★【 9:すべての人を照すまことの光があって、世にきた。10:彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。】
ヨハネによる福音書1章9節10節の御言葉です。今朝はクリスマス記念礼拝ということで、クリスマスとは何か、ということを聖書から教えられたいと願っています。ここで、それは「まことの光が世に来たことだ」と述べられています。真に簡潔ですが、非常に含蓄のある定義であり、教えであります。
ヨハネの福音書は、4つの福音書の中で最後に書かれたもので、第4福音書とも言われております。この福音書が書かれた、目的は、以前にも聞きましたように20章31節に、ヨハネ自身がはっきりと記しています。次のような内容です「これらのことを書いたのは、あなたがたがイエスは神の子キリストであると信じるためであり、また、そう信じて、イエスの名によって命を得るためである。」
この一文で三つのことが言われています。まず、第一に「イエスが神の子キリストであること」。次に「私たちがそれを信じるため」。そして「信じることで私たちは命を得る」ために書いた、ということです。この命は、天国に約束された永遠の命であり、それはまたこの世においても、回復された神との交わりによってもたらされる、本来の命の意味、幸いな人生という恵みをもたらしてくれます。ただ、ヨハネが第一に伝えたかったこと、御言葉の第一は、イエス様がキリストでる「神なる救い主である」という点になります。この第4福音書は、最後に書かれ、マタイ、マルコ、ルカの3つの共観福音書を補完する意味もありました。
福音書は全て、救い主イエス・キリストを証しするものですが、それぞれに主な目的と特徴があります。これを端的表しますと、まずマタイ伝は、主にユダヤ人向けに書かれています。旧約聖書の引用も最も多く、イエス様については「預言が成就した」という形で述べられます。聖書に予言されたまことの王という表現が中心です。マルコの福音書は、ローマで書かれ、ローマ向けと言われます。これは、聖書や唯一のまことの神について、律法も知らない異邦人、異教徒に対する伝道のために、神の子イエスを証しする内容で書かれています。ですから、イエス様の御業、様々な行いが、短く、数多く記されていきます。ルカ伝は、ギリシャ語圏向けに書かれ、イエス様が人となられた、と言ことを証して行きます。当時の歴史や社会的背景が記録され、現実にこの歴史上に、神が人となってこられたことが強調されます。
ヨハネの福音書はと言いますと、イエス様は「神なる救い主」ということが中心です。共観福音書を補完するという意味と、当時の教会を混乱させていたグノーシス主義への対策から、その内容はさらに神学的で、伝道向きというより、信徒に向けて書かれているということが言えると思います。ですから、その書き出しについても、他の福音書とは趣が違っていることが分かると思います。共感福音書が出来事を記しているのに対し、ヨハネの福音書は、意味を述べる、説明し、宣言する形となっています。福音書前半では7つの奇跡を記し、それらに関するイエス様の教えを配置して、イエス様がどのような方であるかを説明しようとしています。そこでは、イエス様は救い主であって、この方はまことの神であった、ということを明かしています。
イエス様はご自身を、様々な形や譬えで表されますが、その表現は「わたしは○○である」という言い方で、ギリシャ語で「エゴ―エイミ」。つまり、出エジプト記で、主なる神が、ご自身で名乗られたお名前、恵みの契約名である「あってあるもの」という御名と同じ言葉でした。
さて、では9節の「この世に来られたまことの光」とは、何であったか、どのような方かを聞いて参りたいと思います。これについては、1章1節から4節までをお読みします。
【1:初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。2:この言は初めに神と共にあった。3:すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。4:この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。5:光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。】
「初めに言があった」という、有名な書き出しは、様々な解釈と興味を引き出しました。言の原語はご存じのように「ロゴス」ですが、最初に日本語に訳されたときは、「初めに賢きものおわし」と、賢き者と訳されました、ある人は「業」がふさわしいと思う、言う人もいます。しかし、多くの人が研究を重ねやはり、この「言」という訳が最もふさわしく、意味するところを表していると考えられています。NIVの英訳でも「In the beginning was the Word,」と「ワード」=言葉と取っています。
この言葉は神であった。人の言葉は、少し乱暴に言いますと記号であって、音と形と概念ということになりますが、神の言葉は、これは神様の啓示であって、ご計画・御心の表れであります。そしてこの言葉は記号ではなく、現実であります。神の言葉はそのまま現実であって、実現する、実際に起こる出来事で言えます。この神の御心の表れが、初めにあった。「初めに」という書き出しと、その後の光と闇による表現は、創世記の世界創造と対比させています。マタイやルカが、イエス様ご誕生の経緯から書き始め、マルコはヨハネの予言と働きから始めたのに対し、ヨハネはイエス様のご誕生を、創造の初めまでさかのぼって、その意味を知らせようとしています。
主なる神が約束され預言され、降誕された救い主イエス様は、世界創造の前から神と共におられた、神ご自身であることが教えられています。「初めにあった」とう言葉は、完了形ですので、世界創造の時、初めの時には既に、いらっしゃった。つまり永遠のご存在であることを表します。しかも、全ての者はこれによってできたというように、この言は、全てをお造りになった。創造主であるということです。さらに、創り主なる言は「神と共に」おられたとあります。ここに、三位一体の神の、第一位格なる父と、第二位格なる御子の存在が、はっきりと区別され、同時に一体でいらっしゃることが明確に表されています。
この、主なる神と、永遠のはじめから共におられ、宇宙の全てをお造りになった方は、命であられ、人の光であったということです。ヨハネ伝では、何度も光と命と恵みあるいは信仰と、闇と死と罪が象徴的に対比させて語られます。闇の中でこの光は、闇を照らし打ち払い、闇はこれに勝たなかった。「勝たなかった」という言葉は「悟らなかった」「理解できなかった」という意味もあります。これを知ると、後も10節11節とのつながりがより強く見えてきます。
初めから神と共にあった言。この方は、神であって命であって私たちの光であった。この光なる方が、この世に来ようとされていた。これが意味するところは、神のご計画、御心は、初めから。永遠から一貫して、私たちを命に導こうとして下さっているところにあったということであります。そしてそのために、光なる言を遣わそうときめておられた。それは、神ご自身であり、神の一人子であられました。
そして9節、この方は、実際に、この世にきて下さったのであります。9節から10節をお読みします。
【 9:すべての人を照すまことの光があって、世にきた。10:彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。11:彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった。12:しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。13:それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生れたのである。】
言は現実となりました。その光を、言なる御子を受け入れた者。御名それは、「主は救い主」という意味のイエス様のお名前です、イエス様の御名をそのままに信じたものを、神の子として下さるという、恩寵であり、恵みの約束が実現いたしました。これがクリスマスの意味であります。こみの子とされるということの中には、神のものとされる捧げものとして、傷もシミもない聖別されたものであったということです。実際には、傷だらけで汚れまくっているのですが、イエス様の流された血によって、この方を信じる信仰を与えられて神の子とされ、永遠に神の国を継ぐ者として、神との交わりに入れられる幸いであります。永遠からまことの光であられたイエス様が、現実の世に来てくださることで、信じる者がたまえ割る恵みもまた確実であることを、明らかされたのであります。
10節11節は、現実となった救いの御業、救い主なる神の御子のご降誕を受け入れるものは多くなかったことが記されています、これも、先週イザヤ書で「誰が信じ得たか」と預言されていた御言とおり、でありました。13節の「それらの人」。イエス・キリストを信じた人々は、民族や、努力や知恵という人の要素ではなく、ただ神によって生まれた。すなわち、主が約束して遣わしてくださった聖霊によって、信仰を与えられ、新しく生まれさせて下さった、新生されたということであります。 14節以降。
【14:そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。】
この神なる言、命であり光である、神の一人子が、私たちと同じ肉体をもって、人となられた、私たちの救のためにとられた二性一人格の御姿が示されます。至高のご存在のヘリ下りと、そこに恵みとまことが満ちていることが教えられました。この恵みは、16節
【16:わたしたちすべての者は、その満ち満ちているものの中から受けて、めぐみにめぐみを加えられた。17:律法はモーセをとおして与えられ、めぐみとまこととは、イエス・キリストをとおしてきたのである。18:神を見た者はまだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、神をあらわしたのである。】
キリストには、恵みが満ち満ちています。無尽蔵の富とも言われました。私たちは、キリストに繋がっていることで、恵みに恵みを加えられた、とあるように、常に恵みが補給されつづけるのです。私たち自身からは、常に、さまざまな汚れたもの。罪の種が生み出されますから、御言葉と、礼典と、祈りを通して、御霊によってキリストの恵みが、注ぎこまれるのであります。
この世においても、また天国においても変わらない永遠の恵みと命が、神の御子、まことの光であり命であるイエス様が、この地上に降りてきてくださり、私たちをとらえて下さいました。このクリスマスの実現に感謝し、この後、御霊が共にいて下さることに思いを寄せ、共に聖餐に与る幸いをおぼえましょう。
(6節と、15節でバプテスマのヨハネの記載があり、これも大切な部分ですが本日は時間関係で、省力させていただきました。またの機会にじっくり味わいたいと思います)