虚しい誇り
<ヤコブの手紙 4章>
13:よく聞きなさい。「きょうか、あす、これこれの町へ行き、そこに一か年滞在し、商売をして一もうけしよう」と言う者たちよ。
14:あなたがたは、あすのこともわからぬ身なのだ。あなたがたのいのちは、どんなものであるか。あなたがたは、しばしの間あらわれて、たちまち消え行く霧にすぎない。
15:むしろ、あなたがたは「主のみこころであれば、わたしは生きながらえもし、あの事この事もしよう」と言うべきである。
16:ところが、あなたがたは誇り高ぶっている。このような高慢は、すべて悪である。
17:人が、なすべき善を知りながら行わなければ、それは彼にとって罪である。ヤコブの手紙 4章 13節から17節
【15:むしろ、あなたがたは「主のみこころであれば、わたしは生きながらえもし、あの事この事もしよう」と言うべきである。16:ところが、あなたがたは誇り高ぶっている。このような高慢は、すべて悪である。】
ヤコブの手紙4章15節16節の御言でございます。本日も、ヤコブの手紙から、御言葉に聞いて参りたいと思います。
先々週も、11節から17節までお読みいたしました。4章前半10節までは、教会を混乱させ、争いを起こしている原因である、この世の価値基準による偏見と差別という世俗主義と、人の上に立とうとする高ぶり、そのために人を貶めて裁くと言う罪の姿が戒められ、主の御前にへりくだることの大切さが教えられていました。そこから、その高ぶりはさらに、主の律法の上に自分を置く、まさに主を畏れない自分中心の姿、自らをの神上に置く高慢であることが指摘され、そこから「裁いてはならない」というテーマが11、12節で集中して教えられています。律法は裁くためではなく、救うために与えられ、その最も中心は神への愛と隣人への愛にあるからです。
本日の13節からは、少しヤコブの口調が変わり、教えのテーマも変化を見せています。そこを見てまいりたいと思います。まず、13節から14節をお読みいたします。
【13:よく聞きなさい。「きょうか、あす、これこれの町へ行き、そこに一か年滞在し、商売をして一もうけしよう」と言う者たちよ。14:あなたがたは、あすのこともわからぬ身なのだ。あなたがたのいのちは、どんなものであるか。あなたがたは、しばしの間あらわれて、たちまち消え行く霧にすぎない。】
ここは、「よく聞きなさい」という呼びかけで始まっています。ギリシャ語の原文では、
「αγε νον」(アゲヌン)という2語ですが、これは5章1節の「よく聞きなさい」と全く同じ表現になっています。日本語で「よく聞きなさい」と書くと、結構強く命令していると言うか、叱っているようにも感じるのですが、実際はもっと柔らかい、呼びかける言葉になっています。直訳すると「さあ、おいで」とか、「今、ここに来て」という意味です。ですから、英語訳でも2種類あって、「Now Listen」(今、聞きなさい)これは日本語と同じ意訳的です。他には「Come Now」と直訳的に訳している聖書もあります。慣用句的な、呼びかけと言えます。
ですから、高慢な人達に対して、ここまで非常に厳しく指導してきて、少しトーンダウンしたことが分かります。これにもやはり理由があります。ここまでは、教会内における道徳的な事柄、信仰と行いについて神学的な教えを説いてきましたが、この後は、その教えが、より広く、一般的と言うか、世界観というところまで展開いくわけです。社会的といってもいいかもしれません。今までの教えを、具体的な譬えで分かりやすく諭し始めます。だから今からもう一回よくお聞きなさい、という感じで初めています。もう一度13,14節をお読みします。
【13:よく聞きなさい。「きょうか、あす、これこれの町へ行き、そこに一か年滞在し、商売をして一もうけしよう」と言う者たちよ。14:あなたがたは、あすのこともわからぬ身なのだ。あなたがたのいのちは、どんなものであるか。あなたがたは、しばしの間あらわれて、たちまち消え行く霧にすぎない。】
商売のために1年間出張して儲ける、という計画です。今のような通信や交通手段、流通がない時代ですから、何をするにも時間がかかりますが、それでも、1年にわたる貿易商売ができると言うことは、仕入れもでき、運搬の旅費や滞在費も準備できるような、裕福な人であることは確かです。そのような人たちがいて、商売で儲けている人たちにとってはよくある話として、譬えに出したと考えらえます。ここの御言葉を聞いていますと、ピンとくる方も多いと思いますが、一ヶ所聖書をひきましょう。ルカによる福音書12章16節から。新約聖書109頁です。イエス様の譬え話、金持ちのお話です。
【そこで、一つの譬えを語られた、「ある金持ちの畑が豊作であった。そこで彼は心の中で『どうしようか、わたしの作物をしまっておくところがないのだが』と思いめぐらして、言った『こうしよう、わたしの倉を取りこわし、もっと大きいのを建てて、そこに穀物や食糧を全部しまい込もう。そして自分の魂に言おう。たましいよ、おまえには長年分の食糧がたくさんたくわえてある。さあ、安心せよ、食え、飲め、楽しめ』。すると神が彼に言われた、『愚かな者よ、あなたの魂は今夜のうちにも取り去られるであろう。そしたら、あなたが用意した物は、誰のものになるのか』。自分のために宝を積んで、神に対して富まない者はこれと同じである」。】
この譬えは、その直前の5節に見出しがあって「人のいのちは、持ち物によらない」と言われています。そして、最後に自分のためでなく、神に対して富むという、大切なことが教えられます。これをさらに要約すれば、マタイ6章の「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられる」という教えになるわけです。
なぜなら、命の主権は神が持たれていると言うこと。この世の全ての富、健康、労働、その成果も全て、主の御心によってあたえられているという事実、大前提があるからです。教会の中や、個人の心の中に限定されること無く。神のご主権と、ご支配。摂理の御業は、全ての世界を覆っていることを、常におぼえなければなりません。信仰を与えられた者であれば、特にヤコブが手紙を送った先はユダヤ人の信徒ですから、当然知っていたはずです。にもかかわらず、自分のために、自分中心に生活を考えてしまうのは、時代を超えた人の弱さであります、特に教会から離れ、日常に戻ると、そうなってしまう。
主が安息日を命じられた律法は、戒めではなく私たちを守り導いて下さる恵みであることが分かります。
また、マタイ伝でも、ルカ伝でも言われ、ヤコブも教えていることは、「優先順位」ということであります。この世の富、財産そのものや、儲けようとすること。商売や働きそのものを否定したり、悪いことだとは決して言っていません。富も、働く健康や、才覚も、また儲けようとする計画の成否も、すべて神様の賜物であり、御心によって与えられ、配剤なさっているわけですから、まず第一はその御心を思うこと。感謝と栄光を主に帰すことを教えています。
タラントの教えなどは特にそうです。主人から資金を託された僕たちの内、それを活かして、働いて増やしたものは褒められましたが、失うのが怖くて土に埋めて隠していた者は叱られました。私たち得ている物は全て、主から賜り、また委ねられている物ですから、これを生かす。豊かに増やして、主の恵みに報いることを主は喜ばれるわけであります。
しかし、これを忘れ、ただこの世に心を支配されることへの警告であります。神の価値観から離れ、この世の価値観で生きることの危険性を教え、戒めているわけでございます。
特に、ここでヤコブが相手にしている、裕福で社会的に成功していると言われる人達は、気づかぬうちに、自分を高くしてしまい、自らを誇る。そこにサタンが働く隙が生じます。彼は、何とかしてわたしたちを、主から離れさそうと、あらゆる策を講じて来るのであります。私たちはキリストにあって、すでにサタンの支配から解放されていますが、御霊が私たちをキリストに結びつけていて下さるからであります。これを忘れないように、日々み言葉に聞くことが肝要であると言うことになります。
そこで15節では次のように教えられます。
【15:むしろ、あなたがたは「主のみこころであれば、わたしは生きながらえもし、あの事この事もしよう」と言うべきである。】
「主の御心であれば」と。これは「主が望まれるなら」と訳すことも出来ます。主がお望みなら、主の御心に適って、はじめて人の望み、計画が成るのであります。ここでヤコブは、注意深く、「神」ではなく「主」という表現を用いています。一般的な神をさすθεοσではなく、κυριοσ。運命論とか、一般のいわゆる神々と混同されないように、私たちの主なる神様であることを、間違えようなく示しているわけです。
「むしろ」というのは「その代わりに」ということです。この世の成功を誇り、主の御心を顧みなることなく、自分の儲け話に一生懸命に心を裂いている、その代わりに、まず御心にかなうことを願い、祈りことに及ぶことの大切さを説いています。そうすれば、上手くいってもいかなくても、主に感謝し、あらゆる栄光を主に帰すことがかなうのであります。
ここのところを聖書に聞く時、よく思い出す経験があります。私がまだ学生の頃です。知り合いの年配の方に言われたことです。自分の親位の年代の方でしたが、商売をなさっていて、色々お世話になったのですが、私が教会に来だしたばかりのころ「信心は良いけど、あまり宗教に熱心になったらいかん」と、そのように言われました。日本人らしい、考え方ではあります。確かに、カルト的な宗教ほど、極端な熱心さというか、囲い込まれて、視野が狭くなるということはありますが、その方のお話は、少し違っていました。
その方は、「どうもワシは、キリスト教は肌が合わない」と仰るのです。そこで「何かあったんですか?」と尋ねると、次のように教えてくれました。「あの人たちは、ワシが何か助けてあげたり、協力しても、すぐ『神様ありがとう』というけど、助けたったんはワシやから、ワシに感謝してくれ」と。このようなお話でした。私も、まだ全然熱心なクリスチャンでもありませんし、聖書も理解できていなかったですから、「そうですね、やっぱりお礼はちゃんとしてほしいですよね。」と言った感じで、話をあわせていた覚えがあります。
私の体験ではありますが、今も覚えていて、確かに考えさせられる問題ではあります。シテのクリスチャンの方が、どのようのお話されたのか、その全部は分かりませんが、私の知人に、そのような印象が残ったようです。確かに、現実から言えば、その助けて下さった方を遣わされたのは神様のご配剤ですし、助ける力や、賜物、財力、また権威をその方に与えておられるのも、神様です。また、助けようと言う心を生じさせられたのも、主のご摂理であることは事実であります。その意味で、クリスチャンが主に感謝して、助けて下さった方と共に、主を讃えようとすること自体は、おかしなことではありません。そのような姿を通して、真の神様に目が向けられる、ということもあります。逆に今回のように躓きとなる場合もあるのです。伝道が、まさに聖霊のお働きによるということであります。
ただ、私たちもやはり、まだ神を知らない方を、置いてけぼりにしないよう、配慮が必要だと感じさせられました。相手への感謝と尊重を、表して、さらにその源である神様の栄光を表すことが出来れば、理想であります。私たちは、欠けが多い者ですから、常に祈りつつ、聖霊が働いて下さるために、福音をの言葉を届ける、ということが第一であります。
さて、少々昔話のそれてしまいましたので、御言葉に聞いて参りましょう。15節では、まず自分の願いや計画において、まず御心を願い求める姿勢の大切さが教えられました。しかし、ヤコブが手紙を送った人達は、そうではなかったと言うことです。16節をお読みします。
【16:ところが、あなたがたは誇り高ぶっている。このような高慢は、すべて悪である。】
原文では、この「ところが」の後には「現在」とか「今」という単語が入っています。今現在、あなた方は誇り高ぶっているではないか、ということです。誇り高ぶると言うのは、直訳すると「自慢のために誇っている」という意味になります。15節で確認された真理、御心のみが成る、誇るべきは主である、ということと、全く逆の姿です。自らを高めるために、自分のために誇る。このような誇りは、悪である、
と断言しています。
「誇り」と「高慢」は、同じ単語です。前者が動詞、後者が名詞の違いです。自慢するための誇りは高慢である、悪だ。商売であれば、その出資者も運用者も主である、ということを、横にいてしまっている。その意味で、律法の上に自分を置くと言う、道徳的な高ぶりは、社会生活においても同様に、主を忘れ、目を背け、その恵みと恩恵とを、自分の功績として誇ることになります。まさに、信仰がると言いながら、この世の罪の支配の下に身を置く姿を、戒めているのであります。聖書を一カ所引用します。
(ヨハネの第1の手紙2章16~17節)
【16:すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、持ち物の誇は、父から出たものではなく、世から出たものである。17:世と世の欲とは過ぎ去る。しかし、神の御旨を行う者は、永遠にながらえる。】
最後に4章17節を見てまいります。
【17:人が、なすべき善を知りながら行わなければ、それは彼にとって罪である。】
ここで、ヤコブの口調が変わっています。ここまで「あなた方」と二人称で語ってきたのですが、ここから「人が」と三人称で話しています。この17節は、ここまでの教えの締めとして、格言を述べるような形でまとめようとしているようです。ヤコブは4章の6節で、箴言3章の34節を引用していましたが、17節では、表現は違いますが、ないようとしては同じ箴言3章の27~28節を意識していると註解されています。(箴言3:27あなたの手に善をなす力があるならば、これをなすべき人になすことを 差し控えてはならない)
つまり、「為すべきこと」、「善を知りながらしない」ことは罪だ、それは悪を行っているのと同じことだ、と指摘しているのです。心に思うだけの悪が罪であるように、悪を行うだけではなく、知らされた善を行わないことも罪であると言うことを教えています。昨今のわが国でも、このような姿勢が増えているように感じられます。ちょっとした人助けや、善意を躊躇する世の中になっているのではないでしょうか。自分の仕事ではない、専門でもない。誰かがしてくれる。却って迷惑ではないか。また、ややこしいことにかかわらない、見て見ぬふり。関わらないのが安全という傾向です。しかし、これは罪だと言うことです。幼児への虐待は、とんでもないことですが、同時に、世話をしない、無視する、放置することもまた同様であるのと同じです。
私たちは、弱く、また欠けと罪の多いものですが、御霊が必要な知恵と力とを授けて下さり、必要な善を行うことが出来ますように。何よりも、人を救う神の御言葉を届けることが出来ますように、一層のお導きを祈りたいと思います。