心は舌に表れる
1:わたしの兄弟たちよ。あなたがたのうち多くの者は、教師にならないがよい。わたしたち教師が、他の人たちよりも、もっときびしいさばきを受けることが、よくわかっているからである。
2:わたしたちは皆、多くのあやまちを犯すものである。もし、言葉の上であやまちのない人があれば、そういう人は、全身をも制御することのできる完全な人である。
3:馬を御するために、その口にくつわをはめるなら、その全身を引きまわすことができる。
4:また船を見るがよい。船体が非常に大きく、また激しい風に吹きまくられても、ごく小さなかじ一つで、操縦者の思いのままに運転される。
5:それと同じく、舌は小さな器官ではあるが、よく大言壮語する。見よ、ごく小さな火でも、非常に大きな森を燃やすではないか。
6:舌は火である。不義の世界である。舌は、わたしたちの器官の一つとしてそなえられたものであるが、全身を汚し、生存の車輪を燃やし、自らは地獄の火で焼かれる。
7:あらゆる種類の獣、鳥、這うもの、海の生物は、すべて人類に制せられるし、また制せられてきた。
8:ところが、舌を制しうる人は、ひとりもいない。それは、制しにくい悪であって、死の毒に満ちている。9:わたしたちは、この舌で父なる主をさんびし、また、その同じ舌で、神にかたどって造られた人間をのろっている。10:同じ口から、さんびとのろいとが出て来る。わたしの兄弟たちよ。このような事は、あるべきでない。
11:泉が、甘い水と苦い水とを、同じ穴からふき出すことがあろうか。
12:わたしの兄弟たちよ。いちじくの木がオリブの実を結び、ぶどうの木がいちじくの実を結ぶことができようか。塩水も、甘い水を出すことはできない。ヤコブの手紙 3章 1節から12節
ヤコブの手紙3章9節10節の御言です。ここでは、私たちが舌を制すること、つまり口から発する言葉、語ることの大切さと、それを制御することの困難さが語られています。本日は、このヤコブの教えについて、御言葉に聞いて参りたいと思います。
まず、先駆けて、先週は2章の後半部分を見てまいりました。そこではコブの手紙全体での、中心的なテーマ。主題でした。私たちは、神の恩寵によって、御子イエス・キリストを信じることによって、神の聖なる怒りを逃れ、救われて天国での永遠の命と栄光を賜るという、恵みの契約の中に入れられています。救いは信仰によるという、恵みの真実に変わりはありません。しかし。この世に置かれている間。遣わされている間は、常に危険にさらされています。この世は主に逆らいます。外的には迫害、嘲り。内的には誘惑、高慢。これは試され、訓練されているのですが、私たちは弱く、これに抗うことの困難を覚えます。そこで、その信仰が堅く保たれるために、また、それを確信するために必要な知恵を、ヤコブは指導しています。
まことの信仰、生ける信仰は主との交わりのうちに、行いとなって表れ出て来るものであって、信仰と行いは、分離も、対立もしない、ということ。御言葉に聞き従う生活によって、御霊によって信仰の成長がはたされていくことを教えています。その規準は、十戒であり、その要約は神への愛と隣人への愛ということになります。
また、御言葉に聞いていく中で、聖書の読み方について教えられることがありました。それは、聖書の言葉は、文脈を通して理解するということです。前後の文章の流れやテーマ中から、丁寧に聖句が教えるところを聞くと言う姿勢です。またその書が書かれた時代や目的。また旧新約聖書66巻全体を貫く、一貫した神の啓示の中における位置など。これを意識しないで、恣意的に一部分だけを取り出してくると、先週のように、パウロとヤコブは反対のことを主張している。という早合点をしてしまいます。
この、恣意的に一部分だけ取り出す、というのは異端がよく使う手段でもあります。異端の団体の主張に都合の良い部分だけを、文脈を無視して恣意的に取り出してくる。集めて来る。都合に悪いところは触れないとか、少し訳を変えるのは彼等の手段です。
聖書を利用した、キリスト教の皮をかぶった異端がすることは、大きく3つのパターンがありあます。今申し上げたように、まず聖書を部分的に提示する。次に聖書のほかに、後から別の経典をさらに権威あるものとして付け加える。そしてもう一つは、イエス様がすでに再臨されて、誰かの中に入っているとか、代理人を遣わされて、それがこの人だ、と言って、ひとりの人や、一握りの集団をあがめさせようとするパターンです。イエス様ご自身が、聖書の中で、そのような偽物が出て来ることを予言されていますし、聖書に付け加えることも、除くことも禁じられています。
また、父なる神と私たちの仲保者はイエス・キリストただお一人で、唯一です。そして聖霊が私たちとイエス様を繋いで下さっています。他に仲介者も代理人も存在しません。そしてイエス様が再臨される時は、最後の審判で、誰の目にも明らかな状態でこられますから、世界中、全被造物がそれを知ることになります。聖書は明確にこのことを語っているのですが、異端はそこを隠したり、不完全なものと教え込むのです。少し、話が広がってしまいましたが、このように広く聖書を読む、御言葉に聞くこと、またよいの聖徒、先達がどのように聖書に聞いて理解してきたかを告白している、信条や信仰告白に学ぶことは、誤った道へ導かれないために大切なことであります。
さて、本日はヤコブの手紙3章の前半に聞いてまいります。ここでは、「舌」。つまり口で語ること、話すことをテーマに、その大切さと困難さが教えられます。ただ、これも2章で語られた、生ける信仰から生み出される行ない、生き方の大切さを、語ると言う行為において表していることになります。順番に見てまいりましょう。大切な教えを伝えるために、非常によく造られた、素晴らしい構成になっています。
【1:わたしの兄弟たちよ。あなたがたのうち多くの者は、教師にならないがよい。わたしたち教師が、他の人たちよりも、もっときびしいさばきを受けることが、よくわかっているからである。】
まず、教師。キリスト教会の教職を指しています。その責務が言われています。当時、福音の教理を教えることは教師に委ねられていましたから、そこには当然、一定の権威や威信といったものがありました。ただし、識字率もまだ高くない時代ですから、この世的、社会的にも一定の地位が認められることになります。そこで、それに惹かれるのでなく、また選択する職業ではなく、あくまで主の召し。召命に従うべきもので、安易に求めることを警告しています。その責任は重く、さらに教師はより厳しいさばきを受けるとまで言っています。確かに、ルカ伝の12章48節の主人と僕の譬えで「多く与えられた者からは多く求められ、多く任せられた者からはさらに多く要求される」と教えられています。
1節で、一つ教師に触れて、そこから本題に入っていきます。2節から6節をお読みします。
【2:わたしたちは皆、多くのあやまちを犯すものである。もし、言葉の上であやまちのない人があれば、そういう人は、全身をも制御することのできる完全な人である。
3:馬を御するために、その口にくつわをはめるなら、その全身を引きまわすことができる。
4:また船を見るがよい。船体が非常に大きく、また激しい風に吹きまくられても、ごく小さなかじ一つで、操縦者の思いのままに運転される。
5:それと同じく、舌は小さな器官ではあるが、よく大言壮語する。見よ、ごく小さな火でも、非常に大きな森を燃やすではないか。
6:舌は火である。不義の世界である。舌は、わたしたちの器官の一つとしてそなえられたものであるが、全身を汚し、生存の車輪を燃やし、自らは地獄の火で焼かれる。】
1節は教師の話で、教師の主な働きは、当然語って教える、話すという行為です。そこから一般的な、全ての信徒たちへの話へと移ってきました。その主題は「舌を制すること」すなわち語ること、話すと言う行為の大切さと、困難さになります。2節で、一旦その定義が示されました。
「私たちは皆多くのあやまちを犯す」これは、「さまざまな失敗をする」ということです。特に、言葉において失敗しないことは、まずないと言います。私たち、というように、その中に、監督であり教師であった自らをも含めています。だから簡単に教師になるなということにも繋がっています。もし、言葉で失敗がない人は、全身を制御できる完全な人だ。完全なとは、霊的にも道徳的にも十分成熟した、という意味ですが、これは逆に、そんな人がいるでしょうか?という問いでもあるのですが、言葉を制する人は全身を制御できる人だ、ヤコブは言いました。3節以降は、3つの譬えでそれを教えています。
まず、全身を制御すると言う言葉から、3節は「馬を御する」ことに譬えます。確かに、馬の動き、全身を御して、操るのは口にはめた、くつわを通して行われます。小さな轡を口にはめることで、手綱を通して馬を自由に働かせます。
4節は、小さな道具が全体を操るところから、嵐に耐える大きな船も、それを操縦するのは、小さな舵一つだと譬えられます。人の手に納まる小さな舵を操作して、大きな船が動かされるように。5節ではその小さな轡とか、舵は、実は私たちに口にある舌です。小さな器官だが、大言壮語すると。大言壮語すると言うのは、直訳すると、大きなことを言って自慢するとか、誇ると言う意味になります。あまりいい意味ではないですけれども、ここでは、小さな舌が、大きなことを言う、大きな影響を及ぼす、という大小の対比が目的です。そして3つ目の舌の譬えは、火になります。小さな火が大きな山火事を起こすように。昔の火事の原因で一番多かったのは、小さなタバコの火に不始末でした。そのように、小さな火がやがて森を焼き尽くしてしまう、譬えで表現していますが、要はこれは罪のことですね。
体に備えられた小さな器官の一部が、全身を汚し、生存の車輪というのは難しい表現なのですが、人生の全工程というようなことです。人生を燃やし、やがて地獄の火に焼かれると言う、恐ろしい結末に至ってしまうということです。箴言でも10章や16章、18勝などで、口とか舌がもたらす、災厄について、同じように教えています。
何故そんな恐ろしいことになるかということが、次に明かされます。7節と8節。
【7:あらゆる種類の獣、鳥、這うもの、海の生物は、すべて人類に制せられるし、また制せられてきた。8:ところが、舌を制しうる人は、ひとりもいない。それは、制しにくい悪であって、死の毒に満ちている。】
大小の対比がさらに大きくなりました。自分の舌一つと生き物全てです。すべての生物の表現は、創世記を思い起こしています。地を治めるように主が人に命じられた務めのことですが、堕落によって、御心に適うようにはできませんが、主の恩恵の下で、表面的にはこれらを制しているよう受け止められています。この人間は生物の頂点に立っているにもかかわらず、自分の舌を制することができない、というのです。舌は「制しにくい」。少しもじっとしていない、という意味です。1章で、行動に安定がないとか、語るに遅くあるように教えられましたが、そのことは舌にも表わされています。死の毒に満ちている、と言われてしまうと、何も話せなくなってしまいそうです。
しかし、8節を丁寧に読みますと、その教えているところの意味が見えてきます。ここで、舌を制しうる「人は一人もいない」とヤコブは言いました。誰にもできないではなくて、人にはできない。人の中にはできる人がいない、ということです。つまり、全的堕落のことを教えていることになります。全生物を制しても、舌を語ることを制御できなかったら、地獄の火に焼かれる。2章で、律法をことごとく守ったとしても、その一点にでも落ち度があれば全体を犯したことになる、と教えていたのと同じことです。
これは「全的堕落」ということを言っています。私たちは正しい行いを全うできない。舌一つ、言葉一つ制することができない。人は誰もできないのだ、ということです。ヤコブが信仰から生まれる行いの大切さを語ってきて、実は人にはできないことを示しました。その意味するところは、もしできているのであれば、それは人によるのでは無く、聖霊の御業。御霊のお働きによるのだと言うことです。信仰自体、与えられたものです。信じて願い求めるなら、言葉や行いもまた、主が備え与えて下さる。主が用いて下さるものでなければ、それは空しいと言うことであります。
9節10節で、ヤコブが言いたかった、本当の指摘というか叱責が記されています。
【9:わたしたちは、この舌で父なる主をさんびし、また、その同じ舌で、神にかたどって造られた人間をのろっている。10:同じ口から、さんびとのろいとが出て来る。わたしの兄弟たちよ。このような事は、あるべきでない。】
端的にいいますと、父なる主を讃美することは、言葉による最も聖く気高い、祝福された恵みの行為です。神への愛を示しています。そして同じ口で、神にかたどって造られた人を呪うという、これは隣人愛を踏みにじっている、ということです。十戒に教えられる隣人愛が、まさに神のかたちの尊重ですから、分かりやすいキーワードを入れて教えています。そしてこのようなことはあるべきではない。かなり強い叱責のことばです。「わたしの兄弟たちよ」と言っています。
この後の泉の譬えや、果実の譬えからも分かるように、ヤコブの教えは一貫しています。信仰と行いは一体だと言うことです。ただ違いは、優先順位の問題です。まず神、そして隣人。しかし両方必要だと言うことです。イエス様は「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすればこれらのものは添えて与えられます」と仰いました。求める最初のものが神の国と義であって、この世の必要は添えて与えられる。必要ないとは仰っていません。片方だけではなく、両方です。ただ、第一は神であって信仰、そこから初めて行いと隣人愛が生み出されます。生ける信仰は生ける愛となって現わされます。十戒は十戒であって、四戒ではないことを教えています。
迫害より誘惑が恐ろしいように。外から入るものより、内から出るものを恐れる必要があります。私たち罪人の口から出るものが汚れていると教えられます。神を信じている、愛すると言いながら、他人を罵ったり、蔑んで差別したり、悪口や陰口を言う。貶めるような噂話をする。その口から出る讃美は、本物でしょうか。何を信仰しているのですか。命の源である泉からは良い水しか湧かないように、上から賜った信仰から、悪い言葉、呪いは出て来るようなことはないはずだと、教えています。心にある良いものが善い言葉となって口から出てきます。しかし、罪ある私たちは、これが本当に難しい。私たちの内にある良いものとは何でしょう。それは、御霊によって私たちの内に住んでくださっているキリストであります。人にはできませんが、真の信仰は、御霊の働きによって、良い行いへと導かれます。御言葉に聞いて、慰められ、励まされるように、隣人に聞いて寄り添うことが適いますように。何もできない、弱い者ですが、祈ることは出来ます。また、もし賜物を与えられているなら、それを地中に隠すことなく、磨いて、励んで、少しでも増やして、主の恵みにお応えできるように、と願う次第です。