月報 2021年12月 「願いを起こさせ給う神」
『あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起こさせ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。』ピリピ人への手紙 2章 13節
☆全知全能の創造主にして全世界の主権者であられる、唯一の生けるまことの神様。キリストにあって、私たちの主となって下さった、神様が御心のうちに定められたことは確実に成就し、現実となります。
11月号ではローマ人への手紙8章から、神様の御心、御子キリストに与えられた民への愛。これを妨げることができるものは、何であれ存在しないことを学んでまいりました。それは【不可抗的恩恵】または、「有効的(奏功的)恩恵」と呼ばれる、聖書が教える大切な真理(教理)であり、大きな恵みの宣言でもあります。この恩恵には、私たち自身も抗えません。それは神様が圧倒的な御力で、私たちに強制されるということでしょうか。しかし、私たちは自分の意志で洗礼を受けるかどうか、また信仰を告白するかどうかを決断し、教会に集うのも、聖書を読むのも、自らの自由でこれを行っています。逆に、そうしないことも、私たちの自由ではないのか、という疑問が生れてきます。今回は、「不可公的恩恵」と自由意志の関係について、もう少し聖書に聞いて参りたいと思います。その意味で、標記の聖句は、この疑問への解答でもあります。
神様は、私たちの「うちに」働きかけられる。聖霊によって、心・魂に働きかけて下さり、私たちに願いを起こさせ給うのであります。しかし、それは私たちの自由を妨げるものでも、強制的に従わせる(それも可能ですが)というものでもありません。逆に、自由が与えられるのです。私たちが自由にイエス様を救い主と信じるようにして下さるという意味です。なぜなら、私たちは元来、真の神様を知りイエス様を信じる自由を持ち合わせていないからです。神様が内に働いて下さらなければ、御言を聞いても聞けない。罪の奴隷で、善に不自由な状態に気づけていないのです。ここに、神様の選びによる不可抗的恩恵が及びます。
たとえば、イエス様は、死んで墓に入れられたラザロを生き返らされましたが、この時、ラザロがそれに逆らって、死んだままでいることが出来たでしょうか。同じように、霊的に死んでいる(全的堕落)者は、神がその人を霊的死からよみがえらせようとされた時、抵抗できません。必ず生き返るのです。
ヨハネによる福音書6章37節で、イエス様は『父がわたしに与えて下さる者は、皆、わたしに来る』と仰いました。皆が確かに「来る」のです。「来る」ということは、自分の意志で自由にイエス様の下にやって来ることを意味します。しかし、6章44節では次のように教えられます。『わたしをつかわされた父が引きよせて下さらなければ、だれもわたしに来ることはできない』。つまりキリストの民に選ばれた者は、自らイエス様の下に来るのですが、それは、神様が引き寄せて下さっているから出来るのだということです。
神様は永遠のうちから、一人一人に、それぞれの道を備えて下さっています。私たちは、自分専用に備えられた、道筋を通って、イエス様のもとへと引き寄せられ、たどり着くのであります。きっかけは、家族や友人がクリスチャンだったり、近くに教会があったり。偶然聖書やトラクトを読んだ。ラジオやテレビの伝道など、色々あります。しかしどれもが、他の人には意味がなかったり、逆に躓きになることもあります。
その道が近いか遠いか、平坦か険しいかなど、感じ方はそれぞれです。ただ、主が一人一人をご存知で、愛しておられ、各自が御下にたどり着くための道を備え、必ずたどり着くように導き、歩ませて下さっている、ということが真実です。結果として教会に足を運ぶ、聖書読む、讃美歌に耳を傾ける。イエス様を神の御子、救い主と信じ、悔い改めて従おうとする。これらは私たちの自身の行為で、自分の自由意志で行いますが、その根本的主体は神様であることを教えています。主が御霊を遣わして、私たちの内に働きかけ引き寄せて下さる、神の御業であって、それ故、これを妨げることは誰にもできないのであります。
この恵みの真理は、神様が真実な方であるという御本質とつながり、もう一つの、力強い真理を私たちに示してくれます。それは【聖徒の堅忍(保持)】(Perseverance of the Saints)と呼ばれる教理です。この教えについては、また別の機会に聖書から導かれたいと思います。 〔牧師 土井 浩〕