ヨナの祈り
『1:ヨナは魚の腹の中からその神、主に祈って、2:言った、
「わたしは悩みのうちから主に呼ばわると、主はわたしに答えられた。わたしが陰府の腹の中から叫ぶと、あなたはわたしの声を聞かれた。
3:あなたはわたしを淵の中、海のまん中に投げ入れられた。大水はわたしをめぐり、あなたの波と大波は皆、わたしの上を越えて行った。
4:わたしは言った、「わたしはあなたの前から追われてしまった、どうして再びあなたの聖なる宮を望みえようか」。
5:水がわたしをめぐって魂にまでおよび、淵はわたしを取り囲み、海草は山の根元でわたしの頭にまといついた。
6:わたしは地に下り、地の貫の木はいつもわたしの上にあった。しかしわが神、主よ、あなたはわが命を穴から救いあげられた。
7:わが魂がわたしのうちに弱っているとき、わたしは主をおぼえ、わたしの祈はあなたに至り、あなたの聖なる宮に達した。
8:むなしい偶像に心を寄せる者は、そのまことの忠節を捨てる。
9:しかしわたしは感謝の声をもって、あなたに犠牲をささげ、わたしの誓いをはたす。救は主にある」。
10:主は魚にお命じになったので、魚はヨナを陸に吐き出した。』ヨナ書 2章 1節から10節
「わたしは悩みのうちから主に呼ばわると、主はわたしに答えられた。わたしが陰府の腹の中から叫ぶと、あなたはわたしの声を聞かれた。」
ヨナ書2章2節の御言葉です。紀元前8世紀、ガリラヤ出身の預言者ヨナは、イスラエルの敵アッスリヤの首都、ニネベに行って、神の言葉を伝えるように、主の命を受けました。しかし、これを嫌ったヨナは、主の命に背き、逃れようとして、スペインのタルシシに向かう船に乗りました。しかし、主はこれを見過ごされず、暴風をもって行く手を遮られました。船が沈もうかという時、ヨナはこの嵐が主に背いた自分が原因であることを告げ、自分を海へ投げ入れるよう水夫たちに言います。
水夫たちは、自力で何とか陸に向かおうとしますが、どうにもならず、結局ヨナが言った通り、ヨナを荒れた海に投げ入れました。ここで、彼らは、それぞれの神ではなく、「主」の御名を呼ばわって、「そうすることが主の御心に従ってすることです」と告白し、自らに裁きが及ばないよう願います。
これに対して、主は二つ御業をお示しになります。一つは、海が静まり、船は難破を逃れます。これによって、水夫らは主を恐れ、生贄を捧げ、誓願を立てるというまでに至ります。そして、海に投げ入れられたヨナに対しては、備えておられた大きな魚によって、彼を飲み込ませ、その腹の中に保護し、ヨナの命を守られたわけであります。
本日の2章の御言葉は、この大きな魚のお腹の中で祈った、ヨナの祈りが記されています。ここから聞いてまいりますが、このヨナの祈りは、文章としては聖書をご覧のとおり、かっこ内に一段下げて、並列に記載されています。これは、韻律詩というヘブル語の詩の形をとっています。詩篇などと同じ、讃美の歌です。これを念頭に、ヨナの祈りに聞いてまいりたいと思います。まず1節から2節。
『1:ヨナは魚の腹の中からその神、主に祈って、2:言った、「わたしは悩みのうちから主に呼ばわると、主はわたしに答えられた。わたしが陰府の腹の中から叫ぶと、あなたはわたしの声を聞かれた。」』
まず、ヨナの祈りの最初の部分、2節。ここは、この讃美の祈りの表題のようで、祈り全体のまとめとも言えます。「悩みの内から主に呼ばわる」。悩みは、「苦しみ」という意味でもあります。呼ばわるというのは、以前申し上げましたように、「叫ぶ」また「助けを求めて叫ぶ」という意味です。ですから、「悩み苦しみの中で、主に助けを求めて叫んだら、主が答えて下さった」。腹の中、というのは魚の腹と掛けていますが、黄泉は、死者のいるところ、まさに死に瀕している、そのような危機的状況から、呼ばわった声を主が聞いて下さった、という経験と確信からくる讃美であります。
すなわち、この祈りは、主が祈りを聞き給う方、実際に救いをもたらすお方であることへの、感謝の祈りであることが示されています。そのため自然と讃美の形を取っていることも分かります。
続いて、主が祈りを聞かれ、救って下さった具体的な状況をヨナは告白していきます。3節から4節。
『「3:あなたはわたしを淵の中、海のまん中に投げ入れられた。大水はわたしをめぐり、あなたの波と大波は皆、わたしの上を越えて行った。」
4:わたしは言った、「わたしはあなたの前から追われてしまった、どうして再びあなたの聖なる宮を望みえようか」。』
3節冒頭、「あなたは」と言っています。荒れた海の真ん中に投げ入れたのは、船の水夫たちでしたが、それは「あなた」、「主」の御心であり、主がなさったことだということです、それをヨナは悟っています。荒れた海を鎮めるためにどうしようか尋ねられた時、1章12節でヨナが「わたしを取って海に投げ入れなさい。そうすれば海はあなた方のために静まるでしょう」と、はっきり答えました。出てきた港に連れ戻せではなく、海へ投げ入れなさいという提案でしたが、これがヨナの考えではなく、預言者であるヨナに示された、主の御心であったことが明かされています。ですから、水夫たちがヨナを投げ入れる前に「これが、主の御心に従ってなされたことだから」と主に向けって叫んだ意味が明らかになります。
淵の中、海の真ん中の深いところに投げ入れられて、ヨナは大波に飲み込まれていきます。これは、もう絶望的な命の危機ですが、そこでヨナが言ったことは、大水の恐ろしさではなく。4節にあるように「あなたの前から追われてしまった」という、主のみ前から遠ざけられ、つながりを絶たれることの不安を強調しています。肉体の死より、主の前を追われることへの恐れを告白しています。自分が主の命に背いたことが招いた結果であることを自覚し、懺悔しながら、やはり主の前から追われることは、肉だけでなく魂の死をもたらす恐ろしさであるということを、ヨナは知っていました。
4節で、「どうして再びあなたの聖なる宮を望みえようか」
と言っていますが、これは逆説的な表現になっています。主の命に背き、主の前を追われた私が、再び聖なる宮、主のおられる天を仰ぎ見る、仰ぎ望むことができるだろうか。「いや、それでも私はあなたの宮を望み見たいのです」という意味に訳すことができます。罪を認めつつ、なお主を仰ぎ求めたいという、心からの、隠し事も虚栄もない、幼子のような素直な気持ちを告白しています。
さらに、ヨナの告白は続きます。自ら招いた、絶望的な危機、その経験を思い起こして語っています。5節から6節前半をお読みします。
「5:水がわたしをめぐって魂にまでおよび、淵はわたしを取り囲み、海草は山の根元でわたしの頭にまといついた。 6:わたしは地に下り、地の貫の木はいつもわたしの上にあった。」
荒れた海の真ん中に投げ込まれ、深く沈み、水に取り囲まれて、水が魂にまでおよんだ。もう死の間際まで追いつめられた。海藻が頭にまとわりついたという、生々しい経験です。「山の根元」という言葉は、6節に入れて訳されることが多いようです。詩文の翻訳の難しいところですが、「山の根元まで、地の底に下った。」という意味になります。外的には、海の底まで、魂は地の下、黄泉にまで送られ、その貫の木、つまりカンヌキが掛けられて、もう戻りようがない、逃れられない状況を表しています。
そのような状況から、「しかし」と続きます。6節後半から7節。
「6b:しかしわが神、主よ、あなたはわが命を穴から救いあげられた。7:わが魂がわたしのうちに弱っているとき、わたしは主をおぼえ、わたしの祈はあなたに至り、あなたの聖なる宮に達した。」
普通に考えたら、もう絶対助からないような事態。物理的な苦境のうえに、さらにその原因が、主に背いて主の前を追われた、と思われる状況。助かりようがない状態。しかし、何と主は、そこからでも救い上げてくださった。この命を自分では抜け出しようのない深い穴から、引き上げて下さった、なんということか、という驚きと感謝です。
わたしの魂が弱っている。ただ弱っているだけではなくて、」弱り切って、衰えて果てて、尽きようとしている、そこまで追いつめられた状況だったということを言っています。その、もう魂の、命の尽きようとしている時、「主を覚えた」とヨナは告白しました。文語では「主をおもへり」。新改訳では「主を思い出しました」と訳しています。本当の危機に瀕したとき、死に向き合った時、ヨナの心に浮かんだのは主ご自身であったということです。主の御業、主の恵みではなく主ご自身が思いだされた。そして、私の祈りは天に達し、主に届いた。だからこそ、大いなる魚を遣わして、飲み込ませ、その腹の中に取り込まれるという、奇跡を成して下さった。あなたに背いたものを、救って下さった。という感謝の告白であります。どのように祈ったか、祈る余裕があったのか分かりませんが、その魂の危機に主を思い起こした時、たとえ形として、整った祈りでなくても、その魂の願いは御霊が探り出し、天に届けて下さるのであります。ヨナはこれを経験し、また実際に救い出して下さる主の御力を改めて覚え、確信と覚悟を定めていきます。それは、主に従う、ということでありました。
8節以降をお読みいたします
『「8:むなしい偶像に心を寄せる者は、そのまことの忠節を捨てる。9:しかしわたしは感謝の声をもって、あなたに犠牲をささげ、わたしの誓いをはたす。救は主にある」。10:主は魚にお命じになったので、魚はヨナを陸に吐き出した。』
9節で、ヨナは「感謝の声をもって」「犠牲を捧げ」「誓いを果たします」と主の命に従うことを、祈りにおいて明言しました。「救いは主にある」と、はっきりと主を讃美して祈りを終えています。「救いは主のもの」とも詩篇121篇のように「救いは主からくる」とも読めます。讃美詩篇のように、簡潔な頌栄をもって祈りを締めくくりました。このヨナの祈りと言うより、感謝の讃美と、罪の自覚と、死の淵での主への思い。地の底から救い出して下さった主への信頼が告白された時、主は魚に命じて、ヨナを陸に吐き出させられました。主の御心、ニネベ宣教のための召命でしたが、これに従い、全うする準備がヨナに整ったことを認められたのであります。
この大変な御用に対し、ヨナがこれを果たすことができるように、ひとたびは背を向けたヨナを御手の内にとらえ、特別なお計らいによって、主に従う者とされた出来事でありました。
8節に述べられた、偶像に心を寄せるものの不義は、ヨナにとっては、自らが主なる神に感謝し平伏して聞き従うことに対する、対比として述べられています。この8節自体は,正しいことではありますが、実は、ヨナは自らの言葉の持つ意味と、主の御心を本当にはまだ理解できていなかったことが、後々分かってきます。ヨナは主により頼みましたが、まだ悟りは不充分なままでした。しかし、主はそのままにヨナをお用いになるため、救われ、遣わされたのということです・
ここまで、海に投げ入れられ、沈み、魚に飲み込まれて3日の間、その腹の中にいました。いつ自分の状況に気づき、また理解したかは分かりませんが、その中で主の恵みと御力を悟り、従順に至る時間を備えられました。ヨナによる讃美ともいえる祈りは、必死の叫びを聞いて下さった主への讃美に始まり、肉体と魂の瀕死の状況、絶望的な状況と、それを生んだ自らの背きを告白し、さらにそこから主が救い出して下さったことを感謝し、主の御心に従う決意を告白しています。
このヨナの祈りにおいて、祈りとは何であるか、ということも教えられています。現在、祈祷会ではウェストミンスター小教理問答を順に学んできています。先週は、第103問の主の祈りの中の、第3の祈願である「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」を学びました。その小教理問答の98問では、「祈りとは何であるか」という問いに対して、次のような答えが聖書から導かれています。すなわち、
「祈りとは、キリストの御名において、神の御心にかなうことのために、私たちの罪の懺悔と、感謝に満ちた告白とともに、私たちの願いを神に捧げることである。」
つまり祈りとは、私たちの願いを「神に」、真実、叶えることのできる唯一のお方に捧げること。その目的は「御心にかなうこと」で、条件は「キリストの御名において」祈ること。主を信じる信仰によるということです。そして、祈りに求められる事は、「罪の懺悔と」「感謝の告白」とともに、ということであります。それぞれ細かく聞いてきますと長くなるのですが、このヨナの祈りをみますと、祈りの本質が、全てその中に含まれていることが分かります。残念ながら、ヨナにはまだキリストの御名、イエス様はまだ明かされていませんでしたが、主なる神への全き信仰は表されています。
信仰をもって、罪の自覚と、救いの恵みへの感謝をもって、御心が成るように、御心に適うように、祈る、主の御名によって。主なる神に願いを捧げる。ヨナはこの祈りを、嵐の海で飲み込まれた魚の腹の中で祈りました。そして、その祈りは天に届き、主が聞いて下さった。この事は、私たちに大きな希望を与えてくれます。私たちもまた、取り囲む状況がどんなに困難で、どうしようもない時でも。自分の罪、弱さを覚えて、情けない時であっても、主なる神様に祈ることができる。また祈ることが大切であることが教えられます。どんな時でも、主に祈るということは、御前に心が低くされている、謙虚にせられていることの証拠であります。
私たちは、自分の我意と言いますか、様々な思いや感情に左右され、また妨げられて、素直に祈れない、ということがあると思います。しかし主の恵みと助けは、低いところへ、水が下へ下へと流れるように、低き魂へと注ぎ込まれるのであります。砕けた心を主は憐れんで下さいます。ヨナのように、本当の絶望的な危険の中で、魂の奥から主を思い出し、より頼むことができるよう、私たちは弱いですが、主が捉えていて下さり、そのようにして下さるという確信を、日々御言葉を通して与えられたいと思います。
イエス様ご自身も、ことあるごとに祈っておられました。ペテロやパウロも迫害に中で、牢獄で祈り、人々の中で祈り、使徒たちも集っては毎日熱心に祈っていました。私たち自身のために。兄弟姉妹のために。伝道のため、教会や奉仕者のために。また世の王や施政者のために。いまだ召されぬ主の民のために。この祈りは、私たちキリスト者だけにできる、主に託された大切な使命であります。また祈りのうちにこそ、三位一体の主なる神様との交わりが保たれ、私たちをイエス様の贖いの恵みへと結び付けて下さるのであります。
ヨナの祈りに励まされ、実際、ヨナが嵐の海から陸地に吐き出され、ニネベ宣教に向かったように。主の御心は必ずなることを覚えて、日々の信仰生活が祈りを通して豊かに導かれることを願います。