イザヤ書61章の、み言葉をお読みいただきました。イザヤ書61章全体では、終末における、主の民が受ける祝福。恵みと繁栄が預言され、約束されています。その中で1節から3節は、特に、救い主・メシヤご自身により、救いの宣言がなされているところであります。ここを中心に、み言葉に聞いて参りまいりたいと思います。この61章1節から3節のみ言葉は、今年のペンテコステ礼拝でも導かれた聖句ですが、約束の救い主、イエス・キリストのご降誕を記念するクリスマスを控え、あらためて、救い主が預言された、み言葉を味わってまいりたいと思います。
先週、私たちは同じイザヤ書59章のみ言葉に聞いてまいりました。そこで、主なる神様は、
神の民の中に、主に御前に立ちうる者。罪に抗い、神様の求められる、義を全うできる者がいないことに心を痛められました。そこで、そのような弱き罪人のために、主ご自身が、仲保者となって下さることを約束なさいました。それを、神様と私たちとの間の契約として立てられました。神の民と、その子供達、子孫にいたるまでの、とこしえの、恵みの契約であります。
そして、61章は、仲保者となって下さった、神ご自身であるメシヤ。救い主による独白。告白でございます。
イザヤ書には、「主のしもべの歌」と呼ばれる部分が、4カ所ほどあります。「主のしもべ」と呼ばれる存在と、そのしもべに対し、主がお命じになること。喜ばれること。祝福の実現が預言されています。「主のしもべ」自体は、イスラエルを指していたり、個人のことであたりしますが、全体としては、メシヤであるイエス・キリストと、キリストの民。頭であるキリストと、体である教会を、一体のものとして表されている、と言われています。61章のみ言葉の中には、この「主のしもべ」という言葉は出てまいりませんが、内容としては、あきらかに主のしもべであるメシヤ預言ですし、実際、他の「主のしもべの歌」と同じ表現がなされていますので、第5の「主のしもべの歌」とも呼ばれる聖句です。
それでは、少し他の「主のしもべの歌」を見てまいります。まず、42章1節(旧約1001頁)。
「わたしの支持するわがしもべ、わたしの喜ぶわが選び人を見よ。わたしはわが霊を彼に与えた。彼はもろもろの国びとに道をしめす。」
同じく、6節7節。
「6「主なるわたしは正義をもってあなたを召した。わたしはあなたの手をとり、あなたを守った。わたしはあなたを民の契約とし、もろもろの国びとの光として与え、 盲人の目を開き、囚人を地下の獄屋から出し、暗きに座する者を獄屋から出させる。」
続いて、本日の61章の1節から3節をお読みいたします。
「1 主なる神の霊がわたしに臨んだ。これは主がわたしに油を注いで、貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね、わたしをつかわして心のいためる者をいやし、捕われ人に放免を告げ、縛られている者に解放を告げ、2 主の恵みの年とわれわれの神の報復の日とを告げさせ、また、すべての悲しむ者を慰め、
3 シオンの中の悲しむ者に喜びを与え、灰にかえて冠を与え、悲しみにかえて喜びの油を与え、憂いの心にかえて、さんびの衣を与えさせるためである。こうして、彼らは義のかしの木ととなえられ、主がその栄光をあらわすために植えられた者ととなえられる。」
それぞれ、語っている主体。視点が異なっていますが、神様がご自身の民のために、地上に救い主を遣わされることが示されています。その恵みの御業も同様に表現されていることが分かります。59章では、その恵みをとこしえの契約として下さいました。そして61章では、主のしのべ、神なる仲保者がどのような方で、何をして下さるお方か、ということが表現されています。
まず、救い主・メシヤに、主の霊・聖霊が臨みました。聖霊に満たされて、主は救いの御業を始められます。地上に遣わされた、人となられたメシヤは聖霊に満たされ、そして、油を注がれ、聖別されます。油を注ぐことは、その特別な務めのために、神に召されたことを意味しています。文字通り、キリストの語源であります。
その召された第一の目的は、「福音を宣べ伝えること」でありました。直訳では文字通り「良い知らせ」を伝えるため、ということになります。「貧しい者に良い知らせを伝える」ため。貧しいは経済な意味はあまりありません。「砕かれた者」という意味です。打ち砕かれて、弱った状態。心も体も打ちのめされたような、人々。その弱き人々に、良い知らせを、主ご自身が伝えるためでした。イエス様は、山上の説教で「幸いなるかな、心の貧しき者。天国はその人の者なり」と仰いました。イエス・キリストを救い主、神の御子と信じることで、それが実現した、その事実。これこそが「良い知らせの」第一であります。
イエス様が、その良い知らせ。すなわち福音の宣教を委ねられ、遣わされた目的が続いて明かされます。それは、「心の痛める者を癒し」。これは、心を打ち砕かれ、傷き悲しんでいる人を、慰め、癒すためということでした。ですから、福音を伝えられるべき、「貧しい者」の、内面的な弱さを表していると言えます。
そして、「捕らわれ人に放免を告げる」。比喩的な表現ですが、「放免」は「自由を与える」という意味です。これは、以前にも学びました、レビ記25章のヨベルの年。50年目の奴隷解放の年に、全ての国民に宣言される「自由」が使われています。自ら逃れることができない、罪と死の奴隷から解放し、自由にして下さるという、主の恵みの時が来た、という知らせです。その時を、2節で「主の恵みの年」と表現しているのは、自由にされるヨベルの年を踏まえたものでしょう。
続く「縛られている者に解放を告げる」。告げられる「解放」とは、「目が開かれる」ことを意味しています。暗い牢獄に縛られ、閉じ込められていた者が、釈放され、明るい光にもとへ引き出されるイメージです。私たちは、み言葉をとおして、聖霊によって、心の目が開かれる、ということを体験してまいりました。信仰を与えられて、福音の光の下にいなかったら、と想像しますと、それは、本当に闇の中です。確かなものは何もない。何を掴んでいるのかも分からない。確実な希望もなければ、何が正しいかも分からない状態です。それが、罪の下にある、全ての生まれたままの人の当たり前の姿です。しかも自分自身で気づくこともできない、悲惨な状態なのです。
私たちは、主が伝えられる福音によって、そこから自由にされたわけです。死からも解放されました。この自由は、何でも好き勝ってする自由ではなく、神を愛し、神を喜ぶ自由です。善を思う自由です。欲に支配される不自由ではなく、真の愛の神様に仕える自由であります。救い主イエス・キリストによって、私たちは、真実の、永遠の自由を与えられたのであります。
61章の10節
「わたしは主を大いに喜び、わが魂はわが神を楽しむ。」
これは、主のしもべ、メシヤの言葉ですが、私たちもこのようにされます。つまり、キリストに似たものにされて行くということであります。
さて、主が伝えて下さる「良い知らせの」内容。その知らせが、私たちにもたらして下さることを、引き続き、み言葉に聞いてまいりたいと思います。2節の後半から3節を、もう一度、お読みいたします。
「また、すべての悲しむ者を慰め、 シオンの中の悲しむ者に喜びを与え、灰にかえて冠を与え、悲しみにかえて喜びの油を与え、憂いの心にかえて、さんびの衣を与えさせるためである。こうして、彼らは義のかしの木ととなえられ、主がその栄光をあらわすために植えられた者ととなえられる。」
罪と不条理の下に苦しむ、弱った者を癒し、自由と光を与えて下さる救い主は、さらに悲しむ者を慰めて下さいます。慰めるために、悲しみに変えて喜びを与えて下さいます。灰に変えて、冠。悔恨と嘆きの代わりに、栄光の喜びを。憂いに変えて、愛の主への讃美の心を与えて下さいます。苦しみから喜びへと変えられることが、畳みかけるように、繰り返し教えられています。
7節を見ますと
「あなたがたは、さきに受けた恥にかえて、二倍の賜物を受け、はずかしめにかえて、その嗣業を得て楽しむ。それゆえ、あなたがたはその地にあって、二倍の賜物を獲、とこしえの喜びを得る。」
このように、先に恥を受けて、そこから倍の賜物を受ける、と言われています。辱めの後に、賜物を得ることができます。ペテロの第一の手紙でも、ペテロが繰り返し教えていたことは、まず苦難があるのだ、ということ。しかし、耐え忍んだその先に必ず、より大きな報いを、恵みを主が備えていて下さる、ということでした。私たちの主が、そのように地上の苦難の生涯を歩まれ、復活と天の栄光に入られた姿を仰いで、耐え忍ぶようにとの励ましでした。その先に、とこしえの喜びが約束されているのであります。
「主のしもべ」はご自身が「主」であられました。主の御約束は、信仰を通して、全ての苦難と悲しみを、喜びと栄光へと切り替えて下さる、という約束であります。この真実な恵みが、私たちを讃美へ導きます。自由に主を喜び、讃美することによって、救われたキリスト者は、
「義のかしの木ととなえられ、主がその栄光をあらわすために植えられた者ととなえられる。」
のであります。
6節では、
「あなたがたは主の祭司ととなえられ、われわれの神の役者と呼ばれ」
ることになる、言われています。
また、9節では。
「 彼らの子孫は、もろもろの国の中で知られ、彼らの子らは、もろもろの民の中に知られる。すべてこれを見る者はこれが主の祝福された民であることを認める。」
この弱きものである、私たちの信仰生活を通して、主が栄光を表され、主がその民を祝福されることが明かされてまいります。主の祭司であり役者(えきしゃ)と呼ばれることは、既に召されて、恵みの契約に入れられた者、一人一人が、祭司。すなわち、キリストにあって、神との交わりを許された者であり、兄弟姉妹のために執り成し、祈りをささげる務めが与えられているということです。なぜなら、神は私たちの祈りに、耳を傾け給うからであります。
このように、紀元前700年。イザヤによって、メシヤが、良き知らせを伝えるために遣わされることが預言されておりました。そして、事実この預言通り、救い主が私たちのもとに来てくださり、預言は現実となりました。
イエス様がお生まれになり、30歳の頃バプテスマのヨハネから洗礼を受けられました。この時、聖霊がくだり、イエス様は聖霊に満たされて、荒野でサタンの誘惑を受けられます。そして、神の御子キリストは、その造り主の全能の、み力ではなく、聖霊により、聖書の御言葉の正しい理解と、へり下った正しい信仰によって、人としてサタンを退けられました。かつて、全ての必要が満たされた、エデンの園で、アダムが陥ったサタンの誘惑を、荒涼とした荒野において、打ち破られたのであります。サタンへの勝利は、創世記3章15節の原福音が成就した瞬間でもありました。
そして、サタンに勝利されたイエス様が、地上での宣教を始められる際に、生地ナザレの会堂で読み上げられたのが、イザヤ書61章の1節2節でした。そして読み終わった後、イエス様が仰いました。(ルカの福音書4章21節:新約90頁)
「そこでイエスは、「この聖句は、あなたがたが耳にしたこの日に成就した」と説きはじめられた。」
主である神様が、民に約束して下さった、主であり、主のしもべである、救い主が来て下さいました。良い知らせを伝えるために。その知らせが、現実となることを宣言されたのであります。主がお約束通り、来てくださったように。私たちの苦しみと悲しみを、どうか喜びと讃美に変えて下さいますように。ひと時の困難に耐える力をお与え下さい。
主のお約束が、何より確実であることを教えていただきました。主に信頼し、より頼む信仰を与えて頂いたことを感謝したいと思います。