「彼女はわたしよりも正しい。わたしが彼女をわが子シラに与えなかったためである。」
今朝もみ言葉に聴いて参りましょう。
マタイによる福音書の第一章の冒頭は、ご承知のようにイエス・キリストの系図であります。通常父の名前で記される系図の中に、5人の女性の名があります。タマル、ラハブ、ルツ、ウリヤの妻(バテシバ)、そしてマリヤであります。父系をたどる系図の中にある女性の名は、それぞれ特別の事情があって記されているのですが、その一人一人についてみ言葉に聴くとき、私たちはまた神さまのご計画、神さまのみ心の一端を知ることができると思います。
今日は38章全体を取り上げたいのですが、長くなるので、一部を選んで読んでいただきましたので、先ずその前段をかいつまんで申しますと、ユダはヤコブの息子、ヨセフ(兄弟たちに妬まれ、エジプトに奴隷に売られた)の兄弟でありました。そしてヨセフを奴隷として売り渡した出来事のあと、ユダは他の兄弟たちとは離れた所に住んでありました。そしてカナン人の娘を妻にして、3人の息子を儲けておりました。
やがてユダは長子のエルにタマルという妻を迎えました。しかしエルは主の前に悪いものであったため(具体的には分からない)、主によって殺されました。
そこで当時の風習である逆縁婚(レビラト婚)によって、次男であるオナンがタマルを妻として、兄に子どもを得させることになったのですが、オナンは子をもうけても自分の子ではなく兄の子になってしまうことを厭い、妻の所に入った時、兄に子を得させないために地に漏らしました。そのことは主の前に悪いことであったので、オナンもまた殺されました。オナンの罪とは、神さまの「生めよ、ふえよ、地に満ちよ」というみ心に背き、結婚の契約を軽んじたことにありました。(主に対しても、家に対しても、妻に対しても、不誠実であったのです)
ユダはタマルに「わたしの子シラが成人するまで、寡婦のままで、あなたの父の家にいなさい」(38:11)
と命じました。しかしそれは口実であり、ユダにはタマルを三男のシラの妻とする意思はありませんでした。二人の息子の死は、それぞれの息子が神さまの前に悪いものであったことで、神さまの怒りに触れたのですが、ユダはいつしかその責任をタマルに転嫁していました。俗な言い方をしますと、タマルを不運を呼び込む縁起の悪い嫁と厭うようになっていたのです。
やがてユダの妻が死に、ユダは友人たちとともに羊の毛を刈るために、テムナという所に行きます。それを知ったタマルは38:14寡婦の衣服を脱ぎ捨て、被衣で身をおおい隠して、テナムへ行く道に座っていました。(羊の毛を刈る旅は、遊興的なハメを外す機会でもあったようです)タマルは、舅が最早自分を三男のシラの妻にする気がないことを知っていたのです。38:15ユダはタマルが顔を覆っているのを見て遊女だと思い、彼女の所に入ることにしました。ユダはタマルに山羊の子をやることを約束し、その証拠としてタマルに望まれるままに自身の印と紐と杖を渡しました。それらはいずれも持ち主の身元を証明するものでありました。ユダはタマルの所に入り、タマルは舅ユダによって身ごもりました。そして彼女は被衣を脱ぎ、元通り寡婦の姿となりました。
やがてユダは友人を介して彼女に山羊の子を贈り、証拠の品を取り戻そうとしましたが、彼女は居らず、人々もここには遊女はいないというので、38:23深追いしても恥をかくことになると放っておくことにしました。
ところが三月ほどの後、38:24タマルが姦淫によって身ごもったとユダに告げる者がありました。ユダは彼女を引き出して焼いてしまえと言いました。これは単に彼の怒りの発露という以上に、彼の家長としての断罪でありました。姦淫の女を、石打ではなく焼き殺すというのは、ユダの思いつきではなく、ふるいかたちの刑罰であったようであります。それに対してタマルは38:25と、先にユダから受け取った証拠の品を差し出しました。それを見たユダはすべてを悟り38:26と悔い改めの言葉を口にしたのであります。
これがタマルとユダの物語の次第です。そこには人が犯した様々な罪が交錯しますが、しかしその中でイエス様の先祖の一人が、この世に生を受けたのであります。
ユダは、兄弟たちと別れてカナン人と交わり、その娘を妻とします。異教徒との結婚は、主の民が為すべきことではありませんでした。アブラハムは「わたしが今一緒に住んでいるカナンびとのうちから、娘をわたしの子の妻にめとってはならない」(24章3節)と、息子イサクのために故郷から妻をめとりました。またイサクも息子ヤコブに対して「あなたはカナンの娘を妻にめとってはならない」(28章1節b)と言いました。そしてヤコブの兄エサウがヘテ人の娘たちを妻としており、そのことはイサクと妻リベカの心の痛みとなっていました。(26章35節)
ユダがカナン人の娘を妻とし、また息子にもカナン人の娘タマルを妻としたことは、主のみ心に叶わないことであり、霊的な純潔を損なうことであったと言えましょう。
そのような家で、主を畏れる信仰が子どもたちに十分に受け継がれていなかったことが、察せられます。長子エルは具体的には分かりませんが、主の怒りに触れ殺されます。ついで次男のオナンも、主の怒りに触れて殺されます。オナンはレビラト婚を受け入れてタマルを妻としたにもかかわらず、兄のために子を生すことを厭い、地に漏らしたことで主の怒りに触れます。レビラト婚を拒絶せず(拒絶する方法はありました)、表面的に受け入れながら子を生そうとしない不誠実な態度で、神さまにも、父にも、妻にも背いたのです。
その中で、ユダもまた罪を犯します。二人の息子の死は、彼ら自身の罪によるものであったにもかかわらず、ユダは妻であるタマルに責任を転嫁して退け、三男の成人まで待つようにと、偽りを以て親元に帰したのでありました。タマルを妻とすることで、また息子を失うことを恐れたのでありましょう。
そのような舅の振る舞いに対して、タマルは実力行使に出ます。娼婦に身をやつして、ユダの子を身ごもったのです。これは今日の私たちが考える近親相姦とは違います。レビラト婚は亡くなった夫の兄弟による者でありますが、注解書によれば亡くなった夫の最も近い近親者をも含むとあります。従って、タマルは計略を以て、強引に夫の父であるユダにレビラト婚の義務を果たさせたということにもなります。命をかけた権利の主張でありました。
38章26節
「ユダはこれを見定めて言った、「彼女はわたしよりも正しい。わたしが彼女をわが子シラに与えなかったためである」。彼は再び彼女を知らなかった。」
このユダの言葉には、彼の悔い改めが読み取れます。彼女はわたしよりも正しいと、タマルの無言の主張を認め、自分の非を認めたのです。「再び彼女を知らなかった」とあります。ふしだらな恋愛関係に陥ること泣く、一度限りのタマルの実力行使を受け入れ、彼女の子をわが子として受け入れたのであります。このようにして、イエス様の祖先の一人が生まれたのです。罪が錯綜する中にも主の恵みは確かです。ユダは最後にタマルに対して誠実でありました。彼女の主張を認め、自らの罪を告白するに至りました。実に神さまからの恵みによって、悔い改めに導かれたのであります。
「人が心に思い図ることは、幼い時から悪い」(8:21ノアの洪水のあと)
のですが、神さまはそのような人の思いや行いをも用いつつ、恵みの中にご計画を勧めてくださるのです。 (以上:滝田教師)