思い煩いを委ねなさい
1:そこで、あなたがたのうちの長老たちに勧める。わたしも、長老のひとりで、キリストの苦難についての証人であり、また、やがて現れようとする栄光にあずかる者である。
2:あなたがたにゆだねられている神の羊の群れを牧しなさい。しいられてするのではなく、神に従って自ら進んでなし、恥ずべき利得のためではなく、本心から、それをしなさい。
3:また、ゆだねられた者たちの上に権力をふるうことをしないで、むしろ、群れの模範となるべきである。4:そうすれば、大牧者が現れる時には、しぼむことのない栄光の冠を受けるであろう。
5:同じように、若い人たちよ。長老たちに従いなさい。また、みな互に謙遜を身につけなさい。
『神は高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みを賜う。』 からである。
6:だから、あなたがたは、神の力強い御手の下に、自らを低くしなさい。時が来れば神はあなたがたを高くして下さるであろう。
7:神はあなたがたをかえりみていて下さるのであるから、自分の思いわずらいを、いっさい神にゆだねるがよい。ペテロの第一の手紙 5章 1節から7節
「7:神はあなたがたを かえりみていて下さるのであるから、自分の思いわずらいを、いっさい神にゆだねるがよい。」
今朝もペテロの第一手紙のみ言葉に導かれたいと思います。今、お読みしましたのは、5章7節のみ言葉です。ペテロの第一の手紙も、最終盤に入ってまいりました。先週、私たちは、自分のたましいを、真実なる神様にゆだねなさい、と教えられました。神の御旨に従って、苦しみを受ける。信仰ゆえの苦難は、神様のみ心によるのだから、たましいを、命を、世界と命の造り主である、神様に。しかも、真実な神様にゆだねなさい、ということでした。
なぜなら、真実なる神様は、かならず守り通して下さり、その先に、大きな栄光が約束されているのだから、ということです。ですから、試練や苦難に、驚かされ、不安にされるのではなく、むしろ喜びなさい、という教えでした。その何よりの保証は、私たちの救い主、主イエス・キリストが。実際そのようであられたからであります。
神のみ子、イエス・キリストの地上でのご生涯は、すべて苦難の内にありました。十字架の死だけではなく、復活されるまでの、人としてのご生涯すべてが、へりくだりと苦難の時でありました。聖なる至高の存在。神のひとり子にして、まことの神なるお方が、この地上に、人の姿を取って、貧しいさまでおいでになりました。罪から最も離れた、罪を犯すことのできない方が、罪にあふれるこの世に、降りて来られたこと自体が、究極のへりくだりであり、苦しみと言えます。
更に、神の御子は、救うべき人々から、あざけられ、罵られ、石を投げられ、唾を掛けられました。裁く権威を持った方が、罪人に裁かれ、呪いの木にかけられるという、苦難を歩まれたわけでございます。しかし、それは私たち。自ら救われ得ない、罪人を、救って下さるためでした。
神の戒めを完全に成就しながら、死に至るまで、従順であられたイエス様は、やがて復活と、昇天。そして今、天の神の右の座におられるという、栄光の御姿を示して下さいました。これは、私たちへの保証であります。私たちは、聖霊によって、このキリストに、霊においても、肉においても、繋げられています。私たちは、与えて頂いた信仰によって、救い主、イエス・キリストが、主となって下さり、私たちの王となって下さり、初穂として。また長子として、私たちが、そのみ足跡を、辿って、たどり着く、天の栄光の希望を、確実なものとして下さっています。
前々回。時がキーワードになっていることを申し上げました。そこには、このキリストの、苦難と栄光。謙卑と高挙が表された、時の流れも関係しています。苦難の時。へりくだりの時。それに続いて、栄光と、平安の時が備えられているのであります。
先週の4章後半からは、「ゆだねる」という言葉を、キーワードに見てまいりたい、と申し上げたと思います。4章の最後。19節での結論が「たましいを ゆだねるがよい」という教えで終わっていました。そして、先程お読みしました、5章の7節でも「自分の思いわずらいを、いっさい神にゆだねるがよい。」 という勧めで、まとめています。
4章後半は、具体的な教えに入りながら、全体的な教え。各教会全体、信徒全員に向けた教えが中心でした。5章では、更に具体的な、それぞれの立場に応じた勧めが語られています。それぞれのまとめとして「ゆだねなさい」という言葉で終わっていますが、先週少し申し上げたように、4章19節5章7節では、同じ「ゆだねる」という言葉が、全く違うギリシャ語が使われています。
4章19節は「παρα-τιθημι」というギリシャ語です。παραというのが、○○のそばに、という接頭語で、そこに「τιθημι」がついて、「任せる。」「ゆだねる。」という意味になりますが、「τιθημι」というのは、預金するとか、委託するという商業用語でもあります。ですから、大切な財産、資産を、安心な銀行に預けるとか、信託する、といったニュアンスです。そのように、最も大切な、私たちのたましい。いのちを、最も安心な、真実な神様に預けなさい。お任せしなさい、という表現をしていたわけです。
それで、5章の7節「ゆだねる」は、といいますと、こちらは「επι-ριπτω」。になります。○○の上にという、接頭語の「επι」と、投げる、投げ出す、という意味の「ριπτω」が繋がって、直訳すると「投げかける」という意味になります。「ριπτω」には、衣服を脱ぎ捨てる、という意味もあります。「投げかける」ということを、比喩的な表現で「ゆだねる」というわけです。ですから、「自分の思いわずらいを、いっさい」。全て、神様に全部なげかける。まるごとお渡しする、というように感じられます。
「思いわずらい」は「μεριμνα」という名詞ですが、元は「μεριζω」という動詞で、分ける、分割するという言葉です。いろいろな出来事。悩みや、思いに、心がバラバラに乱されて、集中できないような、ざわざわする苦しさ。それらをすべて、一切、主の前に投げ出して、お委ねしなさい。なぜなら、あわれみに満ちた神が、「私たちをかえりみてくださる」からです。
少し前、詩篇6篇のみ言葉を味わってまいりました。一日の働きを終えて、傷ついて、主のみ怒りを感じるようなことがあって、打ちひしがれた寝床での歌でした。それでも、その弱った心を、そのままに主の前に、広げて、投げ出して、み言葉に聞いて。願い、讃美する。その内に、御霊によって、こころが整えられ、励まされて眠りにつく、そのような讃美でした。
「神さまがかえりみていて下さる」。神様が私たちを心配して、気にかけていて下さる、というのです。それも、いま現在です。詩篇6篇で「主よ、かえりみてください」は、「帰って来てください」でした。しかしこのペテロの手紙での、神の「かえりみ」は「心配する」になります。私たちには、自分のたましい。命の預け先があります。造り主なる神様が、最も安全で確実に、私たちのたましいを、守り通して下さいます。み子キリスト・イエスの仲介によって、神様が受け入れて下さるのであります。また、日々の思いわずらいも、ばらばらになった、傷ついた心もまた、そのままに、委ねること、投げかけることを主が赦して下さっています。むしろ、勧めていて下さいます。
この、主の全てを引き受けて下さる、御愛と憐れみを覚えて、心からの感謝と、讃美をささげたいと願うものです。
さて、それでは、私たちを心配していて下さる神様は、どのようにして下さるか。6節をお読みします。
「6:だから、あなたがたは、神の力強い御手の下に、自らを低くしなさい。時が来れば神はあなたがたを高くして下さるであろう。」
み言葉にきいて、主の前に心をひらいて、お委ねすることで、主は、御霊によって、わたしたちを平安へと導いて下さいます。そして、さらに、「時が来れば神はあなたがたを高くして下さるであろう。」いわれています。4節で「大牧者が現れる時には、しぼむことのない栄光の冠を受けるであろう。」 という通り、大牧者。イエス・キリストの再臨の時。最後の審判において、永遠の栄光へと入れて下さる、それが確実であるということです。
そのために、私たちに勧められていることは「自らを低く」すること。「謙虚」ということであります。前回から今回。「ゆだねる」というキーワードに注目してみました。ここで、同時に、全体を通して、教えられているキーワードが「謙虚」ということになると思います。なぜなら、私たちが味わう苦難や、おとずれる試練に耐える力の源にあるのは、先に申し上げたとおり、み子イエス・キリストのヘリ下りにあるからであります。
ペテロは、常にイエス様のお姿を通して、謙卑と高挙を思い起こして、全ての信徒たちに教えていることが分かります。本日のみ言葉を、頭から見てまいりましょう。1節から3節。
「1:そこで、あなたがたのうちの長老たちに勧める。わたしも、長老のひとりで、キリストの苦難についての証人であり、また、やがて現れようとする栄光にあずかる者である。
2:あなたがたにゆだねられている神の羊の群れを牧(ぼく)しなさい。しいられてするのではなく、神に従って自ら進んでなし、恥ずべき利得のためではなく、本心から、それをしなさい。
3:また、ゆだねられた者たちの上に権力をふるうことをしないで、むしろ、群れの模範となるべきである。」
ここから、ペテロは、手紙を書き送った教会の、ここの立場の人々に教えていきます。特にここは、教会制度や、牧会。長老について学ぶ際に、必ず引用される聖句でもあります。長老であるペテロが、長老たちに勧めている。それも、つよく勧める。懇願するような教えです。その内容は、長老の務めと、その務めを果たす手段。心がまえです。
内容に入る前に、2節と3節で二度「ゆだねられた」という言葉が出てきます。しかし、ここでは「ゆだねる」。とか「まかせる」。といった単語は使われていません。2節の「あなたがたにゆだねられている神の羊の群れ」は、「あなたがたの、なかにある」とか、「内にいる」、神の羊の群れ。という意味です。3節の「また、ゆだねられた者たち」、というところは、「分配された、割り当てられている人々」。という意味の言葉になります。意味的にまちがっているわけではありませんが、日本語の翻訳の難しいところです。同じ「ゆだねる」という言葉を使うことで、4章19節と、5章7節の対比が、分かりにくくなっていると感じます。
戻りまして、長老の務めは、「神の羊の群れを、」牧(ぼく)すること。そのために用いられるべき手段は、「模範となること。」の2点に集約されています。対象が、「神の羊の群れ」。神さまの民、神様のものを、牧(ぼく)する。つまり養い、世話をする、ということです。神の羊を養うために必要な糧は、み言葉であります。したがって、長老は、福音のみ言葉を正しく理解し、それを語るか、体現することが求められている、ということです。長老とは、そのために主が召された、ということであります。主が召された人を、信徒が選ぶわけです。
一ヶ所、聖書を引きます。新約聖書304頁。エペソ人への手紙 4章11節から13節です。
「11:そして彼は、ある人を使徒とし、ある人を預言者とし、ある人を伝道者とし、ある人を牧師、教師として、お立てになった。12:それは、聖徒たちをととのえて奉仕のわざをさせ、キリストのからだを建てさせ、
13:わたしたちすべての者が、神の子を信じる信仰の一致と彼を知る知識の一致とに到達し、全き人となり、ついに、キリストの満ちみちた徳の高さにまで至るためである。」
「そして彼は」とあるように、これらの奉仕者を立てられたのは、イエス様であることが明言されています。また、ここでは「使徒」。「預言者」。「伝道者」。「牧師・教師」と、4つの職務が示されていますが、これは、それぞれの賜物による、働きの面が述べられていることになります。牧師と教師は、同じです。四つとも、長老ということになります。使徒の筆頭であるペテロ自身、「わたしも、長老のひとり。」と、自分のことを表しています。
このように、長老は、イエス様が教会のため、信仰と知識の一致のために、立てられた存在だということです。長老が立てられる、ということは、それほどに教会にとっては、喜ぶべき、主の祝福であります。
ただ、このように、聞いてまいりますと、自分が長老として召され時、どれだけよくわかっていなかったかを思い知らされます。また、長老というものを、重責に感じる方もいらっしゃるかもしれません。しかし、ペテロは教えています。「神に従って自ら進んで」なすように。主が召して、立てられたのですから、その主に頼って、ただ従えばよい、ということです。
そして、務めのための手段も教えられます。それは「群れの模範となる」ということです。主が立てられたということは、主の権威を伴います。しかし、権力を使って支配する、というのではなく、「模範となる」ことが勧められています。それでもまだ、人の模範となること自体、恐れ多いと感じてしまいます。自分が模範になれ、と言われれば、しり込みしてしまいそうです。
もう一ヶ所、聖書を引いてみましょう。コリント人への第一の手紙、11章。新約聖書268頁です。11章1節。
「わたしがキリストにならうものであるように、あなたがたも わたしにならうものになりなさい。」
つまり、長老自身が模範、というより、「キリストを模範とする模範」ということになります。何か、立派であろうとするより、キリストを模範とする、へり下った姿が求められています。この姿自体、御霊の賜物であります。
そこから、5節をお読みしますと。
「5:同じように、若い人たちよ。長老たちに従いなさい。また、みな互に謙遜を身につけなさい。『神は高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みを賜う。』 からである。」
長老ではない人々。ここでは「若い人たち」と呼ばれていますが、一般の信徒も、長老と同じく、互いに謙遜であるように、という教えです。5節の中の、『神は高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みを賜う。』 は、箴言3章34節の引用で、ヤコブの手紙、4章6節でも、全く同じ聖句が引用されていました。ヤコブの手紙の4章の前半のまとめは、10節の「主のみまえにへりくだれ。そうすれば、主はあなたがたを高くして下さる」でした。初代教会の、最も早くに書かれた手紙と、後半の手紙で、二人の教会の柱から、同じことが教えられていることも覚えたいと思います。
イエス・キリストが、私たちを、死と滅びから救うために、この世で低くあられたこと。そしてその後、栄光のお姿を示して下さいました。私たちも、この主に倣って、神様のみ前に、心を低く、たましいをゆだね、また日々の思いわずらいを、すべて一切をお委ねできる幸いを覚えて、地上の困難を、「神の羊の群れ」。単数です。一つの群れとして、共に歩んで参りたいと思います。