神とみ言にゆだねる
28)どうか、あなたがた自身に気をつけ、また、すべての群れに気をくばっていただきたい。聖霊は、神が御子の血であがない取られた神の教会を牧させるために、あなたがたをその群れの監督者にお立てになったのである。 29)わたしが去った後、狂暴なおおかみが、あなたがたの中にはいり込んできて、容赦なく群れを荒すようになることを、わたしは知っている。 30)また、あなたがた自身の中からも、いろいろ曲ったことを言って、弟子たちを自分の方に、ひっぱり込もうとする者らが起るであろう。 31)だから、目をさましていなさい。そして、わたしが三年の間、夜も昼も涙をもって、あなたがたひとりびとりを絶えずさとしてきたことを、忘れないでほしい。 32)今わたしは、主とその恵みの言とに、あなたがたをゆだねる。御言には、あなたがたの徳をたて、聖別されたすべての人々と共に、御国をつがせる力がある。使徒行伝 20章 28節から32節
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「今わたしは、主とその恵みの言とに、あなたがたをゆだねる。御言には、あなたがたの徳をたて、聖別されたすべての人々と共に、御国をつがせる力がある。」
使徒行伝20章32節の御言でございます。本日は、この主にゆだねるということと、主の御言の力。恵みある力によって、主とその御言葉にゆだねられている、ということの平安と、励ましが与えられますように願っています。
まず、このみ言葉が語られた状況です。パウロがエペソで2年半程伝道活動を行ってきて、多くの力ある業を行い、宣教し、成果を上げました。しかし、宣教が成功した分、エペソにはギリシャの女神アルテミス神殿があって、そこにアルテミス像が祭られていましたから、これをあがめ、偶像の銀細工で商売をし、生計を立てていた人々の反感を買って大騒動がおこりました。そこで、いったん今のトルコの西の端にあったエペソを離れ、ぐるっと北を回って、マケドニヤ、ギリシャへの伝道旅行を続けていました。第3回伝道旅行と言われています。
その後パウロはエルサレムに戻る必要に迫られ、船で戻る際に、エペソではなく隣の港町ミレトに立ち寄って、そこにエペソの長老たちを呼び寄せて、語ったと記されています。エペソは商業と宗教的な観光都市で、ちょうど大阪と奈良が一体になった感じでしょうか。ですから、大阪ではまた騒ぎになるので、大阪港ではなく、神戸港で船を降りて呼び寄せたような状況だったと思います。
わざわざ呼び寄せたことについは、23節と25節に書かれています。23節では
「今や、わたしは御霊にかられてエルサレムに行く。あの都で、どんな事がわたしの身にふりかかって来るか、わたしにはわからない。」
25節では
「わたしはいま信じている、あなたがたの間を歩き回って御国を宣べ伝えたこのわたしの顔を、みんなが今後二度と見ることはあるまい。」
実際、この後、パウロはエルサレムでユダヤ人に捕まって、殺されそうになり、異教徒の施政者である、ローマの千卒長、千人隊長に救われると言う出来事があります。ここで2年ほど拘留され、カエサルに上訴してローマに送られ、さらに2年拘留されます。この期間に獄中書簡が書かれたとされます。パウロはいったん釈放され、数年間宣教を続けますが、結局ローマで再度捕まって、殉教することになります。皇帝ネロによる迫害によってと言われております。が、実際に、再度エペソの長老たちに会えたかどうかは記録ではわかっておりません。
結局、こうしてパウロはの約3年程伝道したエペソを離れ、もう二度と会えないと確信して、残していく長老たちに、最後に語った言葉です。そこに重大な覚悟で、警告と励ましとが教えられています。28節、
「28)どうか、あなたがた自身に気をつけ、また、すべての群れに気をくばっていただきたい。聖霊は、神が御子の血であがない取られた神の教会を牧させるために、あなたがたをその群れの監督者にお立てになったのである。」
まず、自分自身と群れ、教会の全体に気を配るように言われています。文語訳だともっと厳しい感じです「汝等自ら心せよ」と書かれています。わたしなど、「心せよ」と言われると、思わず「勘弁してください」と言いたくなります。心しなければならない理由は、ここにあるように、教会の尊さにあります。すなわち「神が御子の地で贖い取られた神の教会」であるからであります。ここは、以前にも少し説明いたしましたが、「御子の血」の「御子」という単語はありません。歴史的には、御子キリストの血によりますので、こう訳されていますが、他の訳では直訳的に「神が、ご自身の血をもって買い取られた」としています。英訳では「with his own blood」。いずれにしても神の教会、これを牧するために、あなた方は監督に立てられたからだ、と言うことであります。この監督と言う言葉は「注意して見守るもの」と言う意味で、後の時代に確立する制度的な監督と言う意味ではないようです。しかし、任命された長老たちに向けられたことばは、自分のものではなくて、神様のもの。大切で貴重なものを取り扱う、それゆえ心して気を配るように、ということを示したのということです。
この聖書の箇所は、牧師や長老の任職式などでも使われるところでもあります。しかし、信仰生活を、長く支えられている兄弟姉妹においては、全ての信徒に向けられた言葉であるともいえます。キリストを信じる一人一人が、その血で贖われているのですから、その集合体である教会はなおさら、この世のものではなく、神様のものであります。ただ、このパウロの言葉をそのまま受け止めようとすると、あまりにも重いですね。自分の罪深さ、至らなさを思うと、ちょっと恐れおののいてしまいます。
しかしパウロは、更にダメ押しのように言葉を重ねていきます。29節から31節をお読みします
「29)わたしが去った後、狂暴なおおかみが、あなたがたの中にはいり込んできて、容赦なく群れを荒すようになることを、わたしは知っている。 30)また、あなたがた自身の中からも、いろいろ曲ったことを言って、弟子たちを自分の方に、ひっぱり込もうとする者らが起るであろう。 31)だから、目をさましていなさい。そして、わたしが三年の間、夜も昼も涙をもって、あなたがたひとりびとりを絶えずさとしてきたことを、忘れないでほしい。」
頼りになる伝道者、主の霊によって数々の力ある業でキリストを証ししてきたパウロがいなくなったら、外から凶暴な狼が入り込んでくる、と言っています。この狼というのは、キリスト者を迫害していた、ユダヤ教徒たち。せっかく自ら信じる神による預言たちが、預言していたことが成就したのに、認めることができず、却ってこれを迫害していた人たちや、パウロをエペソから追い出したような異教徒だという解釈もあります。しかし、ここでは「入り込んでくる」と言われており、これは、どちらかと言うと、同じキリスト者を装う、いわゆる偽教師とか偽預言者と言われるもの達と考える方が妥当だと思われます。ですから、偽教師は外からも、そして30節に「あなた方自身の中からも」よ言っているように、教会の内部から、しかも指導者からも出てくる。教会員を自分のほうに引き寄せ、分裂させ、異端へと走らせるものが出てくる、と言う警告であります。教会は常に羊を食い荒らす狼、偽教師の脅威によって、外からも内からも攻撃されるのだということです。
これは、パウロによる預言とも言えます。現実に、この後エペソの教会は様々な試練に会いました。第一テモテ1章の19節をお読みいたしますと(328頁)。
「ある人々は正しい良心を捨てたため、信仰の破船に会った。(遭難して溺れた)その中に、ヒメナオとアレキサンデルとがいる。わたしは、神を汚さないことを学ばせるために、この二人をサタンの手に渡したのである」他にも、第2テモテの2章や、3章に誤った教えや、この世の誘惑、自分中心の偽教師によって、キリストの言葉にとどまらず、教会を離れていったもの達が現れたことが記録されています。本当にこのようなことがあるのだから、良い牧者が、寝ずに羊の番をするように、「目を覚ましていなさい」と教えているのであります。
神様の血で買い取られた神の教会の尊いこと、その教会が常に危険にさらされていることが、あいついで語られました。聞いている方としては、どうでしょう。なんという重責かと身震いするのではないでしょうか。実際、私は致しました。と言いますのは、実は、この28節から32節は、昨年の夏に、私が牧会のご奉仕をすることになりました、と神学館で教えて頂いている、契約教会の瀧浦先生にご報告した際に、先生から送られた聖句でした。送っていただいた聖句をよみながら、ひえ~っと。「そんなに脅さんといてください。」と言う気持ちになったのを、今でも強烈に覚えています。何と厳しい言葉だと、少しこの、私のおでこに斜線が入ったと思います。
しかし、最後に恵みあるんです。強烈な救いと励ましがあるんです。32節をお読みします。
「32)今わたしは、主とその恵みの言とに、あなたがたをゆだねる。御言には、あなたがたの徳をたて、聖別されたすべての人々と共に、御国をつがせる力がある。」
本当に大切なことは、ここにありました。「主とその恵みの言とに、あなたがたをゆだねる」。役3年間、エペソで伝道し指導してきたパウロが、最後の別れに際して、後を託すものに送った言葉は、「主と御言に仕えよ」でも「従え」でもなく、「主とその恵みの言にゆだねる」でありました。これは、正しい信仰を支え、伝道を進めるその力は、私たちの力ではなくて、主の力。宣教が主の御業である、と言うことを明言しています。人は誤ちを犯し、迷い、惑わされますが、主にゆだねられています。主が私たちを担っていて下さるという、これほどの安心はありません。これは、実際にそうです。この、主が主体であるということで、私たちは救われ、励まされるのであります。この御言がなければ、私のようなものが講壇に立つことなど、出来ようもありません。欠けだらけの弱い者は、御言の重さに潰れてしまします。しかし、主にゆだねる。ゆだねられていることで、可能になるのであります。本当に、これはもう、主におゆだねするしかない。全てお任せします。お願いします、という願いと、いつくしみ深い真実なる主が召されたことは、必ず成して下さると言う、信頼だけに支えられるのであります。
ここで、本当にこのみ言葉を送っていただいた真意を、心から感じることができました。前半はさんざん脅されて、ビビりまくるのですけれど、結局「主とその恵みの言にゆだねられている」という、主がご主体であるということ。その、愛のご節理の下に置かれていると言う、この一言で立たせられるわけです。今年度の標語聖句にありますように、本当にかがみこんでしまうような状況。かがみこんでしまう者を、御言が立たせてくださると言うことであります。この主の愛と、力ある御言に感謝したいと思います。
以前学びました、コリント人への第2の手紙の5章では、神様は私たちに「福音をゆだねられた」と教えられました。第一コリントの9章16~17節でも、第2テモテの1章11節から14節でも同様に、私たちに「福音がゆだねられる」ことが書かれています。この、人を救い、永遠の命に導く、力ある御言を、ゆだねられているのは、この世では唯一教会であって、私たち一人一人のクリスチャンであります。それは、主の御用、召された者の務めを示していました。
しかし、その福音をゆだねられた私たち自身が、その務めごと、逆に主とその御言にゆだねられているのだ、と言うことがここで教えられました。私たちは力がなくとも、ずっと目を覚ましていることもなかなかできないですけれども、主が用いて、主がなさって下さると言う、事実であり、それが真の励ましと、必要な力を私たちに与えて下さる。御言の力であります。
この32節ではみ言葉の力が、二つ教えられています。その一つは「徳を立てる」と言われています。「徳を立てる」と言うのは、あなた方、つまり私たちが人徳者になるとか、徳を得るといういみではなくて、成長させられる。霊的に育成されると言う意味です。御言によって教会は成長していくことができる。逆に、御言によらなければ成長はありません。この世的な、様々な活動をすることも、それはそれで益となり、また伝道の支えともなりますが、あくまで二義的な働きです。まず、御言。御言が正しく語られ、かつ正しく聞かれる。それがキリストの教会の証しであると、私たちは教えられてまいりました。そして礼典が正しく行われ、共に祈りがささげられる。つまり、礼拝であります。キリストのみをかしらとする、真の神様への礼拝こそが教会の本質であるということであります。
もう一つの力は、御国を継がせる力。つまり、信仰を与える。肉から霊へと新しく生まれ変わらせ、回心させ、イエスキリストを救い主と信じる信仰を与える力。それによって、神の御前に義と見なしていただき、子とされ、天国の栄光を相続させてくださる。天国への道のりを固く保ってくださる、そのような測り難い力であるということであります。
この力は、御言を通して働かれる聖霊の力であり、聖霊を遣わされる父と御子キリストの力であります。この、力ある、恵みの御言にゆだねられて、主のお守りのうちに、主に従う信仰生守られ守られますよう。また伝道の御用が許されますよう、祈ってやまないものであります。(以上)