喜ばれる捧げもの
1:こうして、あなたがたは、神に愛されている子供として、神にならう者になりなさい。2:また愛のうちを歩きなさい。キリストもあなたがたを愛して下さって、わたしたちのために、ご自身を、神へのかんばしいかおりのささげ物、また、いけにえとしてささげられたのである。3:また、不品行といろいろな汚れや貪欲などを、聖徒にふさわしく、あなたがたの間では、口にすることさえしてはならない。4:また、卑しい言葉と愚かな話やみだらな冗談を避けなさい。これらは、よろしくない事である。それよりは、むしろ感謝をささげなさい。5:あなたがたは、よく知っておかねばならない。すべて不品行な者、汚れたことをする者、貪欲な者、すなわち、偶像を礼拝する者は、キリストと神との国をつぐことができない。6:あなたがたは、だれにも不誠実な言葉でだまされてはいけない。これらのことから、神の怒りは不従順の子らに下るのである。エペソ人への手紙 5章 1節から6節
「1:こうして、あなたがたは、神に愛されている子供として、神にならう者になりなさい。
2:また愛のうちを歩きなさい。キリストもあなたがたを愛して下さって、わたしたちのために、ご自身を、神へのかんばしいかおりのささげ物、また、いけにえとしてささげられたのである。」
エペソ人への手紙、5章1節と2節の御言葉です。最初に「神に愛されている子供として、神にならう者となりなさい。」と教えられています。神様に愛されている、というのは幸いなことですが、「神ならう者になる」というのは、いきなりとんでもなく大きな目標を与えられたような気になります。決して届かない、はるかかなたの到達点を示されると、人間は意欲を低下させてしまいます。しかし、パウロはここで、かなりハードルを下げて、それでも届きはしないですけれども、ゴールが見えていると、そこを目指すことはかなうのが道理であります。
まず、5章1節では「こうして」と言う言葉から始まります。「ですから」と言う意味でもあります。これは、4章の32節で「神がキリストにあってあなたがたを赦して下さったように、あなた方も互いにゆるし合いなさい」という言葉を受けて、神がキリストにあって私たちを赦して下さった。だから、「神に愛されている子供として、神にならう者になりなさい」と教えています。赦すということにおいて、最もあわれみに満ちた、大いなる御業としての、キリストによる神の赦しと、そこに示される神の愛を述べています。それにならうべき。と言うことは、全宇宙の創り主、全能の主なる神様にならう、と言うのではなく、その神様が私たちに示して下さった赦し。愛に倣え、ということであります。
まず、神が愛して下さった。私たちは神に愛されている神の子供だ、いうことであります。子供は親に倣います。人間の場合、どんな親にでも倣うかと言うと、そうではないです。子供の反抗期もあれば、親を反面教師とするということもあります。逆に悪い影響を受けることもあります。しかし、愛されて、それを感じて、大好きな親を見て、子供は真似をします。
うちは子供がいないのですが、甥や姪が大勢いまして、割と仲良くしてくれます。特に、最初に私になついてくれたのは、妻の甥っ子でした。妻の姉の子供で、まだ2歳くらいの頃だったと思います。三人兄弟の末の男の子で、上二人は女の子でした。私がやってきて、まだ幼くて、何を話しているのか言葉は分かりませんが、適当に相槌を打って、相手をしていますと、甥っ子は家族中で一番ちびっこだった自分に、大きな後輩ができたように思ったのか、びっくりするほど懐いてくれました。もしかしたら私の親以上私を愛してくれたかもしれません。ある日、みんなで外で食事をする際に、彼は家族から離れて、指定席のように私の横に座ります。注文を聞かれると、私と同じもの、と答えるんです。私はカレーうどんを頼んでいましたので、熱いし辛いから無理やろうと。子供用のメニューもありましたが、同じものがいいと譲りません。結局、カレーうどんが運ばれてきて、嬉しそうに食べようとしましたが、案の定、辛くて食べられません。結局、うどんをコップの水につけて、カレーを落として食べだしました。周りから、カレーうどんの意味ない、と言われましたが、本人はそれなりに満足だったようです。そこまでされたらやっぱり可愛くて仕方なくなります。
子供は好きになると、真似ようとするものです。正義の味方のなんとか戦隊とか、アニメやゲームとか、タレントやスポーツ選手もそうです。そのようにパウロは、私たちも神に愛されている子供なんだから、父なる神様の、愛を真似よと言われているわけです。「ならう者に」という言葉は、まさに、似せる、模倣すると言う言葉ですから、限りなく本物に近づけるという意味です。パウロのこの教えの元をたどってみましょう。新約聖書94頁、ルカによる福音書6章36節からお読みいたします。
「36:あなた方の父なる神が慈悲深いように、あなた方も慈悲深いものとなれ」
これはイエス様による教えであります。この後は裁くな、裁かれないためにと続き、ゆるしてやれ、そうすれば自分も赦される。与えよ、そうすれば与え。れる、と続きます、ここは、マタイ伝の山上の垂訓と対比させて、平地の説教と呼ばれる、有名なイエス様の説教です。パウロが、イエス様が命じられたことを守るように、人々を教えていることが分かります。
さらにパウロは続けます。第2節。
「2:また愛のうちを歩きなさい。キリストもあなたがたを愛して下さって、わたしたちのために、ご自身を、神へのかんばしいかおりのささげ物、また、いけにえとしてささげられたのである。」
愛に内に歩きなさい。神の愛にならう者は、愛の内に歩む者であるべきだと言うことです。なぜなら、父なる神のみならず、御子キリストも私たちを愛して下さっているからであります。その中歩むべき「愛」は、この世の人間の愛情ではありません。αγαπη。すなわち神の愛、キリストの愛であって、神の愛を受けて、その愛にお応えする私たちの愛のことです。ここで、倣うべき愛の姿が一層明確に、具体的に示されます。すでに、私たちの御霊が明かして下さった、救い主イエス・キリストのお姿です。パウロの言葉を聞いていた人たちには、一層身近なものとして、つい最近の出来事としてリアルに受け止められたはずです。目の前に、こんなに完全な、最もふさわしいお手本があるではないか、ということであります。
キリストは私たちを愛し、私たちのためにご自身を捧げられました。単に「ささげ物」と言った場合は、非常に広い意味をもちます。「生け贄として」言われるように、生贄の場合は、血を伴い、多くの場合は、いわゆる身代わり。代償行為であります。主なる神への献身や忠誠を示すもの。神との交わりを回復、和解するためにもの。日常における罪と汚れを清めるためのにもの。実際に犯した聖なるものへの違反行為が許されるため、などが定められていました。事実、キリストの血は救われるべき全ての人類のために流された、代償であって身代わりでありました。
同時に、ここでの捧げものは、もう一つの意味があると考えられます。それは感謝の捧げものです。これは、素祭とか、穀物の捧げものと言われるものです。ユダヤの儀式においては、神への献身を示す、燔祭。全焼の生贄に添えて捧げられることが多いのですが、この捧げものは、神の恵みの告白と言う意味を持ちます。収穫の感謝を表して、捧げられる物ですが、それは全ての賜物は、主が恵みによって与えて下さった事を告白し、感謝を表すものでした。執業の土地、天候、働き、そして実り。それら全て、主の御手によらなければ、私たちは何も得られず、全ての努力は空しい。私たちは主の恵みの内に生かされている。恵の契約の下においていただいているという、そのことを知っています。感謝します。そこから離れませんと言うことを表す捧げものであります。これは全ての栄光を主に帰す、と言うことでもあります。
従って、キリストは私たちのための生贄となられ、また、恵みの契約への感謝の捧げものとなって下さった、と言うことが表されています。私たちが払えない代償をキリストが払って下さった。私たちが表し切れない感謝を示して下さった。ここにキリストの愛が示されます。ですから、第4節では、御心に適わないこと。それは神が喜ばれない事ですが、そのようなことをせずに、むしろ感謝を捧げなさい、と教えられています。
キリストが捧げて下さったものは、本来私たちが捧げるものでありました。私たちにはできませんでしたけれども。ですから、実際にそれを成して下さった、キリストに見倣え、ということが言われているわけであります。スポーツが上達したいものは、良い選手を見習います。絵が上手くなりたい者は良い絵を見なければなりません。同様に、もっと赦したいなら、最も寛大な赦しに学び、さらに愛を深めたいなら、最も深く大きな究極の愛を知らなければなりません。私たちの、大きな幸いの一つは、それが既に御言葉を通して、御霊によって、教えられている点にあります。まさに、イエス様のみ足跡を辿る、その歩みであります。主なる神が喜ばれる、祝福される生活が教えられています。
真の神を知らず、また知ろうとしない罪の世にあっては、人々はこれを求めて、見つけることができず、不完全なもの、自分で勝手に想像したもの、身近なもので紛らわしているにすぎません。そこには、変わらない真理と、消えることのない永遠の希望と、どんな時にも備えられる平安はありません。3節以降をお読みいたします。
「3:また、不品行といろいろな汚れや貪欲などを、聖徒にふさわしく、あなたがたの間では、口にすることさえしてはならない。4:また、卑しい言葉と愚かな話やみだらな冗談を避けなさい。これらは、よろしくない事である。それよりは、むしろ感謝をささげなさい。5:あなたがたは、よく知っておかねばならない。すべて不品行な者、汚れたことをする者、貪欲な者、すなわち、偶像を礼拝する者は、キリストと神との国をつぐことができない。」
ここでは、キリストの体として、新しくつくり直された、キリストの民に対する注意事項が述べらています。それはまず「不品行」と、「汚れたこと」と、「貪欲」ということが、繰り返されています。戒めが強調されていることがわかります。「口にする」という単語は本来「名を呼ぶ」とか「名を称える」と言う意味ですから、実際に行うことは当然ながら、「口にすることさえするな」まさにその通りです。ここでは、特に二つの点が強調されます。不品行は淫行とも姦淫とも訳せる言葉です。これと汚れは、どちらも聖潔を求める、第七戒の教えになります。事実、当時の異邦人社会。時にギリシャ文化の元では、性的な放縦が、蔓延しており、不品行が不品行となり得ない、そのようなことがごく普通の世の中であったことが分かっています。貪欲は、この世の富に執着し、欲望に支配されること。第十戒の戒めであす。そして欲に仕えて神に仕えない、これはまことの神を神としない偶像礼拝であり、第一戒違反に繋がる重大な罪であすけれども、このような姿もまた、世にあふれていたことを示しています。
その証拠に、実は第5節で「あなた方は、良く知っておかなければならない」と言われている、訳は、意味は通りますが誤訳で、正しくは「あなた方が、良く知っている通り」となります。つまり、当時の教会の人々が、普通に目にして誰もがよく言っているような、乱れた世の中であって、それは、主なる神の御心に適うものでは決してないと言うことであります。そして実際、コロサイの教会の中では、これらにかかわる問題が発生していました。
翻って、現代の私たちをとりまく状況はどうでしょうか。世界の富は、ごく一部に集中し、多くの人は困窮し、人々は経済的成功を収めようと、やっきになっています。性的にも、解放と言えば聞こえはいいですが、放縦であり、まさに好き勝手な状態です。少し昔、不倫は文化とか仰っていた方もいました。LGBT問題も軽々には語れませんが、差別反対と言われて、差別はしませんが、本来LGとBとTはそれぞれ別の問題のはずです。それを一緒にして性的嗜好と言ってしまえば、嗜好品の嗜好ですから。性的な問題は、聖別され、聖潔によって祝福とされる、大切な問題であります。これを嗜好と言ってしまえば、個人の自由としては、一線を超えると言うことになってしまいます。
このように、私たちも、この世に遣わされ、この世の交わりを持つことが求められます。それは、この世において、キリストの証人として遣わされているからであります。それでも、弱く罪多い私たちは、この世の大きな流れの中に飲み込まれ、無理解や衝突を畏れ、一旦脱ぎ捨てた古き人を、新しい着物の上に羽織りがちであります。これを神様は喜ばれません。私たちは、まことの神様によって聖別された者として、この世の放縦との間に一線を画すことが求められています。それはこの世から逃げ出すことではなく、また調子をあわせて、みだらな冗談や穢れや貪欲を口にせず、益となる、人の徳を高めるのに役立つように心がけることであります。
そのために、キリストが私たちへの愛をもって、自らを捧げられように、私たちも神の恵み。この世の賜物、すなわち環境、能力、努力、成果の全てが主の憐みと御節理の元にあるという、恵みを告白し、感謝を捧げることが求められます。
ローマ人への手紙12章1節の有名なみ言葉に聞きたいと思います。新約聖書249頁。12章1節後半から。
「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなた方のなすべき霊的な礼拝である。」
わたしたちを捧げることが命じられます。さらに、主が喜ばれる捧げものは、生け贄よりも「聞き従うこと」だとサムエルは言いました。日々、御言葉に聞いて、導かれ、支えられて従って、初めて適うところの、生きる姿であり、それは人生というものが、真の神に聞き従う、礼拝に外ならないことを教えています。そして、これはコリント人への第一の手紙に10章31節に示された、「飲むにも食べるにも、また何事をするにもすべて神の栄光のために」という、私たちが主に召され、生を受けた、この人生。その究極の変わらぬ目的へと、私たちを導くのであります。ここに人生の目的を満たす幸いと祝福が用意されています。
どうか、この世の誘惑と混乱の中にあって、イエス様が示して下さった愛に感謝し、御足跡を辿って、愛の内に歩ませてください。あなたのみ教えに、少しでも聞き従うことができますように。一人一人の人生をもって、主の御栄光が表されますように。尊き救い主イエス様の御名によってお祈りいたします。