富める者の責任
1:富んでいる人たちよ。よく聞きなさい。あなたがたは、自分の身に降りかかろうとしているわざわいを思って、泣き叫ぶがよい。
2:あなたがたの富は朽ち果て、着物はむしばまれ、3:金銀はさびている。そして、そのさびの毒は、あなたがたの罪を責め、あなたがたの肉を火のように食いつくすであろう。あなたがたは、終りの時にいるのに、なお宝をたくわえている。
4:見よ、あなたがたが労働者たちに畑の刈入れをさせながら、支払わずにいる賃銀が、叫んでいる。そして、刈入れをした人たちの叫び声が、すでに万軍の主の耳に達している。
5:あなたがたは、地上でおごり暮し、快楽にふけり、「ほふらるる日」のために、おのが心を肥やしている。
6:そして、義人を罪に定め、これを殺した。しかも彼は、あなたがたに抵抗しない。ヤコブの手紙 5章 1節から6節
【2:あなたがたの富は朽ち果て、着物はむしばまれ、3:金銀はさびている。そして、そのさびの毒は、あなたがたの罪を責め、あなたがたの肉を火のように食いつくすであろう。あなたがたは、終りの時にいるのに、なお宝をたくわえている。】
ヤコブの手紙5章2節3節の御言でございます。今朝は、ヤコブによる、富める者。裕福な者に対する、警告と招きを聞いて参りたいと思います。
先週、4章の後半では、高慢な人、全てを与え、摂理されている神をその土台とせず、また中心に置かない、自分中心な義と人への戒めを教えられました。私たちが、なにを計画し、また望むにしても、まずは御心を思うことの大切さ、ということでありました。この世での人間、特に権力がある、財力がある、能力がある、力を誇るものは、弱い者、劣る者を裁き、与えられた者を自らのものとして誇り、自分を高くします。結局それは、自分を神様の上に置くと言う行為で、そこに罪があるのであります。そして、それはこの世ではある意味認められている、人の姿でもあります。
前回、私の若い頃の話で、あまり宗教に熱心にならんように、という忠告を受けたことをお話しました。非常に日本人らしい姿勢ではあると思います。神様仏様には敬意を払うけど、ほどほどに。ということですが、商売をしていたら10日恵比寿とか、御稲荷さんに参る。免許取ったら何とか神社、厄払いはどこそこ、というように、自分に都合のいい、役に立つ物だけ認める、崇める。
そういったものに頼ろうとするなら、本当の神様であれば、私たちがお仕えしなければならないにも関わらず、神を自分に仕えさせようとしている、自分中心の信仰。自分が悔い改めなくても済む信仰です。その根本には、自分への過信とか、プライド。高慢があって、神様を敬いながら知ろうとしない、仕えないという、エデンでの堕落以来、人が持つことになった罪の姿であります。特に、この世での力がそれを助長させることを、ヤコブは警告していました。
さて、本日は5章に入りました。まず1節。
【1:富んでいる人たちよ。よく聞きなさい。あなたがたは、自分の身に降りかかろうとしているわざわいを思って、泣き叫ぶがよい。】
1節の始まりは、4章13節と同じ「αγε νυν」。今聞きなさい、今ここへ来なさい、という言葉で始まっています。特に「富んでいる人たち」と、豊かな人を具体的にさして呼びかけています。4章の話を引きついで、豊かな、富める人々について語っていきます。ただし、この1節から6節で、語られる対象というか、引き合いに出されている人たちは、ここまでとヤコブが「兄弟たちよ」と語りかけていた相手とは、微妙に違ってきていることが分かります。
今までは、あくまでキリストの教会の中で、信仰があると言いながら高ぶっている有力者や、裕福な人に対して、あなたたちこんなだ、そんなことをしてはいけない、こうしなさい・・と教え諭してきましたが、5章の1節から6節で書かれているの、裁かれる姿になっています。不信仰ゆえに、主の裁きに合う人のつある姿だけが表されています。註解者は、ヤコブが旧約の預言者を意識している、と説明しています。そうは言えないとする人もいるのですが、じっくり読むと、やはりここは預言的であると言えます。今お読みした1節でも、「泣き叫ぶがよい」と命令形で書かれています。これは「kulaio-」と「ololyzo-」という言葉で、どちらも泣く、泣き叫ぶと言う意味の言葉が組み合わさっていますが、これは旧約預言書で、主の裁きの日に、裁かれる悪人の姿として使われる単語になっています。特に「ololyzo-」は預言書にしか使われていません。
一ヶ所、引用します。旧約聖書959頁、イザヤ書13章6節。
【あなたがたは泣き叫べ。主の日が近づき、滅びが全能者から来るからだ】
このように、不信仰で、裁きの日、最後の審判とも終末の時とも言われますが、その時の姿を予言しています。同じように、本日の1節から6節も、信徒への戒めではなく、明らかに裁かれる、不信者の姿として教えています。カルヴァンは、ヤコブがこのような裁かれる不信者の姿をここに書いたことについて、次のように説明しています。
「ヤコブは、忠実に生きようとする者たちが、金持ちたちの哀れな最期のことを聞いて、彼らの富をうらやむことがないように、と考えている。そして、彼らを苦しめた悪者たちには神が復讐されることを知って、彼らが穏やかな心と忍耐をもって苦しみをも耐えることが出来るように、と考えている」
カルヴァンはこのように、圧迫され、苦しめられる信徒への慰めを読み取っています。と同時に、教会内の富める人たちに、裁かれる者の姿を思い起こしてもらう意図を持っていたようです。その根本には、マタイ19章でイエス様が仰った有名な教えがあります。マタイによる福音書19章23節から24節を読みします。(新約聖書31頁)
【それからイエスは弟子たちに言われた、「よく聞きなさい。富んでいる者が天国に入るのは、むずかしいものである。また、あなたがたに言うが、富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」】
これは富んでいものが救われない、ということではなく、人がこの世の富に支配されやすく、また貪欲に与えられる以上にこれを求めるものだという、教えであり導きであります。主が、この世の愚かな者、弱いものをより選ばれたのは、何より誇るべきは神のみであることを、強い者、有力なものに教え、主の御前に平伏させて、彼らをもお救いになるためでした。ヤコブの目的も、同じであったと言えます。
続いて、この世の富のはかなさと、富を朽ち果てさせるものについて聞いて参ります。2節から3節。
【2:あなたがたの富は朽ち果て、着物はむしばまれ、3:金銀はさびている。そして、そのさびの毒は、あなたがたの罪を責め、あなたがたの肉を火のように食いつくすであろう。あなたがたは、終りの時にいるのに、なお宝をたくわえている。】