月報 2022年2月 「神は永遠に私たちを守り給う」
私は、彼らに永遠の命を与える。だから、彼らはいつまでも滅びることがなく、また彼らを私の手から奪い取ることはできない。
私の父がわたしに下さったものは、すべてにまさるものである。
そして、だれも父の御手から、それを奪い取ることはできない。ヨハネによる福音書 10章 28節から29節
2021年の8月から、「カルヴィニズムの5特質(※)」と呼ばれる、5つの教理命題について、聖書に学んでまいりました。本稿でひとます最終回です。古くは「聖徒の堅忍」、今ではおもに「聖徒の保持」と言われる教理になります。
主なる神様の御本質の一つは、真実な(変わることの無い)お方である、ということです。このことは、私たちが救われているという、確信を得ることができる、力強い真理を示しています。これは【聖徒の堅忍】(または「聖徒の保持」) (Perseverance of the Saints)と呼ばれる教理です。その教えは「神様が、永遠から選び分かち、救いに定め、イエス様を救い主と信じる信仰を与えた人を、決して見放し給わない。」というものです。端的に表すと「一度救われた者は、常に救われている」と言うことになります。
神様は天のみ国に入るまで、必ず守り通して下さいます。み国において、神の子として永遠の命を与え、平安と喜びに満ちた、神様との交わりに導いて下さいます。標記のヨハネ福音書の御言は、このことを保証しています。私たちの主イエス・キリストの父なる神は、私たちを守り給う神です。ペテロの第一の手紙1章5節でも「あなたがたは、終わりの時に啓示さるべき救いにあずかるために、信仰により神の御力に守られているのである。」と教えられています。
「聖徒の堅忍」という言葉は伝統的に用いられてきましたが、聖徒(信徒)自身が神様に信頼し続けるという、主体性に重点が置かれています。聖徒は永遠に信じ続け、救われるというわけです。しかし、ある知り合いの牧師先生が、教職者を含めた多くの信者に話を聞いてみたところ、何と9割の人が、自分が救われていることの確信が持てていない、とのことでした。確かに、自らに置き替えてみると自信が無くなるこがあります。かつては、あんなに神様に感謝し、喜んでいたのに、昔のような感動に満たされないとか、相変わらず聖書は難しいとか、最近は礼拝にあまり出席できていない、本当に救われるのだろうか、という思いがよぎることもあるでしょう。これは信仰や救いの根拠を、人の思いや行いに置くことから生じる不安です。実際、完全に払拭することは難しいかも知れません。
しかし、聖書はそのようには教えていません。今まで聖書に聞いてきたことは、神様が、私たち自身に何らの功績が無いにも関わらず、一方的な憐れみにより、救いに選んでおられたことです。そして選んだ者を実際に救うために、ご自身の一人子キリストを地上に遣わされ、罪のあがないのために、完全な聖なる(罪が無い)捧げものとして十字架に架け、血を流し、陰府にまで落とされたという事実でした。
キリストはさらに、御自身に与えられた民の復活と、永遠の命、天の栄光を保証するための初穂として、肉体を持って甦らされ、天に昇られ、そこから聖霊を遣わし、イエス様を救い主と信じる信仰を与え、ご自身のもとへと集めておられます。選びも、あがないも、信仰も、また信仰を保ち、成長させるのも、全て主なる神様のみ力です。私たちの救いは、最初から最後まで神様のみ業なのです。私たちがどこにいても、何をしていても、意識なく眠っている時もすべて、主が共にいて下さると約束されています。「聖徒の堅忍」とは、【神様の堅忍】です。主のご決意なのです。主は一度選ばれた者を手放されることはありません。変わることなく、真実な神様のみ業ゆえに、イエス様を信じる者の救いは確実なのです。
私たちが、この主の測りがたい愛と憐れみを覚えて、少しでも、お応えしたい、と願う時。その願いも、応える力もまた聖霊によって主が与えて下さいます。主のみ業を讃美し、いかなる時も救いの平安にあずかりたいと願うものです。
<※:1618~19年オランダのドルトレヒト全国総会議で採択された、「ドルトレヒト信仰規準」(ドルト信条)に基づきます。同信条では、アルミニウス主義に対する弁証的反論がなされ、正統的改革派の信仰規準とされました。>