光に歩め
7:だから、彼らの仲間になってはいけない。8:あなたがたは、以前はやみであったが、今は主にあって光となっている。光の子らしく歩きなさい―9:光はあらゆる善意と正義と真実との実を結ばせるものである―10:主に喜ばれるものがなんであるかを、わきまえ知りなさい。11:実を結ばないやみのわざに加わらないで、むしろ、それを指摘してやりなさい。12:彼らが隠れて行っていることは、口にするだけでも恥ずかしい事である。13:しかし、光にさらされる時、すべてのものは、明らかになる。14:明らかにされたものは皆、光となるのである。だから、こう書いてある、『眠っている者よ、起きなさい。死人のなかから、立ち上がりなさい。そうすれば、キリストがあなたを照すであろう』。エペソ人への手紙 5章 7節から14節
「8:あなたがたは、以前はやみであったが、今は主にあって光となっている。光の子らしく歩きなさい」
エペソ人への手紙、5章8節の御言葉でございます。本日、ここから、私たち、クリスチャンに求められている、というより、与えられて、約束されている幸いな生き方について、教えられたいと思います。
ここまで、パウロが語ってきたことは、クリスチャン。キリストの民とは、どういうものか。どのような立場で、何を持っており、どういう状態にあるか、ということを説明し、そしてどのように歩むか。生活を送るべきか、ということを教えてきました。それは2章から既に始まっています。2章では、罪に死んで、肉の欲に従っていた者を、神は憐れんで、愛して下さって、恵みによってキリスト共に生かして下さった。キリストと共に甦らせて下さった、と言っています。
三位一体の主なる神の、永遠からの救いのご計画と、その実行が私たち自身に対して、実際に行われていることを示していました。その目的は、神の恵みの絶大な富を代々に示すためであって、神の作品として、良い行いをして、日々を過ごすように、あらかじめ備えて下さっていたと、教えられます。私たちに注がれた恵みは、私たち自身の何らの功績によるものでなく、神の賜物だ。誰も自らを誇ることのないように、御栄光を神にのみ帰すように与えられた、一方的な神の恩寵であって、愛の証しだと言うことでした。更にその測り知れない絶大な神の愛は、キリスト・イエスにおいて現わされ、聖霊によって私たちをイエス様に結び付けて下さり、私たちが知ることができるようにして下さっていると言う、事実でありました。
ここに示された、まず神が私たちを愛して下っている、私たちが神に愛された者だということと、それ故、その愛に応えて生きていく、その生き方を、繰り返し表現を変えてパウロは教えています。
4章の一節では「私たちは主に召されている。だから召しにふさわしく歩きなさい」と言われました。4章17節以降では、「イエス様の真理を教えられている。だから、むなしい心で歩いてはならない。キリストにある義と聖をもって新しくされたのだから、それに従った新しい生き方をするように」教えています。前回の5章1節では「私たちは神に愛されている子供だ。だから、父なる神に倣って、キリストの愛に倣って愛の内を歩くように」と教えています。こうしてみると、教えの形、構造は基本的に同じであることが分かると思います。
それでは、本日の5章の7節から8節をもう一度お読みいたします。
「7:だから、彼らの仲間になってはいけない。8:あなたがたは、以前はやみであったが、今は主にあって光となっている。光の子らしく歩きなさい」
ここでも、同じ形でパウロの教えが集約されています。まず、この御言が命令は「歩きなさい」という言葉にかかっています。歩みすなわち生活すること。実際にこの世を生きるということであります。その生き方は、「光の子らしく」ということになります。
7節の最初では「だから、彼らの仲間になってはいけない」といっています。だから、と言う理由は、前節、6節にあります。そこでは「神の怒りは不従順の子らに下るのである」。だから不従順の子らの仲間になってはいけない、と言うことであります。もともと、全ての人間は、アダムの堕落以来、不従順な者となってしまいました。全ての人が、神の怒りが下されるべき存在であることに違いは無いのですが、神は憐みによって、その中から御子キリストの民とする者を選び分かち、永遠の救いへと定めて下さいました。
私たちは、御霊によって、心を開かれその真理を知らされて、キリストを信じる信仰を与えられて、不従順にもかかわらず、御子にあって、同じく神に子とされたのであります。御国を継ぐ、絶大な特権と恵みを賜っているのですから、いまさら更に、自ら不従順の子らの仲間になってはいけないと諭されているのであります。この「仲間になってはいけない」と言う単語は、3章の6節にも使われています。そこをお読みいたします。3章6節、303頁です。
「6)それは、異邦人が、福音によりキリスト・イエスにあって、わたしたちと共に神の国をつぐ者となり、共に一つのからだとなり、共に約束にあずかる者となることである。」
ここに書かれた「共に約束にあずかる」と言う言葉と、5章7節の「仲間になる」と言う言葉は、同じ単語が使われています。3章では良い意味で、5章では悪い意味で遣われていますが、この不従順の子らの仲間になると言うことは、神への不従順にあずかる、仕えること。具体的には、5章3節以降で言われていた、不品行や、汚れた行い。卑しい言葉、貪欲や偶像礼拝。そういった行いの、支配のもとに置かれる。入ると言うことであります。11節では「闇の業」と言っています。11節から12節をお読みいたします。
「11:実を結ばないやみのわざに加わらないで、むしろ、それを指摘してやりなさい。12:彼らが隠れて行っていることは、口にするだけでも恥ずかしい事である。」
この闇の業、不従順の支配の下にあっては、実を結ぶことがない、と言われています。神様に不従順である、ということは実を結ばない。成果がない、結果を伴わないという意味の言葉でもあります。これもまた、空しい歩みと言うことになります。ここでは、空しい闇の業に、不従順な生き方に加わるだけではなくて、それを見過ごすことも良くない、と言われています。「むしろ、それを指摘してやりなさい」と。この世は、まことに不従順に満ちており、その中に遣わされるキリストの民は、常に不従順なこの世との戦いの中に置かれています。そこで「闇の業に加わらない」ということは、これはある意味当然のように心に覚えており、意識していることです。弱い私たちは、それでも十分ではありませんが、御霊のお守りのうちに、その思いが果たされてまいります。
しかし、「指摘する」ということは、なかなか難しいことであります。反感を買うかも知れない。却って頑なにしてしまうかも知れない。自分の不利益になるかもしれない、といった様々な迷いが私たちの内に起こってきます。本当に御心は、どこにあるのだろうかと、分からないことだらけでもあります。それでも、ここでは「指摘してやりなさい」と教えられます。なぜか。それは13節から14節の前半に示されます。
「13:しかし、光にさらされる時、すべてのものは、明らかになる。14:明らかにされたものは皆、光となるのである。
光の子と言われた私たちを、イエス様はマタイ伝で、世の光と仰いました。それは、私たちが光の内に置かれているからであり、光の道を歩む、その生活において光を放っているからであります。その光を示すことで、闇の中で、不従順な業に仕えていた者も、同じく光とされるからであります。ここに、私たちの召された意味があり、果たすべき役割が教えられます。闇を光へと変えることができるのは、主の霊の御業ですが、そのお働きに用いられる器として、召されて、過分な恵みを賜り、また守られています。指摘は、言葉か、行いか、ただ主に従って生きるその姿によるのかもしれません。その闇への指摘は、神への愛に基づく、隣人への愛にから、理解と尊重をもってなされる時。私たちを通して光が放たれ、主が闇から救い出し給うのであります。
光の子らしく、光の内に歩む生活は、愛の内を歩くということ。それは主の愛に生かされていると言うことであります。
ここに、光に歩むと言うことに意味が明かされてまいります。7節で「以前は闇であったが、今は主にあって光となっている」と言われました。今、私たちはすでに光、ということです。自分のことを考えますと、恥ずかしくて、自ら自分は光だ、などということを口に出すことはできませんが、「主にあって」と言うことが、大切であります。主イエス様にあって初めて光とされるのであり、主にあるから、主が仰ったとおり、まことに私たちは世の光なのであります。
主にあって。主なる神のご本質は、聖書のあちこちで光として表されます。主による世界の創造の御業の最初は、光をお造りになったことでした。「光あれ」という御言をもって、この世に光を与えられました。芸術作品が作家の個性を表すように、被造世界は、お造りになった神様の御性質を反映します。その初めは光でありました。
さらに、私たちの救い主。イエス・キリストのご本質も光であります。ヨハネによる福音書では、イエス様が光であられる、ということを何度も教えています。第1章からもう、始まっています。
ヨハネ伝の1章4節、5節をお読みいたします。新約聖書の135頁です。
「4:この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。5:光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった」
イエス様の光によって、光がやみを打ち払うのであります。以前学びました、同じヨハネ伝の8章12節では次のように言われています。
「12:イエスは、また人々に語って言われた。わたしは世の光である。私に従って来る者は、やみの内を歩くことがなく、命の光を持つ」
イエス様ご自身が、自ら光であると宣言なさいました。そして、イエス様に「従う者」は、決して闇の内を歩くことがない、と約束して下さったのであります。ここでイエス様が言われたのは、「わたしを信じる者」ではなくて、「わたしに従う者」であります。イエス様を信じて、その教えを聞いて従う者。その歩みの内に、」イエス様に従う生活の中に、イエス様が共にいて下さり、どこにいても、いつでも光が共にあることを保証して下さった、その恵みのお約束であります。
ここで、注意しなければならないのは、ここで教えられることは、従うこと、すなわち行いによって救われるのではないと言うことです。今月の月報でも触れましたが、永遠の命に至る救いはただ、イエス様を信じる信仰によります。ヤコブの手紙1章25節で明言されたように、聞いて従う、その行いによって、私たちは祝福されるのであります。
さらに、ヨハネ伝14章6節には「わたしは道であり、真理であり、命である」という、イエス様の有名な御言があります。主にある光は、まさに私たちを天に導く道を迷いなく照らす光であり、父なる神の真理を照らし、私たちに知らしめる光であり、私たちの命を輝かせる光。一人一人の人生を、意味あるものとして、永遠の希望とともに光り輝かせて下さる、主の光であります。
エペソ5章の9節から10節に戻って、お読み致します。
「9:光はあらゆる善意と正義と真実との実を結ばせるものである―10:主に喜ばれるものがなんであるかを、わきまえ知りなさい。」
主に聞き従ううちにもたらされる光。主に従うには、主が喜ばれることを知らなければなりません。主が喜ばれる、そのような生活の中に、善意と正義と真実の実が実らされると教えられています。この「実を結ぶ」「実」単数ですから、一つの実の中に、善と義と真実が詰まっていることになります。甘くて、歯触りが良くて、香り豊かな果実と言った感じでしょうか。そのような祝福があると言うことであります。
では、主が喜ばれることとは何でしょうか。それは、主が私たちの求めておられることになります。それはすなわち、道徳律法ということになります。律法と言う元のヘブル語は、法律的な律法と言うより、「教え」という意味の方が近いです。その道徳律法、神の教えは十戒に要約され、さらにイエス様がまとめられた教えに従いますと、神を愛し、隣人を愛することであります。光の子らしく、歩むことは、神を愛し、隣人を愛する歩みと言うことになります。歩む、と言う通り、一歩ずつ前に進もうとする、心と行いでもあります。神への愛は礼拝において、隣人への愛は神の賜物の尊重として、交わりと生活のうちに表されていきます。このようなクリスチャンの生活を用いて、主がその光を世にもたらされるのであります。
そして、そこに実は、善意と正義と真実。これは主のご本質でもあります。つまり、主、イエス様に似たものとされていく祝福であります。きよめられ、成長させられることでもあります。
ですから、この世の闇と、混沌の中にあって、苦しんだり、悩み、また嘆く時。光が見えないと迷う時。私たちは、主イエス様を仰ぎ見て、再び光を与えられて、歩みだすことがかないます。
「8:あなたがたは、以前はやみであったが、今は主にあって光となっている。光の子らしく歩きなさい」
詩篇119篇で「あなたのみ言葉はわが足のともしび、わが道の光です」と歌われているように、御言葉に明かされた、イエス様のお姿と、その教えに、日々聞きつつ、イエス様の光に満たされて、従い歩む人生となさしめてくださいますよう。御霊の導きを願います。
(土井 浩 牧師)