耳触りのよい話を求める

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耳触りのよい話を求める

1)神のみまえと、生きている者と死んだ者とをさばくべきキリスト・イエスのみまえで、キリストの出現とその御国とを思い、おごそかに命じる。2)御言を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても、それを励み、あくまでも寛容な心でよく教えて、責め、戒め、勧めなさい。3)人々が健全な教に耐えられなくなり、耳ざわりのよい話をしてもらおうとして、自分勝手な好みにまかせて教師たちを寄せ集め、4)そして、真理からは耳をそむけて、作り話の方にそれていく時が来るであろう。5)しかし、あなたは、何事にも慎み、苦難を忍び、伝道者のわざをなし、自分の務を全うしなさい。6)わたしは、すでに自身を犠牲としてささげている。わたしが世を去るべき時はきた。7)わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。8)今や、義の冠がわたしを待っているばかりである。かの日には、公平な審判者である主が、それを授けて下さるであろう。わたしばかりではなく、主の出現を心から待ち望んでいたすべての人にも授けて下さるであろう。テモテへの第二の手紙 4章1節から8節

<1神のみまえと、生きている者と死んだ者とをさばくべきキリスト・イエスのみまえで、キリストの出現とその御国とを思い、おごそかに命じる。2御言を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても、それを励み、あくまでも寛容な心でよく教えて、責め、戒め、勧めなさい。3人々が健全な教に耐えられなくなり、耳ざわりのよい話をしてもらおうとして、自分勝手な好みにまかせて教師たちを寄せ集め、4そして、真理からは耳をそむけて、作り話の方にそれていく時が来るであろう。5しかし、あなたは、何事にも慎み、苦難を忍び、伝道者のわざをなし、自分の務を全うしなさい。>


 


テモテへの第二の手紙 4章1節から5節の御言葉であります。新年礼拝では、こ御言の、主に1節と2節から、キリストの教会に与えられた、教会だけが果たすことができる、大切な使命について聞いてまいりました。


それは「宣べ伝える」という使命。それも「御言」を、すなわち聖書を宣べ伝える。それは聖書に明かされた、真の神であり人であられた御子、イエス・キリストよる救いを宣べ伝える、ということでありました。そのために、選ばれたものに、あまりにも大きな恵みと、愛とをお示しになり、与えて召して下さいました。伝道者パウロは、彼の遺言ともいえるこの手紙で、この「御言を宣べ伝えなさい」という勧めを、弟子であった、そして伝道を引き継いでいくであろう、テモテに対して、主なる神と、神なる救い主イエス・キリストの御前で、厳かに、強く明確に命じたわけであります。生きている人と死んだ人とを、最後に裁かれるのか主なる神だということは、信じられていましたから、イエス様はその神様なのだということを示し、その御前で命じたわけであります。


そして、その働きは「時が良くても悪くても」と言うように、この世の状況、人間の都合、進捗効果の良し悪しが問題なのではなく、御言を宣べ伝えるというそのこと自体が、召された目的であることが明かされました。ですから、私たちの、このわずかな、欠けの多い小さな働きもまた、主の御業であるということ。私たちの、弱さも、力の有無も、上手く行くことも行かないことも、主はご存じで、そのうえで命じておられるという、励ましでもありました。


今朝は、ではどのように宣べ伝えるかということと、そしてパウロが本当に緊急性と強い危機感をもってこれを命じていた、その理由について、御言から導かれたいと、願っています。


 


まず、第2節。


<御言を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても、それを励み、あくまでも寛容な心でよく教えて、責め、戒め、勧めなさい。>


「それを励み」ということは、元は近くにいるという言葉でしっかり準備して、備えていなさいと言う意味の言葉でもあります。ですから、どのような時であっても、伝道に非常に悪い時が訪れることがあっても、それに備えしっかり対応し、その働きに励みなさいと言う意味が読み取れます。私たちは、本当に罪深く自分勝手な存在であります。主のお守りや導きの中にあって、気づいたときは感謝し、喜び、讃美しますけれども、すぐ慣れてしまって、御心に背くほうへと心が向いてしまいます。旧約聖書を読んでいただくと、ずっとその繰り返しが書かれています。


困難や労苦にあって、主に呼ばわって、願って、助けられまた救われて、しばらくするとまたすぐに自分の欲望中心になり、不平不満を言い、神に背く罪を犯します。主がこれを懲らしめられ、苦境になると助けを求め、主に立ち返り、懺悔して救われる。そしてまた、と言うように、延々と同じ過ちを繰り返していることが、よくわかります。これは罪の内にある人の、自分では変わりようがない姿であって、そのために、救いの切り札として、最終の真の救いをもたらして下さるイエス・キリストがこの世に仕わされたわけであります。


このキリストを救い主と信じる信仰を与えられて、本当に、この罪の中から救いあげられて、天国へと入れていただくことになったのですが、それでもまだこの世にあるうちは、罪を重ねるのが私たちであります。ただ、主の恩寵により、イエス様の流された血によって、それでも義とせられやがて御国で、全く聖くされて主との交わりに置かれる、そのような恵みを賜っているわけであります。しかし、主を知らない、この世は、やはり罪の内にあって本当に最終の裁き、滅びへと向かっていることもまた、御言の教えるところの真実であります。


 


今日、1月17日は、26年前、この地を揺るがした大きな災害がございました。すでに、歴史上の出来事になりました関東大震災以来ともいわれる、大都市を直撃したこの大地震は、本当に大きな被害をもたらしました。近代化した、この日本のしかも都市と呼ばれる地域で、6千人以上の方がなくなられるという惨事でありました。多くの兄弟姉妹もまた、悲しみと、困窮と、苦しみの中におられました。


私は、まだ大阪に住んでおりましたが、数日後、妻と共に甲子園口から徒歩で大﨑先生のご自宅を訪問いたしました。水とか食べ物とかをカートに乗せて引いて歩いたのですが、その道中の光景は今でも忘れられません。国道沿いの建物は軒並みへしゃげていますし、何よりまさか、高速道路が倒れているのには、目を疑いました。数日後に友人を訪ねて三宮に入った時は、ビルが斜めになって至り、向きが変わっていたりと、都会がこんな風になってしまうのかと、人の無力を思い知らされた気がいたしました。


大﨑先生はと言えば、お尋ねしたらスーツ姿で迎えて下さって、スーツにマフラーを巻いて、電気の無い炬燵に足を入れておられました。人も来てくれるし、何かあってもこのまますぐ行けるし、という感じでした。丁度、お住まいだった建物の前で、水道管が割れたようで、道路から水が吹き上がっていましたから、先生は、水道は出んけど水はここからなんぼでもただや、と笑っておられました。一緒にお祈りをして、おいとまする時も笑顔で送っていただいて、逆に励まされて帰ったような気がいたしました。戦争体験された方は、こんな大変な時に強いなぁ、と思っていたのですが、やはり、こんな時こそと、スーツ姿で備えておられたことが、大変印象に残っています。


 この震災は、大きな被害と悲しみと、教訓をもたらしましたが、その15年後、さらに大きな震災被害を私たちは経験いたしました。阪神淡路の震災後から教訓を得て、建築上の様々な規制や基準も変わりましたが、その教訓は十分に生かされませんでした。東北を襲った地震は、津波をもたらして、さらに大きな被害と、悲しみを私たちにもたらしました。私たちの、生活を快適に安全に支える電気の供給の脆さ。原子力の恐ろしさを教えられました。とれたはずの対策をとれなかった人間の、欲望に対する弱さもまた明らかにされました。


 そこから、10年。私たちはまた、新型コロナウィルスと言う、見えない脅威に、疫病に見舞われ、確実な治療も確立されていない状況の中、日々を過ごしています。世界では既に200万人の方が亡くなっておられます。子供の頃もそうですが、学生時代でも働きだした時でも、まさか自分人生の先に、こんなに何度も社会や多くの人の生命を揺るがすような出来事、災害が訪れるとは思ってもいませんでした。


 それを思いながら、また、大昔のこと。今なら治療できる様々な伝染病や、戦争でさらに多くの方がなくなった時代もありました。しかし、そのような歴史の中を通して、こうして私たちのもとに福音が届けられてきたのであります。それは本当に、時の良し悪しを超え、信仰の先達を導いてこられた聖霊の御業であります。私たちも、困難のなかでこそ、本当に救いを求める魂のために。イエス様が待たれている、その民のために福音の伝道が守られますよう、祈りたいと思います。


実は、教会の看板の横にトラクトケースを取り付けたのですが、3か月余りで30枚以上減っています。今の状況下で、やはり、魂のよりどころを求めておられる方が、少なからずいらっしゃるように思います。これが直ちに、教会へ、信仰へと結びつかなくても、少なくともそれだけの方に御言が届けられたのかと思いますと、それは喜びであり、この場所教会が置かれた意味も感じるところです。


 


 御言にもどりますと、2節の後半では、御言の宣べ伝える時の、心構えが教えられます。それは、


<・・あくまでも寛容な心でよく教えて、責め、戒め、勧めなさい。>


ということです。


 「責める」というのは、叱責する、厳しく訓戒するという意味です。怒鳴りつけるという意味もあります。「戒める」とは、誤りを認めさせる、咎めるという意味で、ほぼ同義語ですが、前者、叱責から相手に素晴らしい効果が生まれることを期待しているのに対し、後者は、ある意味一方的な訓戒と言うことが言えます。それは、後の「勧める」と言う言葉につながっています。御言、すなわち神の言葉によって、罪を認め、悔い改め、イエス・キリストを受け入れるように勧めていくということであります。これは、3章16節の、


<聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である>


という、御言と深い関係にあります。御言の持つ力を、人にもたらす。届けるようにと言う、教えであります。


 そして、大切なことはそれら、責め、戒め、勧めることが、全て「あくまでも寛容な心で、よく教え」ていく中で行われるべきだということであります。「あくまで寛容で」という表現は、少々堅苦しいというか、冷たい感じの翻訳になっています。この「あくまで」と言う単語の意味は、もっと激しくて、「あらん限りの力で、全力で、全てを尽くして」というような、と強くて、熱い言葉になります。新改訳2017では「忍耐の限りを尽くし」と訳している言葉です。パウロは、テモテに愛情をもって、感情を込めた熱い言葉で励ましているのです。この忍耐、寛容の限りを尽くすその中にあって、責め、戒め、勧めることが実を結ぶということであります。


 これは、まさにイエス様が、極限まで忍耐強くあられたこと。何より主なる神様が、完全な義なる神様であらせられながら、いかに寛容で、怒ること遅く、忍耐を重ね、自らの一人子を差し出すまでの愛を示されたかということであります。その神を宣べ伝える者も、つねにこの愛なる神の寛容を思わなければなりません。何となれば、それ故に、今、私たちは永遠の滅びを逃れ、永遠の命へと入れていただいているからであります。


 


ここまで、1節2節の教えは、現代の私たちが受ける言葉の印象以上に、激しく、強く、熱く語られていること「御言を宣べ伝えなさい」とパウロが命じていることを教えられました。その激しさの理由が3節以降に明かされます。3節4節をお読みいたします


<人々が健全な教に耐えられなくなり、耳ざわりのよい話をしてもらおうとして、自分勝手な好みにまかせて教師たちを寄せ集め、そして、真理からは耳をそむけて、作り話の方にそれていく時が来るであろう。>


 この3節の「人々が」の前には、原文では「というのは」という単語が入っています。宣べ伝えることを「御言」と明確に限定し、寛容を尽くした教えの中で、責め、戒め、勧めなければならないのは、3節4節に記されることがその理由だということです。それは「人々が健全な教えに耐えられない」つまり、聞きたくない、耳を貸したくないと感じるからです。そして「耳ざわりの良い話」を求めるのであります。「耳ざわりのよい話」は直訳すると「耳に心地よい言葉」ということですが、その意味をわかりやすく訳すと「自分に都合のいい話」ということになります。そしてそのために、自分勝手な好みに任せた教師を呼び集め真理からそれていく。神の言葉を離れて人間の言葉、自分に都合の良い話に寄っていく。そのような時、状況、時代が来る、と言っています。


 この「時が来るであろう」は、いつものように推定ではなく「そんな時が必ず来る」と」断言している言葉です。実際、パウロはそのような教会の混乱をいくつも目にし、対応に追われていました。キリストの教会であっても、この世あっては、必ずこのような人間中心の、この世の罪の内で脅かされるということを教えています。そして、これに対抗し真理を示すのは「御言」しかない、ということを伝えているのであります。


 


 責めることも戒めることも勧めることも、この世にあっては困難なことであります。私たちの日常生活においても、この世の交わりの中でその難しさは、誰しもが経験されていると思います。救いに至るには、罪を知らされ、認めて悔い改めなければなりません。しかし、この世の人は罪の内にあって、真の神を知らず、自らの罪と言うことを嫌います。社会的に成功して、財を成して、あるいは認められて、何故罪があるのか。逆に、社会的には弱いけれども、ボランティアもして、正直に人に親切にして、何を悔い改めるのですか、ということになります。ですから、ひとは自分に都合のいい、自分が励まされる、慰められる、認められる言葉を求めて、それが神様の教えられる真理かどうかよりも、自分の欲求を満たすかどうかに心が向いてしまうのであります。


本当は、その働きが神様の栄光を表しているかどうか、と言うことが問題なのです。成功も失敗も、健康も家族も、あるいは小さな良心も、全て主なる神様のお許しの内に賜ったものであることを知らされなければ、それが適いません。栄光も誇りも全て、主なる神様のものであることを、この世の人は知らない。真の神を知らない、知ろうとしないその所に、心の罪があるのであります。当時のユダヤ人が、罪の内にあって罪を認めない姿は、いつの時代も形を変えて同じように存在します。キリスト教会でも、人間の理性や、行き過ぎた個人の自由や欲求を満たすために、聖書の教えを、まさしく都合よく切り取って、分解して、罪を認め無くても良い、耳触りのよいお話しをしてしまっている教会が多くあります。


 その中で、ここでパウロが教えているように、私たちの都合でなく、御言。神様の言葉である聖書の教えそのものを、大胆にそのままに宣べ伝える、そのような働きができるように、教会とまた一人一人のキリストの民、しもべが守られ、導かれて用いられますよう、願うのであります。    (以上)

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