月報 2021年8月【救いは神の御業】
『すると、どうなるのか。わたしたちは何かまさったところがあるのか。絶対にない。ユダヤ 人もギリシャ人も、ことごとく罪の下(もと)にあることを、わたしたちはすでに指摘した。次のよう に書いてある、「義人はいない、ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はい
ない。」』ローマ人への手紙 3章 9節から11節
先月、ヤコブの手紙で「御言を行う人になりなさい」と教えられましたが、それは、神様の御心に適う事。神様が喜ばれること、すなわち「善」を行うことを意味しました。そして、同時に人はその罪ゆえにこの善を完全に行うことができないとも明らかにされました。これは、教理的には「全的堕落」または、「全的無能力」と言われる聖書の教えと繋がっています。
今回は「全的堕落」ということについて、もう少し詳しく聞いていきたいと思います。 「全的」堕落と言うと、人がもう、どうしようもなく究極に悪くなっている、完全に堕落しきっている、と感じられ易いのですが、そうではありません。もしそうなら、人は既にサタンであることになってしまいます。あるいは滅んでしまっているかもしれません。全的という意味は、人が「全ての部分で」悪くなっているという範囲を示す言葉です。これ以上ないほど悪い、ということではなく、あらゆる事柄において悪くて、全き善をなすことができない、ということを示しています。
却って、再生(※後述)されていない人々においても、神様の一般恩寵により、犯罪が抑制され、人間的には、ある程度の善を行うことができるようにされています。ただし、全てにおいて、常に、完全には行えない。つまり、人は自らの努力や研究、研鑽で永遠の命に至る救いを得ることはできないということです。
それでは、聖書が教える善。「善き業」とはどのような事でしょうか。ハイデルベルク信仰問答(問91)では、次のように説明しています。
「善き業とは、ただ、真実の信仰に基づいて、神の律法に従って、神の栄光のためになされる業のことです。決して、私たちの考えや決まりに基づいているものではありません」
同問答によると「真に善き業」には三つの要素が存在します。それは「真実の信仰」「神の律法にかなうこと」「神の栄光のため(という動機)」です。これが主なる神様が求めておられる善であります。人は一時的、一面的、相対的な善は行うことはできます。その範囲においては、召されていない多くの人が、キリスト者より熱心に、大きな働きをすることが、少なからずある事実も認めなければなりません。
しかし、主に召され、再生すること無しには、上記の三つの要素を満たすことはかないません。むしろ、標記の御言葉のように、神を求めず、当然栄光を神に帰することもできないのです。御言葉は、人が神様の御心にかなうことができないばかりか、それを思うことや、望むことさえできないことを明かしています。
このことは、私たちが如何に幸いにも、主のご計画のうちに、一方的な恵みと憐みによって、イエス・キリストへの信仰を与えて頂いているか。すなわちキリストにあって救われていることが、始めから終わりまで全て、完全に主の御業であるかということを教えてくれます。主の御業だからこそ、救いが確実で、安心なのであります。
救われた私たちもまた、この世にあっては罪の下にあり、全き善を果たすことはかないませんが、それを成して下さった救い主イエス様を知らされています。そのお姿を見上げつつ、御足跡に従い歩もうとする、不十分な歩みを、父なる神は御子にあって受け入れて下さり、御霊によって守り導いて、ご自身の喜びとして下さるのであります。
(※再生:神の召命に応えられるよう、聖霊によって新たに作りかえられること。再生がキリストへの信仰と悔い改めという回心を生み、キリストに繋がれて義とみなされ、子とされ、聖化へと繋がり、やがて召されるまで堅く保たれ、御国において完全にされます。)