試練を喜んで

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試練を喜んで

 1:神と主イエス・キリストとの僕ヤコブから、離散している十二部族の人々へ、あいさつをおくる。
 2:わたしの兄弟たちよ。あなたがたが、いろいろな試錬に会った場合、それをむしろ非常に喜ばしいことと思いなさい。
3:あなたがたの知っているとおり、信仰がためされることによって、忍耐が生み出されるからである。
4:だから、なんら欠点のない、完全な、でき上がった人となるように、その忍耐力を十分に働かせるがよい。
 5:あなたがたのうち、知恵に不足している者があれば、その人は、とがめもせずに惜しみなくすべての人に与える神に、願い求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。
6:ただ、疑わないで、信仰をもって願い求めなさい。疑う人は、風の吹くままに揺れ動く海の波に似ている。
7:そういう人は、主から何かをいただけるもののように思うべきではない。
8:そんな人間は、二心の者であって、そのすべての行動に安定がない。ヤコブの手紙 1章 1節から8節

◆<2:わたしの兄弟たちよ。あなたがたが、いろいろな試錬に会った場合、それをむしろ非常に喜ばしいことと思いなさい。3:あなたがたの知っているとおり、信仰がためされることによって、忍耐が生み出されるからである。>
 ヤコブの手紙1章2節と3節の御言葉でございます。1節で簡潔に挨拶を述べたあと、ヤコブは直ちに、試練に会うときは、それを喜びと思うように、という、ちょっと聞いただけでは少々厳しい訓戒から手紙を始めています。私たちは、なるべく試練や困難に会いたくない。平和に、健やかに過ごしていきたい、と願うのが普通であります。それでも、思いがけず試練や、誘惑という様々な困難が訪れてまいります。そのような中で、いかに固く信仰生活を保っていけるのか、そのための知恵を、このヤコブの手紙から教えられたいと願っています。

 まず、このヤコブの手紙、この書簡自体について述べさせていただきます。第1節で、
【1:神と主イエス・キリストとの僕ヤコブから、離散している十二部族の人々へ、あいさつをおくる。】
この挨拶に書かれている通り、著者はヤコブであります。このヤコブは主イエス・キリストの兄弟、弟と言われていますが、主の兄弟ヤコブであるとされています。新約聖書では他にも、ゼベダイの子ヤコブ、アルパヨの子ヤコブといった弟子、タダイの父ヤコブなどが登場しますが、内容、執筆年代などから、ほぼイエス様の兄弟のヤコブに見解は統一されています。
この手紙が執筆された時期は、紀元45年から48年頃とされます。ということは、福音書も含めた、新約聖書の中で最も早くに記された御言葉だということになります。年代の確定については、紀元49年から50年頃行われた、エルサレム会議。後で触れますが、異邦人伝道に関して、ペテロやパウロが一堂に会して行われた重要な会議でしたが、その内容に一切触れられていないこと。また、信徒の群れを教会(エクレシア)ではなく、会堂(シナゴグ)とユダヤの伝統に基づいた呼称を用いていることなどから推定されています。
 そして、そのあて先は「離散している十二部族の人々へ」というように、ユダヤ的表現ですが、これは、ユダヤの地を離れて国外に散らされている、キリスト者に対してということです。パウロらが特定の教会や群れに当てて書いた手紙ではなく、あちこちに散らされた全ての信徒に向けて広く、書かれた手紙であります。そのため、ペテロの手紙やユダの手紙と同様に公同書簡と呼ばれています。

 この著者、主の兄弟ヤコブは、イエスさまが任命された、いわゆる12使徒ではありませんが当時すでに教会の中止的存在として認められておりました。パウロがガラテヤ人への手紙で次のように評価しています。ガラテヤ人への手紙2章9節。新約聖書294ページです。
【かつ、わたしに賜った恵みを知って、柱として重んじられている、ヤコブとケパとヨハネとは、わたしとバルナバとに、交わりの手を差し伸べた】
 初期のキリストの教会の柱として、皆から重んじられ、認められていたということが分かります。ただ、それは、主の兄弟というだけの権威志向ではなく、信仰と行いから生まれたものでした。使徒行伝の15章を少し引いてみましょう。新約聖書206頁です。
 まず、パウロやバルナバが伝道し、イエス・キリストを信じるようになった異邦人の信徒に対し、割礼を受けなければ救われないと言う人々がいる、これをどうするかという問題について、エルサレム教会で長老や使徒たちの間で議論が交わされ、紛糾しました。そこでまず、使徒のリーダー的存在だったペテロが、自分たちユダヤ人が全うできなかった律法のくびきを、福音を信じるようになった異邦人に負わせるべきではない。イエスに恵みによって救われたと信じているが、彼等も同様だ、と発言します。そしてパウロらが異邦人の間で、神様が行われた数々に奇跡や印という、宣教の御業の証言をしました。
 最後に13節で、主の兄弟であるヤコブが語ります。13節。
【ふたりが語り終えた後、ヤコブはそれに応じて述べた。「兄弟たちよ、わたしの意見を聞いていただきたい。】
そして。結論は19節
【「そこで、わたしの意見では、異邦人の中から神に帰依している人たちに、わずらいをかけてはいけない。ただ、偶像に供えた汚れたものと、不品行と、絞め殺したものと、血とを避けるようにと、彼らに書き送ることとしたい。」】
このヤコブの意見が、エルサレム会議の結論となりました。ヤコブが提案した通りの内容が、各地方の教会へと書き送られることになりました。そのことが22節から29節に記録されています。また、パウロが第3回伝道旅行を終えた時も、ルカと一緒にヤコブを訪問しています。そしてヤコブの下に長老たちが集まっていました。
 このように、ヤコブは信仰の理解においても、またその行ないや人望においても、教会を支える柱として重んじられていたことが分かります。気が早くて情熱的なペテロやヨハネらとはまた少し違った賜物と、役割を与えられていたと言うことでしょう。しかし、このヤコブでさえ、最初は主イエスを信じてはいませんでした。ヨハネによる福音書の7章5節では【こう言ったのは、兄弟たちもイエスを信じていなかったからである。】と、はっきり書かれています。しかし、イエス様が十字架の死より復活されたことのよって、救い主キリストと信じるようになったことが分かります。使徒行伝1章では、使徒たちと母マリアと主の兄弟たちが共に熱心に祈っていますし、12章でペテロが牢獄から御使いによって助け出された時に、【ヤコブや他の兄弟たちに伝えて下さい。】と言っています。

 このように、まだ生まれてまもなく、少しづつ広がりつつあった初期の教会において、その中心的な支えでもあった、主の兄弟ヤコブが、書き送った手紙。しかも、まだどの福音書も。完成されていないような時期に書かれた手紙でありました。そして、書かれた相手は、先に申し上げましたように、各地に散らされていた、信徒の群れに対してであります。当時の教会は、ユダヤ教徒からの激しい迫害の下にありました。ユダヤ人は、アッシリヤ、バビロニア、ペルシャ等の支配を経て、当時はローマ帝国の支配下にありました。征服されていた長い時代、多くの人人は散らされ、すでに独立国家としては存在していませんが、ローマの認可の下、王を定め、ある程度の自治は認められていました。中にはパウロのようにローマの市民権を持つ者もいましたが、基本的には被征服民ということになります。
 それでもエルサレム神殿においては大祭司による儀式、祭りが行われ、ユダヤ民族をまとめていたのは、主なる神への信仰と、主から与えられた律法を持つと言う、主の民としての誇りと希望でありました。ただ、その信仰は、まことの神。真上ではなくて、かなり斜めや横の方を向いてしまっていたことも事実であります。その中に、遂においでなった、真の救い主。預言のメシヤ、イエス・キリストを彼ら受け入れることができず、主を信じたもの達を、激しく迫害していました。ペンテコステ以降、多くの信徒が与えられましたが、ステパノが殉教した事件のように、暴力をもって追われ、散らされていったこともまた事実でありました。

 そうして、各地に散らされて、迫害の下身を潜めたり、隠れつつ耐え忍びながら、何とか信仰を保っていた人々の中から、幾つかの問題が生じていることが、エルサレムのヤコブの下に伝わっていたようです。そこで、ヤコブは彼らを励まし、信仰を与えられた者が、様々な試練の中でいかにして、その信仰を固く保ち、揺るがないものとしていけばよいか、その知恵を授けようとしているのが、この手紙であります。つまりこの手紙は、信仰の安定のために書かれた書だと言うことです。ここでは、いわゆる信仰義認。救い主イエス・キリストを信じることによってのみ、神のみ前に義と認められ、永遠の命と天国での栄光を賜っているという事実は、前提となっています。
 ですから、ここを読む場合は、この書かれた目的を知って、現実のこの世で、不信仰の社会の中で生きていく上で、与えられた信仰を安定さるか。どのような行動。行いによって、信仰が確かな、不動なものにされるかを教えている、生活の書だと言う点を押さえて、聞いていく必要があります。8節では、【そんな人間は二心の者であって、その全ての行動に安定がない。】 と言っています。安定せよ、という教えであります。
それでは、その安定を損なうものは何か。1章前半では試練と誘惑が挙げられています。一番目は試練ということになります。もう一度2節から4節をお読みいたします。
【2:わたしの兄弟たちよ。あなたがたが、いろいろな試錬に会った場合、それをむしろ非常に喜ばしいことと思いなさい。3:あなたがたの知っているとおり、信仰がためされることによって、忍耐が生み出されるからである。4:だから、なんら欠点のない、完全な、でき上がった人となるように、その忍耐力を十分に働かせるがよい。】
 まずここでは、「試練においても、これを喜ぶ」という信仰が教えられています。この世的には、喜ぶんだったら、それは試練じゃないですね、ということになります。喜ばしくないから試練だ、困難だ、というわけです。「いろいろな試練に会う」と言われるように、実際、試練は私たちの意に反して、思いもかけない形で訪れてまいります。様々な体の不調や病、怪我。生活や仕事の問題。家庭や、人間関係の不和。事故や、別れや、その他多くの心配事。自分には、これは無いだろう、と思っているようなことが、突然やってきたりします。
 これは、私たちが地上に生きている限り、尽きることがなく避けようもなく、悲しみ、嘆き、痛みをもたらします。さらに、主なる神様を信じ、イエス・キリストに従って生きる私たちにとっては、不信仰のこの世においては、より多くの試練があるわけであります。それこそ迫害、誤解、無理解、主から離れさそうとする、誘惑。ヤコブが勧めるように、これを喜ぶと言うことは、果たして叶うのかと思います。そこでヤコブは、まず耐えなさいと教えています。ではどうして耐えられるか。

 まず、全ての試練は、私たちの主イエス様も、同じように、いやもっと激しくそれらの試練に会われてきたのであります。そこでイエス様はまことに忍耐と従順とをお示しになりました。なぜなら、イエス様は試練が、父なる神の御心であることをご存じであったからであります。ローマ人への手紙5章で「患難は忍耐を生み出し、忍耐は練達を生み出し、練達は希望を生み出す。おして希望は失望に終わることはない」と言われている通り。試練は字のごとく、主の試みであり、訓練であります。懲罰でもなければ、裁きでもありません。子供のたくましい成長を促す、天の父の訓練ということであります。4節。<だから、なんら欠点のない、完全な、でき上がった人となるように、その忍耐力を十分に働かせるがよい。>
試練によって、忍耐があたえられ、より一層、主を仰ぎ、より頼む信仰へと導き給う、主の愛が示されるのが試練であります。それ故喜べとまで言い切っています。しかし、これこそ言うが安く行うは難し、であります。試練のさ中にあっては、もう目の前のことに心がいっぱいで、なかなか喜ぶというような心境になれない。大したことでなければともかく、どうなるか分からない、自分ではどうしようもない困難にあって、喜ぶことができるのかというところです。
 では、どうするか、5節から6節前半。
【5:あなたがたのうち、知恵に不足している者があれば、その人は、とがめもせずに惜しみなくすべての人に与える神に、願い求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。6:ただ、疑わないで、信仰をもって願い求めなさい。】
 主が与えて下さる、ということであります。自らの無力さを覚え、もう主により頼むしかない、という状況であれば、これはもう、一心に主を仰ぎ、また平伏し、祈り願うことになります。試練が大きいほど、私たちの魂は主を求め、心は主により頼みます。そうしてキリストへの信仰をもって願い求める時、御心がなります。御心にかなう必要が与えられるのであります。私たちは弱いですから、すぐ見える形で結果を求める。見えるものに頼ってしまう。しかし、見えるもはすべて見えないものからくるものです。信仰とは見えないものを信じる。見えるものは変わり、きちますけれども、見えない神を信じる信仰は、変わることなく、私たちに忍耐をあたえてくれます。

 新約聖書357頁、へブル人への手紙12章を引いてみましょう。有名な父の訓練の御言葉です。12章10節から11節。
【肉親の父は、しばらくの間、自分の考えに従って訓練を与えるが、たましいの父は、わたしたちの益のため、そのきよさにあずからせるために、そうされるのである。すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。しかし、後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる】
 地上の父は間違うこともあります。厳しすぎることもあれば、途中で気が変わることもあります。しかし天の父に、心変わりもなく、また誤りもありません。ただ、キリストにあって子とされた私たちの、益になるように。私たちが、嬉しいと思うようなこと、都合のよいこと、幸いなことも全て、同じように天の父が与えて下さっているのですから、同じように、当座は悲しい試練もまた、同じ父なる神様の愛であります。私たちは幸いにも、それを、教えらえて、御霊によってその愛を確信することができるようにされているのですから。
【いろいろな試錬に会った場合、それをむしろ非常に喜ばしいことと思いなさい。】
【とがめもせずに惜しみなくすべての人に与える神に、願い求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。ただ、疑わないで、信仰をもって願い求めなさい。】
忍耐と、信仰をもって祈りつつ、まさに試練をも喜ぶことができるように、堅く、安定した信仰へと成長させていただけるよう、一層の主のお守りと導きを祈りたいと思います。

2021年度 メッセージ一覧

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■「初めに言があった」という有名な言葉で始まる「ヨハネによる福音書」の1章から、クリスマスの出来事に…

私たちは癒された

■有名なメシヤ預言、イザヤ書53章です。キリスト降誕の700年以上前に、彼のご生涯が予言されていました。■

必ず地に立たれる

■サタンの試みにより、大きな困難と苦しみを受けたヨブ。友人達との議論や神への問いかけの中に、やがて地…

月報 2021年10月【キリストは誰のためにご自身を捧げられたか】

 

心は舌に表れる

■ヤコブの手紙3章前半では、語るという行為の中に、信仰と行いの一体の大切さが教えられます。

生きる信仰

■ヤコブによる手紙の2章後半、手紙のメインテーマ「信仰は行いと共に働いて生きる信仰になる」ことが教え…

憐みは裁きに勝つ

魂を救う力

■イエス・キリストの兄弟ヤコブが記した手紙は、試練と誘惑の中で弱っていた人々を励まし、導くものでした…

全ての善い贈り物

■ヤコブの手紙1章9~18節から、試練に潜む誘惑と耐える力。神様が贈って下さる真の富について、教えられた…

試練を喜んで

■新約聖書中、最も早い時期に記されたとされる、ヤコブの手紙。イエス・キリストの兄弟が書いたこの手紙に…

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神は世界を憐れむ

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悔い改めの実現

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御手はどこまでも

■神様の命に背き逃れようとしてヨナが乗った船を、神様が暴風をもって遮られます。今にも沈没しそうな中、…

月報 2021年9月【救いへの選びは無条件】

 前回「全的堕落」ということについて御言葉に聞きました。人はアダムの堕落以来「全ての部分で」悪くな…

神が遣わされる

◆紀元前8世紀。神様から、強大な敵国へ行って神の宣告を伝えるよう命じられた、預言者ヨナは、それを逃れ…

ここからの一歩

■ピリピ人への手紙3章から。私たちは人生において、ただ一つの目標を目指し進んでいること。その歩みが完…

月報 2021年8月【救いは神の御業】

 先月、ヤコブの手紙で「御言を行う人になりなさい」と教えられましたが、それは、神様の御心に適う事。…

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■ヨシュアに導かれて、主なる神が約束された地、カナンに入植を果たしたイスラエルの民に対して、ヨシュア…

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■エペソ人への手紙の最終章から、信仰の戦いということについて教えられます。

第一の教え

■エペソ人への手紙6章から、パウロのは、親子関係、主従関係の在り方について教えていきます。

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■教会の一致をもたらす、クリスチャンの交わり。今朝は、その基礎となる夫婦関係について、キリストと教会…

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■エペソ人への手紙5章から、今の時代を幸せに生きるために必要なこと。何を求めて、何を心掛けるかが教え…

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月報2021年6月 【熱心と、準備と、祈りをもって】

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復活のキリストの説教

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イエスは甦って、

■十字架刑によって絶命されたイエスは墓に葬られ、大きな石で封がされました。しかし、日曜の朝、番人が見…

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神とみ言にゆだねる

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■初代教会が各地に建てられ始めたころ、まだ不安定な信徒たちに、キリストの教会がいかなるのものかをパウ…

月報2021年2月号 【神に戒められる人は幸い】

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■『主はすべて倒れんとする者をささえ、すべてかがむ者を立たせられます。』 この詩篇145篇14節の御言は、…

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■新年礼拝で聞いた「テモテへの第二の手紙」4章から続いて、御言を宣べ伝える心構えと困難さについて教え…

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■詩篇113篇から118編は「讃美の詩篇」です。ユダヤの季節ごとの祭で、神殿に詣でる人々の前で歌われた、神…

御言をのべつたえなさい

■新型コロナウィルスへ感染の解決がまだまだ不透明な中、あらたな一年が始まります。年初にあたりあらため…