「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように」今朝も、み言葉に聴いて参りましょう。
これまで、マタイによる福音書の冒頭にあるイエスキリストの系図から、そこに出てくる5人の女性に着目し、み言葉に聴いて参りました。タマル、ラハブ、ルツ、バテシバと取り上げて、さて最後にイエス・キリストの母マリヤとなるのですが、どうしようかと迷っておりました。やはりこれは、クリスマスかなあという気がしておりました。しかしやはり今日このみ言葉を取り上げることにしたのは、今日の修養会で土井先生が話してくださる、信条というテーマと関連が深いからであります。
今日のタイトル「主は聖霊によりて宿り」はご存知のように、使徒信条の一節です。「処女マリヤより生まれ」と続きます。使徒信条は、私たちキリスト者の信仰、私たちが何を信じているのかということを、まとめたエッセンスのようなものですが、その中でキリスト・イエスのご降誕についての部分です。そしてこの聖句は、WSCの問22「キリストは、どのようにして神の子でありながら、人となられたか」の答「神の子キリストは、聖霊の力によって処女マリアの胎に宿り、真実の身体と、理性的霊魂をとって人となり、しかも、罪なくして彼女から生れられた」の引証聖句であります。(1:27、31、42)この聖句に現れた神様のみ業を見て参りましょう。
1:26「六か月目に、御使ガブリエルが、神からつかわされて、ナザレというガリラヤの町の一処女のもとにきた」六か月目、これは先に起こった出来事、祭司ザカリヤの妻エリサベツの妻が身ごもった出来事から六か月目ということです。ルカによる福音書1:5-25に書かれていますが、最早子どもは臨めないと思っていた老夫婦に、主が子どもを与えられた出来事であります。イエス・キリストの先駆者、バプテスマのヨハネの、誕生の物語です。エリサベツはマリヤの親族でした。不妊の女と言われ、最早高齢に達していたエリサベツが、神様の不思議な力で身ごもり六か月になった、その時マリヤのもとに御使ガブリエルがきたのです。マリヤはヨセフのいいなづけの処女でありました。ヨセフはダビデの血筋ではありますが、今は取り立てて地位や財力があるわけではない、大工として生きる人であり、いいなづけのマリヤもごく平凡な庶民の娘です。そこへガブリエルが遣わされました。
1:28-29「恵まれた女よ、おめでとう、主があなたと共におられます」という唐突な言葉に、マリヤは戸惑います。なぜ自分のところに御使が来たのか、恵みとは何か、何一つわからなかったことでしょう。
1:30-33御使は「恐れるな、マリヤよ」と言いました。これは、先にザカリヤに御使が現れた時にも言われた言葉です。「恐れるな、ザカリヤよ(1:13)」祭司であるザカリヤが香を炊いているところに御使が現れたとき、ザカリヤはおじ惑い、恐怖の念に襲われました。(1:12)突然現れた御使に「おめでとう」と挨拶されたマリヤの戸惑いと畏れは、いかばかりだったでしょう。さらに御使は驚くべきことを告げます。あなたはみごもって男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。(イエスという名はヤハウェは救いであるという意味のヘブル語名ヨシュアのギリシア語読み)彼は大いなる者となり、いと高き者の子と唱えられる、彼にはダビデの王座が与えられ、とこしえにヤコブの家を支配する。1:34御使の言葉に、マリヤが反応できたのは、彼女の素朴な疑問でありました。結婚していない自分に、どうして子どもが生まれるのでしょう。
先にザカリヤが自分に子どもができることを伝えられた記事を見てみましょう。1:13-16「恐れるな、ザカリヤよ」と言った御使は、彼に与えられる子どもについて語りました。後のバプテスマのヨハネがどのような人であるかが教えられたのです。それに対するザカリヤの言葉は、1:17というものでした。そして、ザカリヤは1:19-20というように、不信仰を叱責され、その日が来るまで、口がきけなくされてしまいます。
しかし、マリヤの疑問に御使は1:35-37穏やかに教えます。「神には、なんでもできないことはありません」老齢の夫婦に子どもが与えられるという神様のみ業は、アブラハムにイサクが与えられたように、先例のあることです。それなのに祭司であるザカリヤがみ告を信じなかったとき、不信仰を責められました。しかしマリヤの疑問は、素朴な処女の実感であり、また処女が身ごもって子を産むということは、たった一度きりの神様のみ業です。
御使は、聖霊がマリヤに臨み、いと高き者の力がマリヤをおおう、生まれでる子は聖なる者であり、神の子と唱えられると教えました。そして、神様のもう一つの奇跡、マリヤの親族で、不妊の女と言われたエリサベツが神様によって子を授かり、早六か月になっていると教えます。神様にできないことはない、その証拠を見よということであります。
1:38マリヤは自分の身に起こった出来事を受け入れ、信仰を告白します。「お言葉どおりこの身に成りますように」未婚の女性が子を宿すというのは、当時の社会では大変なことでした。不義を疑われれば、殺されてしまうほどの出来事です。しかしマリヤは神様にはできないことはありませんという御使の言葉を信じて、すべてを受け入れたのでした。
そしてもう一人、神様を信じ、み業を受け入れた人がいます。マリヤの夫ヨセフであります。マタイによる福音書の冒頭の系図ですが、(1:1-17 NTp.1)「ユダはタマルによるパレスとザラの父」「サルモンはラハブによるボアズの父」「ボアズはルツによるオベでの父」「ダビデはウリヤの妻によるソロモンの父であり」というように、四人の女の記事が出てきます。そしてマリヤとヨセフについては、1:16「ヤコブはマリヤの夫ヨセフの父であった。このマリヤからキリストといわれるイエスがお生まれになった」とあります。ヨセフはマリヤの夫と書かれたのみです。またいイエス様の父については、記載がありません。
マタイによる福音書1:18-24にもイエス様の誕生の経緯が書かれていますが、ここではヨセフの信仰の決断が記されています。
マリヤが身ごもったことを知ったヨセフは、そのことが公にならないよう、秘かに離縁しようとしました。マリヤの不義が公になると、彼女は殺されかねないのです。ヨセフがそのことについて考えていたとき、主の使が夢に現れて、マリアの胎内に宿っているのは聖霊によること、子どもにイエス(主は救い)と名付けなさい、その子どもは、自分の民をもろもろの罪から救う者になると、告げました。さらに、イザヤ書のみ言葉を引いて、このことが預言の成就であると教えました。
ヨセフは主の使の言葉に従って、マリヤを妻にします。そして子どもが生まれるまで彼女を知ることなく、生まれた子どもをイエスと名付けました。
「主は聖霊によりて宿り、処女マリヤより生まれ」という使徒信条の一節には、マリヤとヨセフという2人の若者に与えられた信仰、信仰による決断の出来事がありました。そして主の周到な配慮がありました。イエス・キリストの先駆者であるバプテスマのヨハネが、主の不思議なみ業で、ザカリヤとおエリサベツの老夫婦に与えられたこと、これは主のみ力の証しとして、マリヤを勇気づけるものでありました。ルカ1:39-45エリサベツを訪ねたマリヤにエリサベツが告げた言葉は、どれほど心強いものであったでしょうか。「主のお語りになったことが必ず成就すると信じた女は、なんとさいわいなことでしょう」というエリサベツの言葉に、マリヤは信仰を強くし、讃美に導かれました。
処女降誕という神様のみ業で地上に来られたイエス様は、全き神であり全き人であります。これは、私たち罪人の理性では理解できません。
聖書には私たちが信じるべきことと、為すべきことが書かれています。そしてその中には、人間の理性では理解できない、聖霊の光に照らされないかぎり理解することも信じることもできないことがあります。その聖書を誤りのない神様の言葉として、どのように読んでいくか。今日の修養会では、その要となる信条について学びます。