ここからの一歩
「12:わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕えようとして追い求めているのである。そうするのは、キリスト・イエスによって捕えられているからである。
13:兄弟たちよ。わたしはすでに捕えたとは思っていない。ただこの一事を努めている。すなわち、後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、14:目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである。
15:だから、わたしたちの中で全き人たちは、そのように考えるべきである。しかし、あなたがたが違った考えを持っているなら、神はそのことも示して下さるであろう。
16:ただ、わたしたちは、達し得たところに従って進むべきである。」ピリピ人への手紙 3章 12節から16節
「12:わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕えようとして追い求めているのである。そうするのは、キリスト・イエスによって捕えられているからである。」
ピリピ人への手紙3章12節の御言葉です。ここでは、キリストに召され御霊に導かれていた、大伝道者パウロが、自らの信仰生活における心構えを告白し、教えています。本日は、振起日礼拝に当たり、この御言葉から、励まされたいと願っています。
まず、この手紙は、いわゆる獄中書簡と呼ばれるものの一つです。ローマで裁判を受けるため、軟禁されていた間に書かれた手紙であるとされます。あて先のピリピの教会は、パウロの伝道活動を、経済的に支えていた教会でした。パウロがローマに捉えられたと知って、エパフロデトという人を、援助物資を持たせて、慰問に送り出していました。そのエパフロデトが。ローマで重病になり、命も危ういところを何とか回復して、無事ピリピへの帰路につくことができるようになりました。そこで、パウロは、彼に手紙を託しました。それは、ピリピの教会への感謝と、同時に教会が抱えていた問題に対する、教えと励ましでありました。
ピリピの教会が抱えていた問題は、幾つかあったようです。まず、会員同士の対立(2:2,4:2)。そしてユダヤ主義の危険(3:2-3)。それと反律法主義と呼ばれるものです(3:18-19)。これはユダヤ主義や律法主義という、救われるためには、割礼や儀式的な行いが必要だという誤った教えの、真逆の極端で、律法すなわち、イエスさまが説かれた、生活の指針ある神様の律法を、全く顧みず、律法など守る必要はないとして、この世的な欲望の赴くままに、放埓な生活をしている者を指します。
中には、自らを信仰の完成者であるとか、地上で完全にすくわれていると言った、完全主義者ともいえるような人がいたようです。本日の御言葉は、特にこの完全主義に対して、パウロが自らの思いを述べることで、信仰生活の正しい心がけを、簡潔に教えています。
もう一度12節前半の御言葉をお読みいたします。
「12:わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕えようとして追い求めているのである。」
大伝道者であり、また教会を教え導いてきたパウロ自身が、自分を完全なものではないと明言しています。まだ、追い求めている状態であると言っています。これは、私たちクリスチャンは、実は全員、この世にあっては求道者である、ということであります。私たちは、幸いにも主なる神様の測りがたい恩寵により、召されて、信仰を与えられています。しかし、この信仰は、地上において完成されるものではなくて、常に追い求めるもの。つまり、この世の教会では、信仰を与えられ告白した人をクリスチャン、信徒、聖徒、教会員と呼び、洗礼を受けていない人を求道者と呼びますが、クリスチャンもまた、追い求めるもの、求道者であるとパウロは言っています。使徒パウロがでさえ自ら、そう言っていることに教えられたいと思います。
求道者であるということは、当然完全ではなく、不十分であるということで、私たち自身、人間として様々な不足を持っているのと同じく、信仰においても、一生不十分だと言いうことであります。これはある意味当然です。パウロは12節で「追い求めている」と言っています。「追い求める」という言葉は、「追跡する」とか「後を追う」という意味の単語です。「追いかけて走る」という意味もあります。また、「わたしがそれを得たと言っていない」と語っています。パウロは「それ」を追いかけて、得ようとしていました。「それ」というのは、すぐ前の10節でこう言っています。
「すなわち、キリストとその復活の力とを知り、その苦難にあずかって、その死のさまとひとしくなり、」
つまり、イエス・キリスト知ること。そしてキリストに等しく、同じようにされること、似たものにされることを望んでいるということであります。父なる神様に全く従順で、人が果たし得ない律法を完全に成就したまい、さらに、人が受けるべき裁きを、その身に引き受けて下さった神の御子。神の完全なる義と、永遠の愛をその身に実現された、救い主イエス・キリストであります。救われてなお罪ある身が、キリストを完全に知ることも、完全に同じくされることはかないません。それでも、それゆえに、少しでもイエス様の後を追いかけようとしている、後についていこうと願っているわけであります。
ただし、信仰は不十分であっても、救いは完全であります。パウロは11節で次のように言っています。
「なんとかして死人のうちからの復活に達したいのである。」
これは、救いがまだ達成されていない、不完全さを言っているのではありません。そのように心から願っている、というパウロの願望であって、たとえ不完全な信仰であっても、救いは既に確実であります。永遠の命に至る救い自体は、信仰において完全であります。パウロも9節で、はっきりと信仰義認を説いています。その上で、さらに信仰の成長を目指すべきだという、一人一人の努力の必要性を教えているのであります。「私たちは神に作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られた」エペソで教えられました。そして、ピリピ1章の6節では次のように教えられます。
「そして、あなたがたのうちに良いわざを始められた方が、キリスト・イエスの日までにそれを完成して下さるにちがいないと、確信している。」
私たちの内に始められた良いわざ。すなわち主なる神様が私たちの内に起こされた信仰であります。この御業は主の御業で、救いは確実ですけれども、この世でのそれぞれの信仰とは不十分で、幼い子供の状態であるということです。ですから、私たちは成長しなければならない、ということが教えられています。一人でしっかり立って、歩くことができるように。迷子にならないように。様々な逆風や、坂道や、困難、誘惑に打ち勝って、信仰を固く保ち、主の御栄光を表すことができるように。ということであります。人間は、歳を経ていきますと、段々と衰えてきます。体のあちこちに不調も出れば、頭の働きや集中力も落ちてきます。生物的な成長には天辺があって、後は下り坂になりますけれども、信仰においては、いくつになっても成長を果たすことが適います。12節の後半で次のように言われています。
「そうするのは、キリスト・イエスによって捕えられているからである。」
「そうするのは」という接続詞は「なぜならば」という意味にとった方が分かりやすいと思います。つまり、パウロがイエス・キリストの御姿を、捕えようと追い求める、その理由は、キリスト・イエスによって「捕らえられているから」であるということであります。
逆説的に語っています。私たちがイエス様の後を追いかけるのは、イエス様が私たちを捕まえていて下さるからだということです。つまり、主はご自身の民、羊を一人たりとも手放したり、見過ごされることはありません。全て、全員を主の御許へ、牧場へと招き入れ、守りやしない給うのであります。ですから、羊は、当然この大牧者につき従い、その後をついて回ります。私たちが、見失ったかもしれないと不安になることもありますが、主は決して目を離されることはありません。私たちは全く安全なのですが、安心するためには、やはり主の御姿を目にすることが何よりです。主の御旨に従う中に、豊かに養われます。そのために、御言葉なる聖書が与えられています。感謝して、常にみ言葉に聞いて、いつまでも幼いままではなく、信仰の成長を目指そうという勧めであります。
続いて、13節から14節に進んでまいります。
「13:兄弟たちよ。わたしはすでに捕えたとは思っていない。ただこの一事を努めている。すなわち、後ろのものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、14:目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである。」
12節の「捕えようと追い求めている」という言葉から、さらに言い換えて、詳しく述べています。ここでは、信仰生活を陸上競技に譬えて教えています。14節の「走り」という単語は、12節の「追い求める」という単語と全く同じです。陸上競技に譬えて、目標を目指すところから「走る」という意味に訳しています。ここで、パウロが務めていること、励んでいることはただ一つです。
それは「後ろのものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ば」すことです。3章の3節から4節ではこう言っています。
「神の霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇りとし、肉をたのみとしない私たちこそ、割礼の者である。もとより、肉の頼みなら、わたしにも無くはない。」 8節では
「わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている」
つまり、イエス・キリストを知って、真の神を知ることで、何が本当に大切であり、価値があるかを知らされた。心の目が開かれて、神の愛を知り、隣人への愛を教えられて、命の意味を知った。世界の姿、また真の王を知った。永遠の命へと私たちを導いくものが何かを教えられた。それが、全て与えられていることも分かった。いまさら、かつて自分を支配していた罪。この世の肉の行いや、この世の何を誇り、追い求めることがあろうか、ということであります。
ただ、神の国と神の義を求めれば他のものは添えて与えられる。パウロは、私たちに求められているのはただ一つのことだ。あれもこれもではなくて、たった一つのことだけ、心がければいいんだということを教えています。陸上競技に譬えているので、何かこう、全力疾走するような、叱咤激励のように聞こえますが、このパウロの教えは無慈悲な特訓ではありません。どちらかといえば、これだけでいいのだ、これが成長の秘訣だ、いうように教え諭しているのであります。ですから15節以降。
「15:だから、わたしたちの中で全き人たちは、そのように考えるべきである。しかし、あなたがたが違った考えを持っているなら、神はそのことも示して下さるであろう。16:ただ、わたしたちは、達し得たところに従って進むべきである。」
全き人、すなわち成熟した人、大人という意味です。信仰的に大人に出ある人ほど、自らの信仰の不十分さを知り、何とか前に進もうという、へりくだり。主に御前に謙虚さが与えられるのであります。逆に違った考え。つまり、これで十分、もう完全だ。あるいは律法主義的な行いへの満足、そういう考えの者がいるなら、「神はそのことも示して下さる」つまり、その誤りを明らかにして、教えて下さるというのであります。そこからまた、前に進むことが適う、主が御手をもって導いて下さる、という恵みが示されています。
さらに、16節では大きな励ましがあります。
「わたしたちは、達し得たところに従って進むべきである。」
私たちは、一人一人、聖書の理解も、信仰の度合いもまちまちです。達しえたところの従ってというのは、今、それぞれが達しえたところを規準として、そこから進みましょう、ということです。イエス・キリストを救い主と信じる信仰によって、救いは完全なものとなっています。しかし、やがて召されるその日まで、この世の様々な戦いの中にあって、自らの信仰を誇るのでなく、逆に不十分さに打ちひしがれたり、恥ずかしがる必要もありません。一人一人違う、今達しているその基準から、場所から、少しだけでもイエス様に向かう、一歩を踏み出す。主は一人一人を、差別なく愛し導き給うのであります。この私たちを捕まえていて下さる主に信頼し、今ここから、ただ一歩を進む力を賜りますよう、御言葉に聞いて、御霊が押し出して下さるよう祈ります。