主に仕えます
14:それゆえ、いま、あなたがたは主を恐れ、まことと、まごころと、真実とをもって、主に仕え、あなたがたの先祖が、川の向こう、およびエジプトで仕えた他の神々を除き去って、主に仕えなさい。
15:もしあなたがたが主に仕えることを、こころよしとしないのならば、あなたがたの先祖が、川の向こうで仕えた神々でも、または、いまあなたがたの住む地のアモリびとの神々でも、あなたがたの仕える者を、きょう、選びなさい。ただし、わたしとわたしの家とは共に主に仕えます」。
16:その時、民は答えて言った、「主を捨てて、他の神々に仕えるなど、われわれは決していたしません。17:われわれの神、主がみずからわれわれと、われわれの先祖とを、エジプトの地、奴隷の家から導き上り、またわれわれの目の前で、あの大いなるしるしを行い、われわれの行くすべての道で守り、われわれが通ったすべての国民の中でわれわれを守られたからです。
18:主はまた、この地に住んでいたアモリびとなど、すべての民を、われわれの前から追い払われました。それゆえ、われわれも主に仕えます。主はわれわれの神だからです」。ヨシュア記 24章 14節から18節
「16:その時、民は答えて言った、「主を捨てて、他の神々に仕えるなど、われわれは決していたしません。17:われわれの神、主がみずからわれわれと、われわれの先祖とを、エジプトの地、奴隷の家から導き上り、またわれわれの目の前で、あの大いなるしるしを行い、われわれの行くすべての道で守り、われわれが通ったすべての国民の中でわれわれを守られたからです。」
ヨシュア記24章16節、17節の御言葉であります。ここでは、モーセの死後、イスラエルの民を率いたヨシュアが、約束の地、カナンにたどり着いて、ほぼ制圧を終えて、各部族に所有地の分配を終えています。そして、ヨシュアが自らの生涯の終わりを間近に感じ、全部族を集め、またその長老やかしら、裁き人を近くに召し寄せて、全ての民に、最後の奨励を行った場面であります。
まず、このカナンの地は、創世記の17章8節で、イスラエルの祖、アブラハムに「わたしはあなたと後の子孫とにあなたの宿っているこの地、すなわちカナンの全地を永久の所有としてあたえる。そしてわたしは彼らの神となる」と約束された土地でした。
主なる神は、このようにアブラハムと後の子孫との間に契約を立てられました。その後、アブラハムの子孫、イサク、ヤコブ、ヨセフと続き、ヨセフが売られてエジプトに渡ります。ヨセフは奴隷としてエジプトに入りますが、主が共におられたので、王パロの夢から飢饉を予測して対策を授かり、エジプト全国の司に命じられる、大出世を果たします。この飢饉でヤコブ達はカナンの地に住み続けることができなくなり、ヨセフによってエジプトに迎え入れられました。やがてヨセフが死に、王も変わって、増え続けるイスラエル人を恐れた新しい王によって、厳しい苦役を与えられ、奴隷となって苦しみます。その嘆きに主が応えられて、モーセを立て、エジプトからの脱出が適ったのが、出エジプト記ということになります。エジプトでの400年の奴隷状態から自由にされたこの出来事は、神の民イスラエルにとって、旧約の歴史上最も大きな出来事の一つになります。
主が立てられた、モーセによって、無事エジプトを脱出できたものの、既にカナンの地には、他の多くの民族が入り込んでいました。脱出した時点では、土地を持たない放浪の民になったイスラエルを主は試みられることになります。この40年の荒野での移動の中で、モーセ自身も、主なる神への全き信頼、信仰を示すことができなかったため、主はモーセとアロンに「あなたがたはわたしを信じないで、イスラエルの人々の前にわたしの聖なることを現さなかったから、この会衆をわたしが彼らに与えた地に導きいれることができない。」と民数記20章で伝えられました。
そして、モーセはカナンの地を目の前にしたモアブで亡くなります。死ぬ前に、モーセは従者であったヌンの子、ヨシュアに後を託して按手しました。モーセの死後、主はヨシュアに対して直接、カナンの地に入るよう命じられます。
ヨシュア記の最初に示されたその、主の御言葉を見てみましょう。ヨシュア記1章の1節から5節。
「1 :主のしもべモーセが死んだ後、主はモーセの従者、ヌンの子ヨシュアに言われた、2: 「わたしのしもべモーセは死んだ。それゆえ、今あなたと、このすべての民とは、共に立って、このヨルダンを渡り、わたしがイスラエルの人々に与える地に行きなさい。3 :あなたがたが、足の裏で踏む所はみな、わたしがモーセに約束したように、あなたがたに与えるであろう。4: あなたがたの領域は、荒野からレバノンに及び、また大川ユフラテからヘテびとの全地にわたり、日の入る方の大海に達するであろう。5: あなたが生きながらえる日の間、あなたに当ることのできる者は、ひとりもないであろう。わたしは、モーセと共にいたように、あなたと共におるであろう。わたしはあなたを見放すことも、見捨てることもしない。」
こうして、ヨシュアは主に召され、さらに主の言葉に励まされて、カナンの地に入っていきます。そして多くの戦いを経て、その地を与えられます。アブラハムが75歳の時に主が契約されて、700年強の時間を超えて、その約束が果たされました。イスラエルの民はここに、奴隷と放浪の時代を終えたわけであります。1章2節の「与えるであろう」は、完了形で「与えている」と訳した方が正確です。神様のご計画にあって「既に与えられている」ということを示しています。それでも、実際に、民がその足で踏む、自ら進み、また拓いていくことが求められています。このように、苦難の時代を終え、部族ごとに約束の地を与えられ、安息の時代を迎えようとしていました。その時に、ヨシュアが全ての民を集めて、あらためて奨励と問いかけをします。
24章の14節から15節をお読みいたします。
「14:それゆえ、いま、あなたがたは主を恐れ、まことと、まごころと、真実とをもって、主に仕え、あなたがたの先祖が、川の向こう、およびエジプトで仕えた他の神々を除き去って、主に仕えなさい。15:もしあなたがたが主に仕えることを、こころよしとしないのならば、あなたがたの先祖が、川の向こうで仕えた神々でも、または、いまあなたがたの住む地のアモリびとの神々でも、あなたがたの仕える者を、きょう、選びなさい。ただし、わたしとわたしの家とは共に主に仕えます」。
「それゆえ」といういのは、13節までに、主なる神が、いかにイスラエルの民を選び守り導いてこられたか、ということを、アブラハムの更に前の祖先、テラにまでさかのぼって民族の歴史を語って聞かせます。強大な民族との数々の戦いを、主が共にいて下さったことで勝利して、今、このように豊かな所有地を、約束通り賜った。それ故、主を恐れなさい、ということです。この戦いは、主に背き、偶像礼拝と不品行、暴虐に満ちた背きの為への主の裁きでありました。やがて、この裁きは後々イスラエル自身にももたらされることになります。
この時点で、イスラエルの民はいったん安息を与えられました。順境にあるわけです。しかし、その地にはまだ多くの、神を知らない人々が残っていました。順調で、豊かになって、偶像礼拝の民が、まだ共存しているその中にあって、主の民がいかに生きていくべきかを、改めてヨシュアは問いかけた訳であります。まず主を恐れ、まことと真実をもって主に仕えなさい。誠実に、変わることなく心から主に仕える、ということです。真の神を知り、「主を恐れることは知識のはじめである」と箴言1章で言われる通り、唯一の真の神が、私たちと契約を交わし、御名を明かして主となって下さって、その主がなさってきたことを、歴史において目の当たりにしてきたのだから、主を恐れるのは当然であります。主を恐れることの中から、敬虔さと、倫理。道徳ということが生まれてきます。
この主を恐れる、という点について、この国は非常に難しい環境にあると思います。自分にいいことをもたらしてくれるのが、いい神様というご利益優先、自己利益がないならどうでもいい、という意識。あちこちで手を合わせて、何となく霊的なもの、神聖さを感じつつ、結局、怖いのは人間だ、とよく言います。幽霊やたたりや、神さんとかいうけど、生きている人間が一番怖い。そのような言葉を祖父母や年配の人から聞かされた覚えがあります。テレビなんかでも普通に言っています。確かに、それもある意味現実ですけれども、ではなぜ生きている人間が怖いか、ということです。それは、真の神を知らないから。神様を恐れないから、だから人は怖い。元々罪人だから、ということであります。そこまでは誰も言いません。
そして、ヨシュアは、「まことと、まごころと、真実をもって主に仕えなさい」という勧めをします。心から、二心なく、真実にということは変わることなく、ただ唯一の神様に仕えるようにという勧めであります。「他の神々を除き去って」と言っています。真心と真実をもって主に仕える、という、生き方、生活は、日々、御言葉に聞いて祈る信仰生活であり、より外的、公的には、今こうして行われています礼拝において表されています。主に仕えることが適うのは、イエス・キリストの贖い御業、その恵みによるのであって、それが私たち注がれるのは、内的には信仰と悔い改めであり、外的手段としての御言葉と礼典と祈りによります。それが、公的に集約的に表されているのが、安息日礼拝ということであります。
ヨシュアは14節で「主に仕えなさい」と勧めましたが、一方的命令の形をとりませんでした。イスラエルの民全員に向かって、一人一人の選択を求めています。15節。
「もしあなたがたが主に仕えることを、こころよしとしないのならば、あなたがたの先祖が、川の向こうで仕えた神々でも、または、いまあなたがたの住む地のアモリびとの神々でも、あなたがたの仕える者を、きょう、選びなさい。」
自分で選びなさい、という、選択と決断を求めています。自由な一人一人の決断です。そのうえで、「わたしとわたしの家とは共に主に仕えます」という、自らの決断と証をしているわけであります。そこでは、個人一人一人の自由な決断と共に、わたしの家というように、社会的な存在としての人の在り方も示しています。主が歴史を通して働かれてきた、主に従う民の命を繋いできてくださった、その御業を覚え、そこに召されて用いられる者として、後に繋いでいく、伝えていく使命が与えられている、ということをヨシュアはしっかり自覚していたということであります。ここでは、端的に家族を示していますが、家庭における伝道の大切さと同時に、その難しさという者も考えさせられます。イエス様でさえ、その故郷では軽んじられました。人の目は近しい人を見る時、曇らされがちであります。本当に、祈って、主により頼んで、御霊が働いて下さるように。時間がかかり、自分が生きているうちにかなうかどうかも分かりません。御言葉と信仰を証す機会、が与えられるよう、忍耐強く祈ることが必要です。また、兄弟姉妹の家族や、隣人のために祈る、ということも、私たちに主が託された、大切な使命でもあります。
ヨシュアが、迫った決断。それは、一人一人が自由に選ぶということでありました。何を選ぶか、というと、主か、他の神々かと言われています。ここの聖書の箇所での「主」は全て、原文では神様の御名が記されています。YHWHです。新改訳だと太字の「主」です。私たちを選びわかち、恵みの契約の内に入れて下さっている、唯一の生ける真の神である主。この主か、それとも人の手による偶像のどちらを選ぶのか、ということを迫っています。これは命か、死か。天国か、滅びか。世界の造り主、真の王、愛なる神に仕えるのか、この世の欲望に支配されるのか、という二者択一です。どちらも、という両方はありえず、どちらでもない、というもあり得ません。二つの内の一つしかないのであります。
現実には、選ぶのは自分ではなくて、主が選んでおられるのだということも忘れてはならないことです。つまり、主が私たちを選んで下さっており、すでに私たちの心の中に、聖霊が答を用意して下さっているのであります。この聖霊の証し、導きを無視していけない、聖霊を悲しませてはいけない。ということを教えられてきました。主なる神は、人を命へ命へと導いてこられました。堕落して罪の内にあってもその憐れみは変わりません。今までも、これからもそうなのです。一人子を差し出して、十字架に架け、自らの血を流してまで、永遠の命へと向かうように導かれた私たちを、主は決してお放しになりません。私たちは、この主に愛に対して、ただ主に仕えます、とお応えするだけであります。これが、いついかなる時にも、告白し、証せる、信仰と力が与えられますよう、祈りたいと思います。
さて、このヨシュアの問いかけに対して、イスラエルの民が答えます。16節から18節。
「16:その時、民は答えて言った、「主を捨てて、他の神々に仕えるなど、われわれは決していたしません。17:われわれの神、主がみずからわれわれと、われわれの先祖とを、エジプトの地、奴隷の家から導き上り、またわれわれの目の前で、あの大いなるしるしを行い、われわれの行くすべての道で守り、われわれが通ったすべての国民の中でわれわれを守られたからです。18:主はまた、この地に住んでいたアモリびとなど、すべての民を、われわれの前から追い払われました。それゆえ、われわれも主に仕えます。主はわれわれの神だからです」。
ここでのイスラエルの民の答えは、「主に仕えます」という、模範的な答えでした。しかし、ヨシュアはこの民の言葉が本当に、心から真実に応えた言葉ではないだろう、と思っていたことが分かります。すぐ後の19節では「あなたがたは主に仕えることができないだろう」とまで言っています。それに対しても、民は「いいえ、われわれは主に仕えます」と答えます。さらに、もう一度同じ様なやりとりが交わされて、イスラエルの民は3回「われわれの神、主に仕えます」と答え、ヨシュアから、あなた達自身が証人だよ、と言われて、「われわれは証人です」と答えました。そこまで民に応えさせて、ヨシュアはさらに、それを契約にまとめ、律法の書に記し、主の聖所にある樫の木に大きな石を立てて、その証として、全ての民に示しました。その目的をヨシュアは「あなたがたが自分の神を捨てることがないように」といっています。めちゃくちゃ念を入れていますね。しつこい位にだめ押ししています。逆に、民がそれほど信用されていないようにも取れます。
これにはちゃんと理由があります。先にお読みした、ヨシュアが主に召されて、最初に主から告げられた言葉になかにあります。ヨシュア記1章5節 「5:あなたが生きながらえる日の間、あなたに当たることのできる者は、ひとりもないであろう。わたしは、モーセと共にいたように、あなたと共におるであろう。わたしは、あなたを見放すことも、見捨てることもしない。」
ここでの主の約束と命令は、「あなた」、つまりヨシュアに対してであり、あなたが生きている間、と言われています。この後に続く「強く、また雄々しくあれ」という励ましも、ヨシュアに対して語られています。これを覚えていたヨシュアは、自らの役目をほぼ果たし終え、年老いてきたときに、残された民が心配で仕方なかったのでしょう。この民が頑なで、誘惑に弱いこともよく言っていました。モーセを通して教えられた律法から、右にも左にも曲がってはならない。昼も夜もそれを思い、と告げられた主の言葉を忘れていなかったのであります。そこで念には念をいれ、証しをさせ、その印を立てたのであります。
しかし、ここまでヨシュアが心を砕いたにもかかわらず、イスラエルの民はこの後、ヨシュアが死んで、ヨシュアの生前を知っていた長老たちも亡くなると、主から離れて行きます。士師記2章11節12節に次のように記されています。
「11:イスラエルの人々は主の前に悪を行い、もろもろのバアルに仕え、12:かつてエジプトの地から彼らを導き出された先祖たちの神、主を捨てて、ほかの神々すなわち周囲にある国民の神々に従い、それにひざまずいて、主の怒りをひき起した。」
人は、よい環境を与えられ、働いて豊かになって、恵まれると、その恵みを誰が与えて下さっているのか忘れる。主の怒りによって、苦難や迫害にあって、嘆いて主を呼ばわって、主に救われる。しかし、喉元を過ぎれば、また主を離れ偶像に仕える、その繰り返しであります。そのような、罪深い私たちを、主がどれほどまでに忍耐され、守り導いていて下さるかを覚え、本当に、まことと、真心と真実をもって主に仕える、その力を主が備えて下さるよう祈ります。