◆【5:しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。】
イザヤ書53章5節の御言葉でございます。イザヤ書は、紀元前700年代に預言者イザヤを通して語られた、神様の予言であります。イザヤは紀元前740年頃、主に召されて予言者となり、約40年間、分裂した南ユダの国で、4代の王に仕えた預言者でした。彼は北イスラエルの滅亡を見、150年後のバビロン捕囚を予言し、その回復と、さらにその先に約束された、最終の救い主、メシヤの予言を記しました。クリスマスを近くに控え、本日も御言葉自体を味わいながら、聞いて参りたいと思います。
本日の53章は、その直前の52章13節以降と併せ「第4の主のしもべの歌」と呼ばれています。ここでは、約束のメシヤ、すなわちキリストの御姿、ご生涯とその意味が明らかに表されています。そこで、少し戻って、52章の13節から15節をお読みいたします。(1021頁上段)
52章。
【13:見よ、わがしもべは栄える。彼は高められ、あげられ、ひじょうに高くなる。
14:多くの人が彼に驚いたように―彼の顔だちは、そこなわれて人と異なり、その姿は人の子と異なっていたからである―
15:彼は多くの国民を驚かす。王たちは彼のゆえに口をつぐむ。それは彼らがまだ伝えられなかったことを見、まだ聞かなかったことを悟るからだ。】
この52章では「主の慰め」、「主の贖い」、「神の救い」が予言され、13節から15節で、その担い手である「主のしもべ」の姿が端的に表されています。13節では、主の大いなる救いの御業ゆえに、メシヤが高く上げられる。つまりキリストの高挙が予言されます。しかし、14節は、主のしもべ、御子なるメシヤが低くなられたこと。先に予言されたその栄光は、この世の低いところに来てくださり、嘲りと苦難の中でも従順であられた故であった、キリストの謙卑が表されています。
そして15節では、そのキリストの御姿が、多くの国という世界的規模であったこと。しかし、王達が口をつぐむこと。つまり、多くの人たちがキリストを悟り得ないこと、信じないことが予言されています。その理由は、キリストの姿が、彼らが思い描くことのできなかった全く新しいものであったこと。そして、主が、その目を閉ざしておられたことによります。主が悟らせなかったということ自体、主の御心であったことはイザヤ書6章の9節、10節にすでに予言されていますので、後ほどご参照いただければと思います。
こうして、52章13節から15節で、メシヤ=キリストの何より高い栄光、神の御子の究極のへりくだり、諸国の王、人々の不信仰が、見出しのように語られて、53章に入ってまいります。この第4の主のしもべの歌の主題は「主のしもべの生涯と苦難」砕いて言いますと「私たちの罪のために苦難を引き受けて死なれた主のしもべ・キリスト」ということになります。そして最後は。苦難の救い主の勝利。その恵みが予言されています。まず1節から3節。
【1:だれがわれわれの聞いたことを信じ得たか。主の腕は、だれにあらわれたか。
2:彼は主の前に若木のように、かわいた土から出る根のように育った。彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさもない。
3:彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。】
一体、誰が信じたか。我々に聞いたこと、預言者が語ってきた救い主を、神の授けられた御言葉による約束を、誰が本当にまに受けたであろうか。多くの人は信じませんでした。なぜかというと、彼には威厳もなく、美しさもなく、見栄えがしなかった。人々が勝手に思い描いていた姿ではありませんでした。乾いた土地から出る枯れかけた根のように。倒された大木、エッサイの株から、かろうじて目を出した若木のように、か弱く映っていました。事実、全知全能の神。全てをご支配される造り主なる神の御子が、人となられたのは、貧しい大工の家で、馬小屋でお生まれになった方でした。真の王を願っていた人々に、受け入れられる姿ではありませんでした。
それゆえ、メシヤは人々に侮られて、捨てられ、その中で、彼は悲しみの人。これは「痛みを知る人」という意味です。その方は、私たちと同じ、痛みと悲しみを知っておられました。病の苦しみを、罪の悩みをご存じでありました。このか弱い若木は主に御前に育ち、全く主に従順に歩まれるのですが、多くの人から尊ばれることはありませんでした。重ねて「侮られて」と語っています。新約聖書を1ヶ所引用いたします。ヨハネによる福音書12章37節。新約聖書162頁です。37節から41節まで。
【37:このように多くのしるしを彼らの前でなさったが、彼らはイエスを信じなかった。3:それは、預言者イザヤの次の言葉が成就するためである、「主よ、わたしたちの説くところを、だれが信じたでしょうか。また、主のみ腕はだれに示されたでしょうか」。
39:こういうわけで、彼らは信じることができなかった。イザヤはまた、こうも言った、40:「神は彼らの目をくらまし、心をかたくなになさった。それは、彼らが目で見ず、心で悟らず、悔い改めていやされることがないためである」。41:イザヤがこう言ったのは、イエスの栄光を見たからであって、イエスのことを語ったのである。】
ここで、イエス様がなさったしるしは、11章でラザロを生き返らせたこと、12章で天の父に呼びかけられると、天からの御声があったことなどがありました。しかし、それでも多くの人は信じなかったとあります。イエス様はそれを、イザヤの予言が成就するためであったと、解き明かされています。イザヤは、イエス様の栄光を見ていた、主によって知らされていたということが、分かりました。
今、私たちは幸いなことに、すでにイエス様が来てくださっており、新約聖書に記されたイエス様を通して、旧約の予言を知ることができます。何千年にもわたって、少しずつ開示されてきた、主なる神様の啓示、自己開示とも言えます。救いの御業のご計画がイエス様によって、すべて明らかにされ、実行されました。この新約、新しい契約。恵みの契約の光によって、イエス様を通して父なる神の御心が明かされ、子とされて御前に平伏すことが適うわけであります。
イザヤ書に戻りますと、1から3節で示された、誰も信じなかったこと。卑しい外見であること。人々に繰り返しあざけられた、主のしもべ、メシヤの本当の姿が明かされていきます。4節から6節。
【4:まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。
5:しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。
6:われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた。】
ここに、これが書かれた700年後に実現する、救い主イエス様の贖いの御業が、本質的に語られています。マタイによる福音書8章では、イエス様による多くの癒しの御業が記録されています。らい病の癒し、百卒長の従者の癒し。またペテロの姑の熱病の癒しなどが示され、8章37節では、それらが、イザヤのこの予言が成就するためであった、と締めくくっています。
しかし、イエス様による癒しの奇跡は、病気を治すことが目的ではありませんでした。悪霊を追い出し、病を癒し、死人を蘇らせ、嵐を治める。このような御業は、ご自身が全能の父なる神より、全地の王として委ねられた、権威をお示しになることでした。その先に定められていた、主なる神の権威と御力をお持ちの、神の御子が、十字架の上で死ぬという、目的。罪人の贖いの御業と、信仰の招きへの助走であったとも言えます。
5節に「われわれの咎」とあります。「咎」は具体的に言うと神への「背きの罪」のことです。同紙にすると「逆らう」という意味になります。また「傷つけられ」という言葉は「刺された」「刺し貫かれた」という意味ですから、今の私たちなら、そのまま十字架上でのイエス様を思い浮かべることになるでしょう。神に逆らう人の背きと、不義。御教えを悟ることも行うこともできず、自分中心の不品行、欲望のとりこから抜け出すことのできない私たちの代わりに、彼、救い主は、刺し貫かれ、砕かれ、懲らしめられました。それも自ら、と書かれています。イエス様はご自身が、何のためにこの世に遣わされてこられたか、完全に理解されていました。御父と一体であられました。
父なる神の救いのご計画を実行し、その愛を示すために、自ら打たれるために。刺し貫かれるために十字架に向かって歩まれたのであります。ここに、主の限りない憐れみと慈しみが、私たちの注がれていることを思い知らされます。それにもかかわらず、人はその御姿を見てこう思うのです。
【彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。】
ヨブの友人たちのように、この世の姿、威厳のない姿、境遇をもって、不信仰だ、神の戒めだという。神の恵みの判断を、現生利益だけに縛られた当時の人々の誤り、目を塞がれた状態を示します。しかし、「我々は思った」と言われるように、私たちのうちに主の御霊が働いて下さらなければ、人は決してこれを悟ることは出来ません。1節で「誰が信じ得たか」と言われる通り、信じられない出来事なのです。この贖い主、メシヤが、神の御子が人となって地上に来られた、という事実は、当たり前に信じがたく、罪ある人にとっては、まことに愚かな話です。
しかし、真の救いに導く福音が、人にとって愚かであること自体、神がお定めになさったことでありました。神は宣教の愚かさをもって、信じる者を救うことをよしとされたのであります。それは何より、全ての栄光と誇りが主に帰せられるためでありました。
この4節から5節は「第4の主のしもべの歌」の焦点でもあり、イザヤ書の中心と言ってもいいかも知れません。彼の、救い主の苦しみが私たちの身代わりであり、彼がこらしめられることで私たちは平安を受けました。彼が受けた傷によって、私たちは癒されたのです。癒されることは、回復されること。すなわち、主なる神様との、正常な、本来の交わりが回復されるということであります。この方を信じて与えられる癒し。神様との交わりの回復、御前に傷のないものとされ、子とされ、天国を継ぐ者とされたのであります。
6節を見ますと救い主が来て下さった理由が示されています。【われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。】この羊は、羊飼いを見失った羊です。信頼できる唯一の羊飼い、主を見失った羊は、それぞれが自分勝手に歩き回り迷っていきます。神から離れた人は、自分の工夫や考えで進んでいっても、結局は彷徨うしかないのであります。神はこのように、神に背き、ばらばらになっていく羊を、その安全な囲いの中に、再び集めて下さいます。
しかし、実はその前に罰せられるのです。離れた、背いた罪に目をつぶることはなさいません。ただ、その罪を全て主のしもべ。ご自身の御子の上に負わせる、と仰っているのであります。「我々は皆」、全ての人は迷って自分勝手な道を行きます。その罪を、われわれ全ての者。これは人類すべてではありません。主の選びの民、全ての主の羊という意味です。その罪を、主ご自身が背負って下さる。その方が来られるという宣言が、預言者イザヤに示された神の御言葉でありました。
かつて、激しい苦難と悩みの中で、ヨブの心に浮かんだ希望。「わたしを購う者は生きておられる。後の日には必ず地上に立たれる。」との救い主の確信は、その数百年、あるいは一千年の後、イザヤの中に、さらに明らかな姿をとって示されました。そして、さらに700年の後、実際に、この方が地上に立たれることになったのであります。それが、歴史上、ただ一回限りの出来事。最も大きな神の啓示であり、神の愛が示さることになりました。それがクリスマスの出来事であります。
こうして、この世に人となられた、神の御子、主のしもべ、メシヤ、救い主、キリストイエスの歩まれる、地上の道筋が、7節から9節に記されています。この預言通り、主は歩まれました。10節から12節では、イエス様の御業と、その結果もたらされる祝福、義とされること、その民がイエス様と一体となる、主の勝利の栄光が歌われております。
このイザヤ書52章13節から、53章に記された、主のしもべの歌に聞きながら、私たちのために苦難を背負われて、あざけられ、傷つけられ、私たちを癒して、さらにとりなして下さる。主のあまりにも大きな恵みを思いを馳せ、あらためて感謝したいと思います。