【12:だから、自由の律法によってさばかるべき者らしく語り、かつ行いなさい。13:あわれみを行わなかった者に対しては、仮借のないさばきが下される。あわれみは、さばきにうち勝つ。】
ヤコブの手紙2章12節13節の御言です。今日、司会者にお読みいただいた部分は、2章の前半部分になります。ここでヤコブは「あわれみは、さばきに打ち勝つ」という、強い宣言をいたしました。これは、クリスチャンの信仰生活を、主の御心にかなうように。また固く安定させるために、投げかけられた、御言全体の本質的な教えでもあります。本日は、この御言と、それを必要とするキリスト者の姿、状況を振り返ってまいりたいと思います。
まず、主の兄弟。イエス・キリストの兄弟であるヤコブによって書かれたこの手紙。ヤコブは、エルサレムの教会の柱の一人であり、監督とも言われていました。そのヤコブが、福音書や、パウロやヨハネによる様々な手紙が書かれ、広められるのに先駆けて、この手紙を書きました。それは、困難や教会内の問題に揺らされて、安定を欠きつつあった、初期の信徒の群れを励まし、正しいい信仰生活に導くという目的を持っていました。そのため、5章で終わる手紙全体の中で、「こうしてはいけない」また「こうしなさい」と言った、命令や指導がいくつもなされていきます。
そういう意味では、ある意味、細かい生活指導のようにも受け取れます。実際、その意味は強かったお思われます。ヤコブ自身もそのことは意識していたと思われます。ですから、この指導は、ヤコブがその地位からくる強権的な指示、命令といったものでは無いことが分かるように、ことあるごとに「私の兄弟たちよ」「愛する兄弟たちよ」と語りかけています。何か指導を始める前や、強く言った後に、兄弟たちに呼びかけています。わずか5章の中に15回もこの呼びかけがなされていますので、そこにヤコブの配慮。信仰と愛情が伝わってくるような文章になっています。実際、彼が伝えたかったことは、まさにその信仰と愛でありまして、これは新旧約含む、聖書全体の大きなテーマであり、主に教えていることされる内容であります。
1章を振り返りますと、1節の簡略な挨拶に始まります。親しい間柄であることが分かります。そこからすぐ、宛先の兄弟たち。信徒の群れへの教えが始まります。その教えは、かつてイエス様が教えられたことを思い起こさせるような言葉がちりばめられていました。
まず、キリストの教会を覆っている困難。信仰の安定を揺るがす事柄が語られました。1章の2節から8節では、試練、とくに迫害や患難といった外的困難があること。其の試練の中での忍耐が勧められます。試練を喜ばしいことだと思いなさい、という言葉です。なぜなら、試練は私たちを成長させる主の訓練であり、信仰をもって願い求めるものに、主はとがめることなく、惜しみなく、その必要を与え給う方であるから、という教えでした。
9節から11節では、この世的な貧富、身分は、一時的なものであって、それぞれ主の御前においては何ら差がないこと。それ故それらにとらわれることの虚しさが述べられ、むしろ世的には貧しくても、卑しくても、約束され当てられているところの天の栄光を喜びましょうということです。
次に12節から18節では、今度は「誘惑」の恐ろしさが語られます。外からではなく、キリスト者の内面から生じる試練であります。実は、こちらの方が恐ろしいと言うことです。なぜならこの誘惑は神から来たものでは無いからです。私たちの心から、さまざまな欲望がうまれ、それが膨らんでその貪欲が、悪。御心に背く罪への誘惑を生み出します。この罪こそが死を生み出します。この死は、肉体的な生物的な死ではなくて、魂の、永遠の死であることがこの後、示されます。
天の父からくるものは、全て善いものである。父なる神は真実なお方で、キリストにあって、御言によって、私たちに新たな命を吹き込んで下さったではないか。私達を死に誘うものは、神からではなく、罪と弱さにある自らの内から生じる、ということです。
このことから、19節で警告されているのは「怒り」ということでした。聞くこと早く、語ること、怒るに遅くあれ、と教えられます。それは主なる神のお姿でもありました。人の怒りの中に潜んでいるのは、自分中心。自らを誇る高慢であります。それはすなわち、隣人愛の欠如、隣人の尊重を欠く心であって、更にその奥には、主なる神様への冒涜。天地の支配主、裁き主。全てのご主権をお持ちである、主への畏れが欠けているということを諭しています。
そして、21節以降。それを避けるために求められるのは、まず御言に聞いて、受け入れると言うことでした。この神の御言は、御霊によって、私たちの心に植え付けられた福音のことであります。天から、この地上に、私たちを救うために、神の御子が来てくださった。まことの救い主イエス・キリストが来られて、救いを果たして下さり、御霊を遣わしてこの救い主を信じる信仰による、永遠の命と御国の栄光を保証して下さったという恵み。御霊を通して父なる神様の教えを解き明かし、天に至る生きる道を照らし、今現在、天の御座で、この世界の全てを死はされていると言う事実であります。これを信じ、この方に聞き従う人生が、本当の幸せなのです。そこに私たち人の幸いが備えられています。これが福音です。ヤコブが、完全な自由の律法といったのは、このことであります。
文字に記され、外から私達を束縛する、律法ではなくて、御霊によって心に刻まれた福音の教え。イエス・キリストの恵みと父なる神の真実の愛を指していますヤコブはこの心の律法、福音の御言に耳を傾けなさい。それを素直にいけいれて、一心に見つめて、あまりに身豊かな主の愛に応えて、神を愛し隣人を愛しなさいと。それを行う者になりなさい、と教えています。ですから、ヤコブの教える行いは、救われるための行いではなく、救われた者が、信仰を安定させ、幸いな人生を歩むための行いを教えている、という点を覚えたいと思います。信仰を得るためではなく、主を信じる信仰の土壌から生まれ、育って繁るところの行い、という意味になります。
ここまで、実は1章全体が手紙の序文ということができます。2章から、さらに具体的な指導。本文に入っていくことになります。2章1節から4節をお読みいたします・
【1:わたしの兄弟たちよ。わたしたちの栄光の主イエス・キリストへの信仰を守るのに、分け隔てをしてはならない。2:たとえば、あなたがたの会堂に、金の指輪をはめ、りっぱな着物を着た人がはいって来ると同時に、みすぼらしい着物を着た貧しい人がはいってきたとする。3:その際、りっぱな着物を着た人に対しては、うやうやしく「どうぞ、こちらの良い席にお掛け下さい」と言い、貧しい人には、「あなたは、そこに立っていなさい。それとも、わたしの足もとにすわっているがよい」と言ったとしたら、4:あなたがたは、自分たちの間で差別立てをし、よからぬ考えで人をさばく者になったわけではないか。】
ここに、ヤコブが正そうとした、散らされた信徒たちが陥っていた、危うい姿が明らかにされています。この具体的な表現は、譬えではなくて、実際にヤコブの耳に入っていた、教会の実体であったと考えられます。これを読んだものが、すぐ理解できる、思い返すことのできる情景であります。
このような状態だからこそ、1章で、この世の富や、理屈だけの権威や、高慢による怒り。人間を規準にした、この世の価値観に基づいた、偏見や差別を指摘しています。そしてそれは、兄弟姉妹に対する、分を超えたさばきであると厳しく警告しているのであります。教理主義、この世的権威主義に陥って、主の教えである、兄弟愛。主が愛されたところの兄弟姉妹への愛の行いが損なわれている、却って主のご主権を侵し、それがはたして御心に適うのか、という叱責でもあります。厳しさゆえに、」兄弟たちよ、呼びかけているのであります。
ここに、現代の私たちも、常にこの世の価値観、基準に引きずられやすく、同じ過ちへと陥りやすいことを覚えたいと思います。ただ、ここでヤコブが指摘しているのは、この世的基準での偏見や差別であって、一人一人の兄弟姉妹に対する、いわゆる配慮というものとは区別されなければなりません。教会には、子供から高齢の方もいらっしゃれば、中には車いすの方や、体調のすぐれない方、慣れておられない方、様々な方々がいらっしゃって、主に招かれておられます。熱さや寒さが苦手な方もいらっしゃいます。互いに配慮し祈り、協力する、主が喜ばれるところの、信仰にある信徒の交わりとは全く逆の姿。それをヤコブは心配し、また指導しているわけであります。
私たちの教会では、1年半にも及ぶコロナ下の中。幸いにも御霊のお守りによって、礼拝や祈祷会を守ることがゆるされてまいりました。真冬や、猛暑の中でも、換気のため窓を開けていましたが、そのような環境中、多くの兄弟姉妹が、互いにいたわり合いながら、御前に集い、またオンラインを通して礼拝と交わりを続けてこられました。これは本当に恵まれたことで、幸いなことだと感謝しています。
それでも、私たちは、つねに御言を覚え、御霊の導きを祈っておらないと、ヤコブが心配したような、この世にとらわれた、御言に耳を背けた生活へと流されていく、まことに弱い者であることを、あらためて覚えたいと思います。
続いて5節から9節。
【5:愛する兄弟たちよ。よく聞きなさい。神は、この世の貧しい人たちを選んで信仰に富ませ、神を愛する者たちに約束された御国の相続者とされたではないか。6:しかるに、あなたがたは貧しい人をはずかしめたのである。あなたがたをしいたげ、裁判所に引きずり込むのは、富んでいる者たちではないか。7:あなたがたに対して唱えられた尊い御名を汚すのは、実に彼らではないか。8:しかし、もしあなたがたが、「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」という聖書の言葉に従って、このきわめて尊い律法を守るならば、それは良いことである。9:しかし、もし分け隔てをするならば、あなたがたは罪を犯すことになり、律法によって違反者として宣告される。】
ここでも、やはり具体的な出来事が記されているようです。当時、多くのキリスト者は社会的には貧しい、困窮した状況の人たちが大半でした。まさにそれは、人ではなく主を誇り、主にのみ栄光が帰されるために、主がご計画なさったことではありました。それでも、一部の富んでいる者、この世的な権力ある人々に、多くの人が影響されることを証言しています。裁判沙汰などは、読んだ人がみんな知っている実際に起こった事実と考えられる表現です。そして、隣人愛と、差別。配慮とを、混同してはいけない、貧しい人を社会的に弱い人を低く扱い、富んでいる者この世の強者への特別扱いは、律法違反であるとまでいっています。確かに、それはイエス様が求めておられた、最も小さな者への憐み。憐れみとは、愛という意味を含む言葉です、ほぼ同じ意味で遣われていますが、隣人愛とは、全く逆の姿だと教えているのであります。
最後に10節から13節。
【10:なぜなら、律法をことごとく守ったとしても、その一つの点にでも落ち度があれば、全体を犯したことになるからである。11:たとえば、「姦淫するな」と言われたかたは、また「殺すな」とも仰せになった。そこで、たとい姦淫はしなくても、人殺しをすれば、律法の違反者になったことになる。
12:だから、自由の律法によってさばかるべき者らしく語り、かつ行いなさい。13:あわれみを行わなかった者に対しては、仮借のないさばきが下される。あわれみは、さばきにうち勝つ。】