復活のキリストの説教
【ルカによる福音書】 24章(新約133頁:口語訳)
(25) そこでイエスが言われた、「ああ、愚かで心のにぶいため、預言者たちが説いたすべての事を信じられない者たちよ。
(26)キリストは必ず、これらの苦難を受けて、その栄光に入るはずではなかったのか」。
(27)こう言って、モーセやすべての預言者からはじめて、聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを、説きあかされた。
(28)それから、彼らは行こうとしていた村に近づいたが、イエスがなお先へ進み行かれる様子であった。
(29)そこで、しいて引き止めて言った、「わたしたちと一緒にお泊まり下さい。もう夕暮になっており、日もはや傾いています」。イエスは、彼らと共に泊まるために、家にはいられた。
(30)一緒に食卓につかれたとき、パンを取り、祝福してさき、彼らに渡しておられるうちに、
(31)彼らの目が開けて、それがイエスであることがわかった。すると、み姿が見えなくなった。
(32)彼らは互に言った、「道々お話しになったとき、また聖書を説き明してくださったとき、お互の心が内に燃えたではないか」。ルカによる福音書 24章 25節から32節
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「 (25) そこでイエスが言われた、「ああ、愚かで心のにぶいため、預言者たちが説いたすべての事を信じられない者たちよ。 (26) キリストは必ず、これらの苦難を受けて、その栄光に入るはずではなかったのか」。 (27) こう言って、モーセやすべての預言者からはじめて、聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを、説きあかされた。」
ルカによる福音書24章25節から27節の御言です。これは「エマオ」とか「エマオの途上」と言った絵画でも有名な、聖書の1シーンです。イエス様が十字架にかかられ、葬られて三日目の日曜の早朝。夜明け頃に、イエス様につき従っていた女性たちがお墓を訪れると、入り口をふさぐ大きな石が御使いによって取り除かれていました。マタイ伝によると、見張りの番人は恐ろしさに震え上がって死んだようになっていました。そして、その墓は空っぽで、体に巻かれた亜麻布が、そのまま残っており、すっぽり抜かれたようにイエス様のお体が亡くなっていました。そこで、御使いから、イエス様はよみがえられて、すでにここにはおられないことを告げられます。
各福音書を見ていきますと、甦られたイエス様が、その日のうちに5回、弟子たちにそのお姿を現されたことが記録されています。その記事は週報の裏に記載しましたので、ご参照いただければ、と思います。まず、最初にイエス様の下を訪れた、マグダラのマリヤにイエス様は話しかけられ、そのお姿を現されました。続いて、一緒にいた女性達にも会われています。これが日曜の早朝です。
聖書の記事では、その次に、エルサレムからエマオに向かう二人の弟子たちの話があって、彼らが、途中からの同行者がイエス様だったと気づいて、慌てて戻った時。使徒たちは、主がシモン、すなわちペテロに「現れなさった」ことを話しています。エルサレムから11キロほど離れたエマオに着いたときは、既に夕暮れでしたから、彼等がエルサレムを出たのは午後だと思われます。その彼らに会う前にペテロに現れられたと考えられています。これは第Ⅰコリントでパウロも証言しています。
そして、エマオの弟子たちが夕食の途中で、イエス様に気づき、エルサレムに飛んで帰って、使徒たちと互いにイエス様のご顕現の報告をしていた時、再びイエス様が、そのただ中に、肉体をもってお姿を現されます。この時、扉は固く締められていたのですが、突然彼らの中にお立ちになったと記録されています。これが5回目と言うことになります。
この時はトマスだけいなかったのですが、使徒たちはイエス様のお姿を目の前にしても、まだ、目が開かれてなかったので、肉体の復活と言うことについてまだ悟っていなかったことが分かります。「恐れ驚いて、霊を見ているのだと思った」と書かれています。これは、日本的に言えば、幽霊というのと近い意味です。確かに、締め切った部屋の中にパッと現れられたら、そう感じてしまうかもしれません。しかし、イエス様は、そうではなく、体ごと甦ったのだということを、示していかれます。この、使徒たちの目が開かれていない状態。イエス様をキリストと信じ、付き従いながらも、充分に悟ってなかったその状態を示し、そこから目を開かれる過程が描かれているのが、このエマオの出来事、と言うことになります。さて、25節。
(25) そこでイエスが言われた、「ああ、愚かで心のにぶいため、預言者たちが説いたすべての事を信じられない者たちよ。
イエス様はいきなり嘆きと言いますか、叱責ともとれる言葉から始められます。この時、二人の弟子たちは、この人がまだイエス様であることに気づいていませんでした。途中から同行することになった見知らぬ人から、お説教されることになってしまいました。しかし、その原因。イエス様が嘆かれた原因は、じつに自分達にあったのだと言うことが明かされていきます。この直前に、彼らはエルサレムでの出来事。ナザレのイエスがどのような方であったか、そしてその身にどのようなことが起こったかを説明しています。少し戻って15節から24節をお読みいたします。
(15)語り合い論じ合っていると、イエスご自身が近づいてきて、彼らと一緒に歩いて行かれた。 (16)しかし、彼らの目がさえぎられて、イエスを認めることができなかった。 (17)イエスは彼らに言われた、「歩きながら互に語り合っているその話は、なんのことなのか」。彼らは悲しそうな顔をして立ちどまった。 (18)そのひとりのクレオパという者が、答えて言った、「あなたはエルサレムに泊まっていながら、あなただけが、この都でこのごろ起ったことをご存じないのですか」。 (19)「それは、どんなことか」と言われると、彼らは言った、「ナザレのイエスのことです。あのかたは、神とすべての民衆との前で、わざにも言葉にも力ある預言者でしたが、 (20)祭司長たちや役人たちが、死刑に処するために引き渡し、十字架につけたのです。 (21)わたしたちは、イスラエルを救うのはこの人であろうと、望みをかけていました。しかもその上に、この事が起ってから、きょうが三日目なのです。 (22)ところが、わたしたちの仲間である数人の女が、わたしたちを驚かせました。というのは、彼らが朝早く墓に行きますと、 (23)イエスのからだが見当らないので、帰ってきましたが、そのとき御使が現れて、『イエスは生きておられる』と告げたと申すのです。 (24)それで、わたしたちの仲間が数人、墓に行って見ますと、果して女たちが言ったとおりで、イエスは見当りませんでした」。
二人の内、一人はクレオパです。先に出てきたクロパと同一人物で、古代教会の伝承では、イエスの父、ヨセフの兄弟と言われています。もう一人はその息子シメオンだと言い伝えられていました。ただ、最近では、クレオパの妻だったのではないかと言う説も有力です。彼の妻がエルサレムで十字架に立ち会った記事があります。夫婦で家に帰って、イエス様と三人で食卓を囲んだと言う方が自然だと言われますが、明確ではありません。ただ、この時の二人は、歩きながら、論じ合っていたと言う単語から、相当熱く議論を交わしていたことが分かります。イエス様の甦りについて意見の相違があったかもしれません。しかし、二人の目はまだ遮られていました。それは、イエス様と分からなかったことだけではなく、イエス様に尋ねられて、答えたその答えが示しています。
まず、第一にイエス様のことを「神とすべての民衆の前で、わざにも言葉にも力ある預言者」だったと言っています。神の子、救い主の本当のお姿が見えていません。
第二に、「私たちはイスラエルを救うのはこの方であろうと、望みをかけていました」これは、聖書に預言された方だろう、と言う願望であったと言う点。さらに、預言された救い主が「イスラエルを救う」という、この世的な、政治的または武力的な力としてのメシヤを期待していた、ということです。これは、聖書を知りながら、聖書が預言している救い主の、真の意味、お姿を理解していなかったと言うことであります。
さらに、クレオパの説明は、すべて過去形で語られており、イエス様の十字架の死によって、彼らの望み、希望が失望に終わった、と言うことがにじみ出ています。私たちは幸いにも、イエス様によって目が開かれ、御霊の証しによって、この十字架こそが希望の実現なのだ、ということが知らされておりますけれども、彼等はまだそれを悟っていなかったと言うことであります。ですから、十字架への失望と復活への疑い。御使いが告げた、イエス様が生きておられると言うお告げを信じることができずにいました。悲しそうな顔で立ち止まったところに、失望と、混乱が心を占めていたことが表れています。
この、クレオパの答え。誤った聖書の理解からくる、イエス・キリストへの誤解と、偏った願望。不十分な信仰は、その当時の多くの弟子たちや、使徒たちの心情、姿を現していると言えます。ですから、イエス様は「おろかな心のにぶい者」「預言者を信じない者」と嘆かれたのであります。しかし、イエス様は、実際にはその時、すなわち、本当に信徒たちの心の目が開かれて、聖書の御言葉を理解し、真実の救い主イエス・キリストを知り、信じるにいたる時。御霊が遣わされる時が、これからであることをご存じでありました。ですから、「ああ」という嘆きは、憐れみでもあったと言えると思います。その証拠に、イエス様は、彼らに教えられます。26節、27節。
(26) キリストは必ず、これらの苦難を受けて、その栄光に入るはずではなかったのか」。 (27) こう言って、モーセやすべての預言者からはじめて、聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを、説きあかされた。
このように、イエス様は、モーセ。すなわちトーラー。律法と言われるモーセ五書から始め、預言書、そして聖書全体について説きあかしていかれます。この「説きあかされた」は説明の説で書かれていますが、言葉の意味は、まさに解き明かす。解明する、解釈する、説明する、と言う意味です。聖書全体に示された、あるいは秘められた、イエス様ご自身。主なる神様が約束され、遣わされた、最終の、完全な救い主であられる御子、キリストについて、書かれてあることを説明されて言ったのであります。十字架の苦しみ、黄泉の苦しみを通って、甦らされたイエス様によって成就した聖書の予言。その成就のあと、復活のイエス様がなさったことは、聖書の解き明かしでありました。
エルサレムからエマオまでは、7マイル。約11キロであったと書かれています。普通に歩いて3時間弱ですが、語り合いながらだともう少しかかったでしょうか。イエス様は聖書全体から、イエス様ご自身を明かしていかれました。聖書全部とすると時間が足りませんから、ご自身について預言された部分を選んで語られたと言うことだと思います。しかし、それでも時間は足りませんでした。夕暮れ近く、エマオに着いてしまいましたが、クレオパたちは、もっと聞きたかったのです。そのまま通りすぎていきそうなイエス様を、イエス様と分からないままでしたが、引き留めました。29節で
(29)そこで、しいて引き止めて言った、「わたしたちと一緒にお泊まり下さい。もう夕暮になっており、日もはや傾いています」。イエスは、彼らと共に泊まるために、家にはいられた。
「強いて引き止めた」とあります。この物語でのイエス様は、なんだか意地悪ではないですけど、クレオパらに少し距離を置いて、試しておられるような感じがします。姿をあらわしながら、彼らの目を遮られ、イエス様と悟られないようにされています。そして、十字架の出来事を全く知らない人のように振る舞い、彼らに答えさせ、それから聖書を解き明かされます。26節で、「キリストは必ず、これらの苦難を受けて、その栄光に入るはずではなかったのか」と、説教を始められました。彼らに失望をもたらし、不安と混乱をもたらした出来事。それこそが聖書に預言されたことで、真のキリストの証拠ではないか。この説明から、徐々に彼らの悲しみ。沈んだ心に火がともされます。その解き明かしによって、彼らの心に光がさして、希望が取り戻されてきたときに、今度は通り過ぎて行こうとされるわけです。
しかし、これは慈しみに満ちた、心の誘導であり、魂の導きでありました。彼等はイエス様がお語りなることを、自ら、さらに求めて、熱心に強いて引き止めるようになりました。そして、イエス様はそれに応えて下さったのであります。イエス様を求める心は、聖書の御言によってもたらされる。み言葉の正しい理解がイエス様を求め、希望をもたらすということが、イエス様ご自身によってはっきりと示されました。そのような出来事でありました。
しかし、ここでもう一つ大切なことが教えられます。確かに、イエス様による聖書の解き明かしによって、彼らの心は、内に燃えたと告白しています。「燃える」も受動態なので、正確には燃えさせられた、と言う受け身の言葉です。この「内に」というのは、人間に内面的な活動の、広い範囲を指します。考え、思い、理解、感情、欲求、精神や意志というものも含みます。み言葉によって、その内面が、熱くもえさせられました。ただ、そこに加えられることが書かれています。31節。
(31)彼らの目が開けて、それがイエスであることがわかった。すると、み姿が見えなくなった。
目が開かれなければならない、と言うことであります。イエス様のお姿がみえるようになるために、真に救い主なるイエス様を認識するためには、ただ聖書を理解するということだけではなくて、主によって、聖霊によってその目を開いて頂くことが必要だと言うことであります。聖霊が働いて下さることで、あらためて、それまで聞いてきた、聖書の言葉が目の前に燃え上がってきます。小さな火種に、薪を積んでいって、ふいごによって風が送られて、一気に燃え上がるように。御霊に照らされて、神様のみ言、真実の言葉が、私たちの心の中で燃え上がります。不十分な信仰、足りない理解。かつて聞き流していた、目で追っていたみ言が、甦ってきて燃え上がってきて、私たちの魂に力を与えてくれます。命が与えられます。そして、その福音を伝えようとする行動を生み出します。
ですから、それを知ったとき。クレオパらはすぐに立ちあがりました。11キロの距離を歩いて帰ってきて、夕食の途中にもかかわらず、居ても立ってもおられず、再び使徒達のいるエルサレムへと向かったのです。イエス様は本当によみがえられた、生きておられる。聖書の預言通りで、それが成就した、ということを知らさずにはおれなかった。これが御霊によるみ言の力であります。
この御言、すなわちイエス様による聖書の解き明しは、この後、クレオパらと使徒達の前に姿を現された際にも、同じ様に行われます。そこでもイエス様は、使徒たちに「モーセの律法と預言書と詩篇とに、わたしについて書かれてあることは、必ず成就する、と話して聞かせただろう」と仰り、そうして聖書を悟らせるために、彼らの心を開いたと書かれています。クレオパらの目を開けられたように、使徒たちの心を開いて下さったのであります。神様がご計画に定められた時、と言うこともあると思います。
私たちも、一人一人、御言の理解、信仰の成長に違いはありますけれども、御言に聞き続け、心からイエス様を求める時、主は御霊を賜り、私たちの心の目を開き、信仰の成長を成して下さいます。福音の伝道へと動かして下さいます。み言によってみ心を知り、感じて感謝して、御前にひれ伏してイエス・キリストを宣べ伝える信仰生活を歩むことができますよう、一層のお導きを祈ります。(以上)