12:7「あなたがその人です」今日もみ言葉に聴いて参りましょう。
マタイによる福音書冒頭のイエス・キリストの系図にある、5人の女についてみ言葉に聴いて参りましたが、今朝はウリヤの妻バテシバであります。しかしここではバテシバ自身ではなく、バテシバと姦淫の末に夫ウリヤを謀殺したダビデに神様がなさったことを取り上げ、御心に聴いていきたいと思います。
バテシバとダビデの姦淫の出来事は、もう皆さまよくご存知のことと思います。サムエル記下11章2-3節(旧約445頁)で、ダビデが水浴びをするバテシバに目を留め、城に召し入れて思いを遂げます。そうしたところが彼女は身ごもります。それを糊塗しようとしてダビデはウリヤを戦場から呼び寄せ、バテシバと共に過ごすように勧めます。しかし11章11節(旧約446頁)。
「ウリヤはダビデに言った、「神の箱も、イスラエルも、ユダも、小屋の中に住み、わたしの主人ヨアブと、わが主君の家来たちが野のおもてに陣を取っているのに、わたしはどうして家に帰って食い飲みし、妻と寝ることができましょう。あなたは生きておられます。あなたの魂は生きています。わたしはこの事をいたしません」。
ウリヤは律儀で忠実な兵士でありました。自分だけが戦場を離れ妻と共に過ごすことを潔しとせず、自分の家に帰ろうとはしませんでした。ダビデは二度にわたる帰宅の勧めに応じないまま戦場に戻っていったウリヤに、わざと激戦地に送るようにとしたためた手紙を持たせます。ウリヤは戦死し、ダビデはバテシバを妻としたのです。
ダビデは姦淫の罪を犯し、それをごまかすために殺人の罪を犯しました。重大な律法違反です。それも卑怯な手段で敵の手にかけさせるというやり方でした。そのようなことが主の目に留まらぬわけもなく、そのことは主を怒らせました。
12章1-3節。
「1:主はナタンをダビデにつかわされたので、彼はダビデの所にきて言った、「ある町にふたりの人があって、ひとりは富み、ひとりは貧しかった。 2:富んでいる人は非常に多くの羊と牛を持っていたが、 3:貧しい人は自分が買った一頭の小さい雌の小羊のほかは何も持っていなかった。彼がそれを育てたので、その小羊は彼および彼の子供たちと共に成長し、彼の食物を食べ、彼のわんから飲み、彼のふところで寝て、彼にとっては娘のようであった。」
主はダビデを叱責するために、預言者ナタンをダビデの下に遣わしました。ナタンはダビデに一つの物語を語り始めます。ある町に住む2人の男の出来事です。一人は金持ちで多くの羊や牛を持ち、もう一人は貧しくてたった一頭の雌の子羊を持つばかりでした。貧しい人はその子羊を慈しみ育て、子羊は彼にとって娘のようでありました。
12章4節。
「4:時に、ひとりの旅びとが、その富んでいる人のもとにきたが、自分の羊または牛のうちから一頭を取って、自分の所にきた旅びとのために調理することを惜しみ、その貧しい人の小羊を取って、これを自分の所にきた人のために調理した」。
ある日旅人が富める人の下にやってきました。旅人をもてなすのは金持ちの義務でありましたが、金持ちの男は旅人のために自分の羊や牛をほふって調理するのを惜しんで、貧しい人のたった一匹の大切な羊を奪って、旅人のもてなしのために調理してしまったというのです。
12章5-6節。
「5:ダビデはその人の事をひじょうに怒ってナタンに言った、「主は生きておられる。この事をしたその人は死ぬべきである。 6:かつその人はこの事をしたため、またあわれまなかったため、その小羊を四倍にして償わなければならない」。
ダビデはその話を聞くと大変怒りました。無慈悲で強欲な金持ちは死なねばならない。彼はその無慈悲な振る舞いのためにその子羊を4倍にして償わなければならない。ダビデは王として無慈悲な金持ちを罪に定めました。
その時です。「あなたがその人です」というナタンの言葉が、ダビデに突きつけられました。12章7-9節。
「7:ナタンはダビデに言った、「あなたがその人です。イスラエルの神、主はこう仰せられる、『わたしはあなたに油を注いでイスラエルの王とし、あなたをサウルの手から救いだし、 8:あなたに主人の家を与え、主人の妻たちをあなたのふところに与え、またイスラエルとユダの家をあなたに与えた。もし少なかったならば、わたしはもっと多くのものをあなたに増し加えたであろう。 9:どうしてあなたは主の言葉を軽んじ、その目の前に悪事をおこなったのですか。あなたはつるぎをもってヘテびとウリヤを殺し、その妻をとって自分の妻とした。すなわちアンモンの人々のつるぎをもって彼を殺した。」
ナタンを通して主の叱責の言葉が浴びせられます。あなたに油を注いで王とした。サウルの手から救い出し、主人の家も、主人の妻も与えた。イスラエルとユダの家も与えた。それで足りなければ、まだ多くのものを与えようとしていた。それなのになぜ主の言葉を軽んじ、ウリヤを殺して妻を奪ったのか。
ダビデは貧しい人の羊を奪って殺した金持ちに激しく怒り、死刑を宣告しました。しかしダビデは、主の前にそれどころではない罪を犯しておりました。今その逃れようもない事実を突きつけられたのであります。
12章10節。
「10:あなたがわたしを軽んじてヘテびとウリヤの妻をとり、自分の妻としたので、つるぎはいつまでもあなたの家を離れないであろう』。」
ウリヤの妻を奪ってウリヤを殺した。それも敵対するアンモン人の手によって殺させた。だから剣による禍いはいつまでもあなたの家を離れないと、主は告げられました。
主の裁きの言葉は続きます。12章11-12節
「11:主はこう仰せられる、『見よ、わたしはあなたの家からあなたの上に災を起すであろう。わたしはあなたの目の前であなたの妻たちを取って、隣びとに与えるであろう。その人はこの太陽の前で妻たちと一緒に寝るであろう。 12:あなたはひそかにそれをしたが、わたしは全イスラエルの前と、太陽の前にこの事をするのである』」。
それに対して、ダビデは12章13前半、一言もなく自分の罪を認めました。
「13:ダビデはナタンに言った、『わたしは主に罪をおかしました』。」
そしてナタンは12章13節後半。
「ナタンはダビデに言った、「主もまたあなたの罪を除かれました。あなたは死ぬことはないでしょう。」
ダビデの悔い改めによって、主がダビデの罪を取り除かれたと告げました。
ダビデの犯した罪は自らが断罪したように死に値するものでした。しかし素直に罪を認め、悔い改めたダビデに、主はその罪を取り除かれました。彼は死を免れたことを告げられます。
12章14-15節。
「14:しかしあなたはこの行いによって大いに主を侮ったので、あなたに生れる子供はかならず死ぬでしょう」。 15:こうしてナタンは家に帰った。さて主は、ウリヤの妻がダビデに産んだ子を撃たれたので、病気になった。」
しかしこのことによって主を侮ったがゆえに、彼の子どもは死なねばならないと告げて、預言者ナタンは帰っていきました。
さてこの一連の出来事、御言葉から、私たちは何を聴くべきでしょうか。
先ず聴くべきは、「人は罪を犯す」ということであります。信仰の人ダビデ、ペリシテ人の大男ゴリアテに、主の御名によって立ち向かい、見事に討ち取ったダビデ。サウル王に執拗に追われながらも、主が油を注がれた王を討つことはしないと、反撃しなかったダビデ。主に愛され主を愛する信仰の人であり、イスラエルの英雄であったダビデであっても、いとも易々と姦淫の罪に陥り、それを糊塗しようとして、何の罪もない忠実な兵士ウリヤを、卑怯なやり方で殺すまでの罪を犯したのです。
これが人間です。私たちも誰一人例外はありません。今わたしが、あなたが、罪を犯さずにいるのは、守られているからです。一旦何かの弾みで箍(たが)が外れたら、容易に罪を犯してしまうのが私たちです。今平穏に暮らしていること、少なくとも人の掟を破るような罪を犯さず、善良な市民として生活できているのは、神様の恵みによって守られているのであります。
そして私たちが罪人であり、いつ罪の虜となってしまうかわからない存在であることを知ると同時に、知らなくてはならないこと、それは神様が罪を赦してくださるということであります。
自らの罪を認め、悔い改めたダビデに対して、神様はあなたの罪を取り除いたと宣言されました。そのように、自らの罪を認め悔い改める者を神様は赦し、あなたの罪は取り除かれたと言ってくださるのです。
私たちもそうではありませんか。
あるとき、それまで気づかなかった自分の中の罪、自分が罪人であるということに目が開かれ、恐れ、助けてくださいと言ったのではありませんか。わたしの下に来なさいというイエス様の招きに、十字架にすがったのではありませんか。
さらに言います。神様は、ご自分の民として救いに定めた者を、決して手放されません。
今日のタイトルを「預言者ナタンの知恵」といたしました。「預言者ナタンの叱責」とも言われるところですが、知恵としたのは、そこに大いなる主の御心を見たからであります。
11章の終りにあるように、ダビデのしたことは主を怒らせました。主はダビデのなしたことを責めるためにナタンを遣わしたのですが、ナタンはいきなりダビデの行為について言わず、市井の出来事として、無慈悲で強欲な金持ちの話しをしました。ダビデは持ち前の正義感と王としての使命感から、その金持ちを厳しく断罪しました。そのとたんに浴びせられた「あなたがその人です」というナタンの言葉に、ダビデは一気に正気を取り戻し、自身の犯した罪の重さを悟ったのであります。
聖書には多くの預言者が、王の悪行を諌めたことで殺されたことが書かれています。またサムエル記上8章11-17節(旧約392頁:人の王を立てる際の主の警告)にあるように、当時の専制君主の専横ぶりから考えると、ダビデもまた自分のしたことの罪深さに鈍感になっていたかもしれません。しかしナタンは巧妙な手段でダビデの正義感を呼び覚まし、罪を認めさせ、悔い改めへと導くことができました。ナタンも命がけの諫言が成功したわけですが、ダビデもこのことによって、罪に開き直って永遠の滅びに定められることを免れ、罪を赦され主の前に再出発することができたのです。
預言者ナタンの言葉は、まさに知恵の言葉でありました。この知恵の言葉に、わたしは神様のダビデを決して滅ぼさせない、何としても立ち帰らせてご自分の手からこぼさない御心を見ます。教理の言葉では「聖徒の堅忍」と言うのですが、神様はひとたび救いに定め、ご自分の民、ご自分の子どもとした者を、決して手放されないのです。仮にその人が何らかの理由で一時神様を忘れたり、神様に背いたり、あるいは罪に陥ることがあっても、神様は忘れることも見捨てることもなさらず、悔い改めに導き、ご自身の下へと帰って来る道を造ってくださるのです。わたしはダビデの罪と預言者ナタンの言葉に、この神様の御心を見ました。私たちはいつも神様の御愛によって、守られ導かれているのであります。感謝と喜びをもって、日々を過ごそうではありませんか。(滝田善子 教師)