月報 2022年1月 「みことばの力」
『御言(みことば)には、あなたがたの たましいを救う力がある。』ヤコブの手紙 1章 21節
☆2022年度も、標語聖句にいくつものご提案をいただき、標記の御言に決定いたしました。コロナの影響で日常生活の様々な面で、これまで普通に行われてきたことが出来なくなりました。キリスト教会も礼拝や伝道活動のあり方、持ち方が問われ、見つめ直す必要に迫られました。主なる神様が統べ治めておられる世界は、その深い憐れみによって保たれている現実。私たちが当然のように受け取っていたものが、ただ主の恩恵に過ぎなかったことを再確認し、主の御前に平伏し、主を呼ばわることを余儀なくされました。
このように迷い多い2年間を経て、あらためて辿り着いたところは、信仰の基本であります。それが今回の聖句で教えられています。すなわち「神様の言葉の力」に信頼する、ということです。この御言では、私たちの「たましい」を救い得るのは、神様の御言だけであることが宣言されていす。
では、たましいを救うとはどういう意味でしょうか。「たましい」という言葉は、他に、息とか生命、霊魂などと言った意味があります。いずれにも、物理的な肉体(の生命)ではなく、霊的な部分を指しています。すなわち、神の言葉である聖書は、肉体の生死を超えて、その源であり本質である「たましい」を救うということです。具体的には、御言によってキリストを救い主と信じる信仰を与えられ、信仰が認められて、御国での永遠の命が保証されていることを教えています。
更に、今回の聖句にある「救い」は天国での永遠の平安にとどまらず、この世の人生においても、御言によるたましいの救いがあることを教えています。御言によって、創造主にして全知全能の唯一の真の神を知り、その愛と憐れみに感謝し、喜んでこの方に聞き従おうとする自由な心が与えられ、天国の確信のうちに、消えることのない希望を頂いています。それが、この世でのたましいの平安をもたらしてくれます。
ヤコブの手紙1章21節は、「だから・・」という接続詞で始まっています。この「だから」の元は1章18節の御言になります。18節では「父は、わたしたちを、いわば被造物の初穂とするために、真理の御言によって御旨のままに生み出して下さったのである」と語っています。これはクリスチャンに向かって語られた言葉です。神様はその御言によって、私たちを新たに生み出して下さった。神の御子キリストの民として下さったことを意味します。私たちの信仰は、私たちの思い、感情、決断といった形に表れ出てきますが、その源は神の御言であります。
そして21節の中で「心に植えつけられている御言を、素直に受け入れなさい」と教えられます。神様はご自身の言葉である聖書を通し、聖霊を私たちの内に遣わして下さいます。その聖霊のお働きによって初めて、私たちはイエス・キリストを主と呼ぶことが出来るようにされます。私たちの信仰は、その主体が私たちではなく、神様ご自身にあると言うことです。永遠の命へとたましいを救う信仰は、罪深く、移り気で、高慢、自己中心な弱い私たちによるものではなく、真実なる神様の御業なのです。ですから、私たちが生きていても、たとえ死んでも「主が」共にいて下さり、終わりに至るまで固く守り通して下さいます。ここに救いの確信と、保証があります。
これが神の御言の力であります。聖書は神話ではなく、人の知恵にあらず、人の命と魂を救う力ある神様の言葉です。罪のこの世の呪縛から私たちを自由にし、神の御許へと招くために、キリストへと私たちを繋いで下さる聖霊が働かれる場でもあります。この神の愛に満ちた御言を賜っている恵みに感謝し、日々、御言に聞き、御言をたましいの糧とし、やがて御国に召されるまで、その道中の道標、灯として、共に祈りつつ、歩んでまいりたいと願っています。 〔牧師 土井 浩〕