御手はどこまでも
『11:人々は彼に言った、「われわれのために海が静まるには、あなたをどうしたらよかろうか」。それは海がますます荒れてきたからである。
12:ヨナは彼らに言った、「わたしを取って海に投げ入れなさい。そうしたら海は、あなたがたのために静まるでしょう。わたしにはよくわかっています。この激しい暴風があなたがたに臨んだのは、わたしのせいです」。
13:しかし人々は船を陸にこぎもどそうとつとめたが、成功しなかった。それは海が彼らに逆らって、いよいよ荒れたからである。
14:そこで人々は主に呼ばわって言った、「主よ、どうぞ、この人の生命のために、われわれを滅ぼさないでください。また罪なき血を、われわれに帰しないでください。主よ、これはみ心に従って、なされた事だからです」。
15:そして彼らはヨナを取って海に投げ入れた。すると海の荒れるのがやんだ。16:そこで人々は大いに主を恐れ、犠牲を主にささげて、誓願を立てた。
17:主は大いなる魚を備えて、ヨナをのませられた。ヨナは三日三夜その魚の腹の中にいた。』ヨナ書 1章 1節から17節
「15:そして彼らはヨナを取って海に投げ入れた。すると海の荒れるのがやんだ。16:そこで人々は大い に主を恐れ、犠牲を主にささげて、誓願を立てた。17:主は大いなる魚を備えて、ヨナをのませられた。ヨナは三日三夜その魚の腹の中にいた。」
ヨナ書の冒頭、1章15節から17節の御言葉です。先週、ヨナ書の冒頭。イスラエルの預言者であった「アミッタイの子ヨナ」に主の言葉が臨みました。ソロモンの後、分裂した北イスラエルの王、ヤラベアム2世の時代で、紀元前800年から700年代半ばの記録であります。1節2節をお読みしますと、
「1:主の言葉がアミッタイの子ヨナに臨んで言った、2:「立って、あの大きな町ニネベに行き、これに向かって呼ばわれ。彼らの悪がわたしの前に上ってきたからである」。」
このように、当時、イスラエルを脅かしていた強大な国、アッスリヤの首都。ニネベへ行って、主の言葉を宣べ伝えなさい、という命令でした。
この、主の召し。ご命令に対してヨナはがとった行動は、
「ヨナは主の前を離れてタルシシへのがれようと、立ってヨッパに下って行った。ところがちょうど、タルシシへ行く船があったので、船賃を払い、主の前を離れて、人々と共にタルシシへ行こうと船に乗った。」
このように、主が遣わそうとされたニネベには向かわず、主の前を離れて逃れようとし、自ら船賃を払って、遠方、地中海の果てにあるタルシシとまで逃れようとしたわけであります。
しかし、ヨナは主の前から離れることはかないませんでした。主は大風を起こされ、ヨナが乗った船船に向かって暴風を当てられ、船が進むことを赦されませんでした。突然の大荒れに、船長や水夫たちは大切な船の積み荷を捨てるほどでしたが、どうにもならず、今にも沈みそうな状況に陥ります。そこで、原因追及のためにくじが引かれ、そのくじがヨナに当たります。ヨナは自らがヘブル人であることを名乗り、主を信じ恐れるものであること。また、自分が主の命に背いて逃げ出したことを明かしました。彼らは、ヨナが自分の神の命に背いたことを知り、これを責め、ヨナに問いかけました。11節から12節をお読みいたします
『11:人々は彼に言った、「われわれのために海が静まるには、あなたをどうしたらよかろうか」。それは海がますます荒れてきたからである。12:ヨナは彼らに言った、「わたしを取って海に投げ入れなさい。そうしたら海は、あなたがたのために静まるでしょう。わたしにはよくわかっています。この激しい暴風があなたがたに臨んだのは、わたしのせいです」。13:しかし人々は船を陸にこぎもどそうとつとめたが、成功しなかった。それは海が彼らに逆らって、いよいよ荒れたからである。』
まず、くじがヨナに当たりました。そのヨナの口から、ヨナが自分の神、主から逃げていることを聞かされた船長らは、この嵐の原因がヨナとその神にあるのであれば、どうすればよいのか?と聞いたわけです。祈りや、謝罪、捧げものといった、何かあなたの神をなだめる手段、儀式はないのか、という意味もあったかもしれません。「あなたをどうしたらよかろうか」という言葉から、ヨナの逃亡を助けないよう、港に帰ってヨナを降ろそう、という考えが、まずあったのだろうということも考えられます。
しかし、この問いに対してヨナは答えました。それは「わたしを取って海に投げ入れなさい」というものでした。「そうしたら、海はあなたがたのために静まるでしょう」。自分を、この荒れた海に放り出せ、と答えたのであります。この海に投げだされたら、まず助からない、命を落とすだろうことは、水夫たちは当然に思ったでしょうし、ヨナもまた同様であったと考えられます。ヨナが、自分を陸に戻すようにではなく、海に投げ込むよう提案した、その理由について。ヨナ自身の考えはここには述べられていません。
預言者としてのヨナは、主に背くということの罪深さと、その報いをよく知っていましたから、命をもって贖わなければ、赦されることはないだろう、と考えたとも読めます。また、主の召し、ご命令に逆らって逃げようとしているなかで、主の御手に捉えられた以上、もう逃げようもない。かといって天敵であるニネベに行くこともできない。ならば、いっそ命を捨てることでしか、逃れる術はないと思ったのかもしれません。そこは、聖書では明らかにされていません。
このヨナの回答に対し、それを聞いた船長や水夫たちは、ただちにヨナを海に投げ入れるようなことはしませんでした。13節にありますように。
「13:しかし人々は船を陸にこぎもどそうとつとめたが、成功しなかった。それは海が彼らに逆らって、いよいよ荒れたからである。」
何とか、陸に戻ろうと試みたのであります。この記事は、ある意味非常に具体的で、ヨナ書の客観性、歴史性を表している部分であります。一つは、海に働く者の職業意識です。紀元前の出来事ですから、当時は、人間を生贄にすることや人柱的な慣習は、存在していました。しかし、それらはやはり特別な儀式であって、むやみに行われるような事柄ではなかったようです。彼らは、船賃を払った同乗者を、簡単に海に捨て、命を奪うことなく、何とか自分たちでこの難局を乗り越えようと、必死で務めたことが分かります。
もう一つは当時の異教徒たちの習慣や信仰の形です。水夫たちがめいめいの神を呼ばわったとあるように、現在のわが国のように、航海安全とか、商売繁盛とか、大漁祈願といったご利益的な信仰。偶像礼拝を行っていたことがわかります。ある意味、気休めのようなものですから、ヨナが告白したように「海と陸とをお造りになった天の神、主」である、まことの神のご存在と御業を信じる民ではありませんでした。ですから、人を海に投げ出すことより、何とか工夫して陸に近づこう、図ったわけであります。
現代的な感覚としても、これら異邦人の水夫たちが常識的な行動をとっているように感じられます。嵐にあって、乗客を投げ捨てたとなれば、たとえ無事帰りついても、水夫としての信用にかかわることもあります。この記事は、この出来ごとが複数の証言者によって伝えられ、まとめられており、具体的に現実の出来事であった、ということが分かるように書かれています。
さて、水夫たちが、自分たちの力で荒れた海から、何とか逃れようとしましたが、主はそれを許されませんでした。海は、彼らの考えや努力に「逆らって」さらに大きく荒れた、と書かれています。ただ、荒れたのではなく、「彼らに逆らって」荒れた。それは主の御心でなかったということです。御心でなければ適うことはありません。結局、努力空しく彼らは為す術が無くなり、とうとう、最後の手段として、ヨナの提案を受け入れることにしました。ヨナを海に投げ入れることです。14節をお読みいたします。
『14:そこで人々は主に呼ばわって言った、「主よ、どうぞ、この人の生命のために、われわれを滅ぼさないでください。また罪なき血を、われわれに帰しないでください。主よ、これはみ心に従って、なされた事だからです」。』
ここに至って、彼等水夫たちは「主」を呼ばわります。めいめいの神ではなく、ヨナが信じるところの「主」に頼んでいます。この主は固有名詞です。まことの神の「御名」によって、願います。自分たちの経験や思いに逆らって、悪化する状況に際し、徐々にヨナの言う通り、ヨナの信じる主なる神様にすがるしかない、という心境に導かれています。そこで、彼らは、これからヨナを海に投げ入れますが、それは主の御心に従うことで、故意に殺人を犯すのではないですから、その報いを私たちに及ぼさないでください。私たちを滅ぼさないでください、という祈りと主張をいたしました。預言者ヨナが言う通りに行うのですから、私たちを責めないで下さいという、主への懇願でした。そうして、彼等はヨナを荒れた海に投げ入れます。15節から16節です。
「15:そして彼らはヨナを取って海に投げ入れた。すると海の荒れるのがやんだ。16:そこで人々は大い に主を恐れ、犠牲を主にささげて、誓願を立てた。」
こうして、ヨナが海に投げ入れられると、大荒れの海が静まり、穏やかになりました。これによって、異邦人の彼らに、ヨナが告白した「海と陸を造られた天の神」主がおられること、天地を統べ治められている真の神、主の御力が示され、彼らはそれを認めて、「主」を大いに恐れました。犠牲、つまり感謝の生贄をささげています。そして誓願を立てた。誓願の内容は不明ですが、主の御力を知って、航海の間、主に従うことを誓約したのか、あるいは無事航海を終えたら、主に従うと言ったのか分かりません。ただ、主の御業を目の当たりにしたものは、みな、主を恐れ、主に平伏すしかないことを知るのであます。
そうして、海に投げ入れられたヨナはどうなったかといいますと、17節。
「17:主は大いなる魚を備えて、ヨナをのませられた。ヨナは三日三夜その魚の腹の中にいた。」
17節は直訳しますと、主は「ヨナを飲み込ませるための大きな魚を備えられた」となります。主は備えておられた。これは任命するとか指定するという意味にも使われる言葉で、主が御旨のために、ご計画の実現のために、特別に用意して、お用いになったということであります。
ここにきて、主が行われた、この嵐の御業の意味が明らかになってまいります。大いなる魚。これは魚かクジラか分かりませんけれども、これを備えられたのはヨナを飲み込ませるため。すなわち、嵐の海から。投げ入れられた海の奥からヨナの命を守り、導いて、御許へと呼び戻されるためであるということでありました。水夫たちはヨナが死んだと思ったでしょう。ヨナ自身も同じく、主に背いて御前を離れようとした罪への報いとして、当然死を覚悟していたことでしょう。
しかし、主が起こされた嵐は、命を奪うためでも裁きでもなく、主が御旨によりヨナを召された目的、ニネベ宣教を実現されるためであり、ヨナの命を守り、主に御前に立ち帰るように、大きな魚まで用いて、超自然的なお働きをもって、ヨナを取り戻されるためのものでありました。主の御手は、私たちの浅はかな思いや、想像を超えて、海の果てまで、海の底にいたるまで及び、私たちをとらえて離し給わないのであります。
さらに、その御手はどこまでもあわれみに満ち、御手の内におかれていることが、最も安全かつ、幸いであるということを覚えたいと思います。嵐の海に投げ込まれ、大魚に飲み込まれるという、驚くべき出来事。命の危機も、それが主の御手によるならば、結局はヨナの命も、水夫の命も守られ、主のみ前での、感謝と、悔い改めにヨナを立ち帰らせ、主の召された御用に努めるようにされるのであります。
ここでは、海上での大きな嵐が船を襲いました。船荷の損害も出ました。多くのものは慌てふためき、恐怖を覚え、混乱しました。嵐の海に人を投げ入れることのへの恐れも、また投げ入れられる恐怖、死の覚悟もさせられたでしょう。しかし、これらは全て、偶然の出来事でも、たまたまでもなく、主が全てをお用いになったこと。自然や気候、生き物、通常考え難い超自然的な事柄も含め、主がその御旨を実現されるために、あらゆる手段を有効に、最も効果的にお用いになることを証明しています。まさに御旨は必ずなる、ということであります。
主の御前を離れようとした預言者に対する、懲らしめや、試練、訓練の意味合いもあったでしょう。しかしその根底にあるのは、主の測りがたい憐れみであり、守りとお導きであります。罪ある有限な愚かな人間にとっては、恐怖であったり、苦痛を感じるかも知れません。それでも、私たちがどこにいても、何を考えていても、主は私たちをとらえ続けていてくださり、御手の内に守りつつ、御旨のままにお用いになります。そして主は、御子キリストの民を、日々の困難、迷い、罪の内にあってなお、やがて御国に至るまで、その御手の内に保ち給うのであります。この愛と憐れみに感謝しつつ、主がいっそう御旨を明らかに知らしめてくださるよう、日々、御言に聞きつつ歩んでまいりたいと思います。