目的ではありませんでした。悪霊を追い出し、病を癒し、死人を蘇らせ、嵐を治める。このような御業は、ご自身が全能の父なる神より、全地の王として委ねられた、権威をお示しになることでした。その先に定められていた、主なる神の権威と御力をお持ちの、神の御子が、十字架の上で死ぬという、目的。罪人の贖いの御業と、信仰の招きへの助走であったとも言えます。

 5節に「われわれの咎」とあります。「咎」は具体的に言うと神への「背きの罪」のことです。同紙にすると「逆らう」という意味になります。また「傷つけられ」という言葉は「刺された」「刺し貫かれた」という意味ですから、今の私たちなら、そのまま十字架上でのイエス様を思い浮かべることになるでしょう。神に逆らう人の背きと、不義。御教えを悟ることも行うこともできず、自分中心の不品行、欲望のとりこから抜け出すことのできない私たちの代わりに、彼、救い主は、刺し貫かれ、砕かれ、懲らしめられました。それも自ら、と書かれています。イエス様はご自身が、何のためにこの世に遣わされてこられたか、完全に理解されていました。御父と一体であられました。
 父なる神の救いのご計画を実行し、その愛を示すために、自ら打たれるために。刺し貫かれるために十字架に向かって歩まれたのであります。ここに、主の限りない憐れみと慈しみが、私たちの注がれていることを思い知らされます。それにもかかわらず、人はその御姿を見てこう思うのです。
【彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。】
ヨブの友人たちのように、この世の姿、威厳のない姿、境遇をもって、不信仰だ、神の戒めだという。神の恵みの判断を、現生利益だけに縛られた当時の人々の誤り、目を塞がれた状態を示します。しかし、「我々は思った」と言われるように、私たちのうちに主の御霊が働いて下さらなければ、人は決してこれを悟ることは出来ません。1節で「誰が信じ得たか」と言われる通り、信じられない出来事なのです。この贖い主、メシヤが、神の御子が人となって地上に来られた、という事実は、当たり前に信じがたく、罪ある人にとっては、まことに愚かな話です。
しかし、真の救いに導く福音が、人にとって愚かであること自体、神がお定めになさったことでありました。神は宣教の愚かさをもって、信じる者を救うことをよしとされたのであります。それは何より、全ての栄光と誇りが主に帰せられるためでありました。

 この4節から5節は「第4の主のしもべの歌」の焦点でもあり、イザヤ書の中心と言ってもいいかも知れません。彼の、救い主の苦しみが私たちの身代わりであり、彼がこらしめられることで私たちは平安を受けました。彼が受けた傷によって、私たちは癒されたのです。癒されることは、回復されること。すなわち、主なる神様との、正常な、本来の交わりが回復されるということであります。この方を信じて与えられる癒し。神様との交わりの回復、御前に傷のないものとされ、子とされ、天国を継ぐ者とされたのであります。

 6節を見ますと救い主が来て下さった理由が示されています。【われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。】この羊は、羊飼いを見失った羊です。信頼できる唯一の羊飼い、主を見失った羊は、それぞれが自分勝手に歩き回り迷っていきます。神から離れた人は、自分の工夫や考えで進んでいっても、結局は彷徨うしかないのであります。神はこのように、神に背き、ばらばらになっていく羊を、その安全な囲いの中に、再び集めて下さいます。
 しかし、実はその前に罰せられるのです。離れた、背いた罪に目をつぶることはなさいません。ただ、その罪を全て主のしもべ。ご自身の御子の上に負わせる、と仰っているのであります。「我々は皆」、全ての人は迷って自分勝手な道を行きます。その罪を、われわれ全ての者。これは人類すべてではありません。主の選びの民、全ての主の羊という意味です。その罪を、主ご自身が背負って下さる。その方が来られるという宣言が、預言者イザヤに示された神の御言葉でありました。

 かつて、激しい苦難と悩みの中で、ヨブの心に浮かんだ希望。「わたしを購う者は生きておられる。後の日には必ず地上に立たれる。」との救い主の確信は、その数百年、あるいは一千年の後、イザヤの中に、さらに明らかな姿をとって示されました。そして、さらに700年の後、実際に、この方が地上に立たれることになったのであります。それが、歴史上、ただ一回限りの出来事。最も大きな神の啓示であり、神の愛が示さることになりました。それがクリスマスの出来事であります。
 こうして、この世に人となられた、神の御子、主のしもべ、メシヤ、救い主、キリストイエスの歩まれる、地上の道筋が、7節から9節に記されています。この預言通り、主は歩まれました。10節から12節では、イエス様の御業と、その結果もたらされる祝福、義とされること、その民がイエス様と一体となる、主の勝利の栄光が歌われております。
このイザヤ書52章13節から、53章に記された、主のしもべの歌に聞きながら、私たちのために苦難を背負われて、あざけられ、傷つけられ、私たちを癒して、さらにとりなして下さる。主のあまりにも大きな恵みを思いを馳せ、あらためて感謝したいと思います。

2021年度 メッセージ一覧

ヨナに勝るもの

■イエス様は、預言者ヨナと、イスラエルの王ソロモンという、旧約聖書の二人の人物を引きあいに、ご自身と…

月報 2021年11月【誰が神の愛をさまたげ得るか】

 

まことの光が世に来た

■「初めに言があった」という有名な言葉で始まる「ヨハネによる福音書」の1章から、クリスマスの出来事に…

私たちは癒された

■有名なメシヤ預言、イザヤ書53章です。キリスト降誕の700年以上前に、彼のご生涯が予言されていました。■

必ず地に立たれる

■サタンの試みにより、大きな困難と苦しみを受けたヨブ。友人達との議論や神への問いかけの中に、やがて地…

月報 2021年10月【キリストは誰のためにご自身を捧げられたか】

 

心は舌に表れる

■ヤコブの手紙3章前半では、語るという行為の中に、信仰と行いの一体の大切さが教えられます。

生きる信仰

■ヤコブによる手紙の2章後半、手紙のメインテーマ「信仰は行いと共に働いて生きる信仰になる」ことが教え…

憐みは裁きに勝つ

魂を救う力

■イエス・キリストの兄弟ヤコブが記した手紙は、試練と誘惑の中で弱っていた人々を励まし、導くものでした…

全ての善い贈り物

■ヤコブの手紙1章9~18節から、試練に潜む誘惑と耐える力。神様が贈って下さる真の富について、教えられた…

試練を喜んで

■新約聖書中、最も早い時期に記されたとされる、ヤコブの手紙。イエス・キリストの兄弟が書いたこの手紙に…

主は聖霊によりて宿り

■これまで、マタイによる福音書の冒頭にあるイエスキリストの系図から、そこに出てくる5人の女性に着目し…

神は世界を憐れむ

■ヨナが神の言葉を叫んで回ると、ニネベの町中、王や高官まで主の前に平伏し、悔い改める姿を示しました。…

悔い改めの実現

■嵐の海に投げ込まれたヨナは、大きな魚に飲み込まれ、救い出されました。魚の腹の中で整えられたヨナは3…

ヨナの祈り

■荒れた海を鎮め、船員を助けるために海に投げ落とされたヨナは、神が備えられた大魚に飲み込まれます。そ…

御手はどこまでも

■神様の命に背き逃れようとしてヨナが乗った船を、神様が暴風をもって遮られます。今にも沈没しそうな中、…

月報 2021年9月【救いへの選びは無条件】

 前回「全的堕落」ということについて御言葉に聞きました。人はアダムの堕落以来「全ての部分で」悪くな…

神が遣わされる

◆紀元前8世紀。神様から、強大な敵国へ行って神の宣告を伝えるよう命じられた、預言者ヨナは、それを逃れ…

ここからの一歩

■ピリピ人への手紙3章から。私たちは人生において、ただ一つの目標を目指し進んでいること。その歩みが完…

月報 2021年8月【救いは神の御業】

 先月、ヤコブの手紙で「御言を行う人になりなさい」と教えられましたが、それは、神様の御心に適う事。…

主に仕えます

■ヨシュアに導かれて、主なる神が約束された地、カナンに入植を果たしたイスラエルの民に対して、ヨシュア…

信仰の戦い

■エペソ人への手紙の最終章から、信仰の戦いということについて教えられます。

第一の教え

■エペソ人への手紙6章から、パウロのは、親子関係、主従関係の在り方について教えていきます。

キリストと教会

■教会の一致をもたらす、クリスチャンの交わり。今朝は、その基礎となる夫婦関係について、キリストと教会…

聖霊に満たされて

■エペソ人への手紙5章から、今の時代を幸せに生きるために必要なこと。何を求めて、何を心掛けるかが教え…

光に歩め

■エペソ人への手紙5章から、クリスチャンに与えられて、約束されている幸いな生き方について、教えられた…

預言者ナタンの知恵

■マタイによる福音書冒頭のイエス・キリストの系図にある、5人の女についてみ言葉に聴いて参りましたが、…

月報2021年7月 【御言を行う人になりなさい】

◆先月は先月は、御言葉を語り、また聞くために「熱心と準備と祈り」を持つことの大切さを教えられました。…

喜ばれる捧げもの

■本日は、エペソ人への手紙5章から、神の愛される子供とされた、私たちの歩き方。神様が喜ばれる姿を聞い…

真実と愛とゆるし

■エペソ人への手紙から連続して聞いてまいります。クリスチャンの交わりに求められる事が教えられます。

新しい人を着る

■ペソ人への手紙から、連続して聞いています。キリストの体である教会の一員とされ、キリストの民、神の子…

月報2021年6月 【熱心と、準備と、祈りをもって】

◆詩篇119篇18節は、ウェストミンスター小教理問答の90問で「御言葉が救いに有効になるために、それはどの…

一つの体なる教会

■エペソ人への手紙に聞いてまいります。4章からは教会に求められる実践編に入ります。その入り口です。

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■エペソ人への手紙での、パウロの大祈祷問呼ばれる祈りから、私たちの内に働く力について、聖書にきいてま…

使徒の覚醒

■ペンテコステの日に、弟子たちに一斉に降臨された聖霊によって、彼らがどのように変わったか。使徒行伝か…

ルツの信仰

■マタイによる福音書の冒頭にあるイエス・キリストの系図。そこに記された女性たちを取り上げて,御言葉に…

聖霊が語らせるままに

■本日は「ペンテコステ」記念礼拝です。「聖霊降臨」の日とも言われ、この世の教会の始まった時とされてい…

月報2021年5月 【イエス・キリストの働き】

◆ここには、イエス・キリストが福音を宣べ伝えられたこと。そして癒しの業を行われたことが記されています…

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■マタイによる福音書の最後は、イエス・キリストによる「大宣教命令」と言われる言葉で締めくくられます。…

守れない誓い(2)

◆先週に続き「マタイによる福音書」5章から、イエス様による律法の解き明かしを聞いてまいります。本日は…

守れない誓い

■先に「殺すな」という教え(律法)について教えを宣べられたイエス・キリストは、続いて「姦淫するな」とい…

月報2021年4月 【安息日の恵み】

このイザヤ書の聖句から、神様が定められた「安息日」をどのように過ごすべきか、それがいかに幸いかを教…

律法は廃らない

◆有名な「山上の説教」で誤った聖書理解からくる価値観を、大きく転換させて見せられたイエス・キリストは…

安息日の讃美

■詩篇92篇は「安息日の歌、さんび」と題されます。この詩篇から、十戒の第三戒に示される神様を例はする態…

復活のキリストの説教

■十字架の死の後、墓に葬られて三日目に「よみがえらされた」イエス・キリストは、その後弟子たちに次々と…

イエスは甦って、

■十字架刑によって絶命されたイエスは墓に葬られ、大きな石で封がされました。しかし、日曜の朝、番人が見…

月報2021年3月 【万物を賜る主の愛】

■神様が私たちに「万物を賜る」と仰います。それは大きな恵みですが、そのようなことがあり得るのでしょう…

キリストを埋葬する

■キリストの復活をお祝いする「イースター」前の一週間は「受難週」と呼ばれます。まことの神イエス・キリ…

遊女ラハブの信仰

■【イエス様の系図に特別に記された女たち。神様は彼女たちはどのように用いられたのだろう。 今回はエリ…

従うことは犠牲にまさる

■イスラエルの初代の王、サウルはアマレク人との戦いに勝ちましたが、サムエルが告げた主なる神の命令に完…

神とみ言にゆだねる

■「使徒行伝」20章より、パウロがエペソを離れる際に、もう二度と会えないだろうと、長老たちを集めて語っ…

神の永遠の目的

■「エペソ人への手紙」3章から。神のさまの永遠の目的。キリストの教会の実現について、その恵みの豊かさ…

神の住まい

■初代教会が各地に建てられ始めたころ、まだ不安定な信徒たちに、キリストの教会がいかなるのものかをパウ…

月報2021年2月号 【神に戒められる人は幸い】

■聖霊によって、イエス・キリストを信じる信仰を与えられたものが賜る祝福。この世における三つの祝福の内…

敵意を取り除く

■「エペソ人への手紙」2章の後半から、当時の教会の構成要員であったユダヤ人と異邦人。その隔てを取り払…

教会を満たすもの

■エペソ人への手紙1章の後半です。1章の前半から、三位一体の神様による救いの御業と、救われた民としての…

罪に中にも漸進する恵み

■新約聖書マタイによる福音書の1章に記されたイエス・キリストの系図。父親の名前が列挙される系図の中に5…

主は倒れる者をささえられる

■『主はすべて倒れんとする者をささえ、すべてかがむ者を立たせられます。』 この詩篇145篇14節の御言は、…

耳触りのよい話を求める

■新年礼拝で聞いた「テモテへの第二の手紙」4章から続いて、御言を宣べ伝える心構えと困難さについて教え…

主がわたしに耳を傾けられる

■詩篇113篇から118編は「讃美の詩篇」です。ユダヤの季節ごとの祭で、神殿に詣でる人々の前で歌われた、神…

御言をのべつたえなさい

■新型コロナウィルスへ感染の解決がまだまだ不透明な中、あらたな一年が始まります。年初にあたりあらため…