主は心を見られる
<1 人が地のおもてにふえ始めて、娘たちが彼らに生れた時、2 神の子たちは人の娘たちの美しいのを見て、自分の好む者を妻にめとった。3 そこで主は言われた、「わたしの霊はながく人の中にとどまらない。彼は肉にすぎないのだ。しかし、彼の年は百二十年であろう」。4 そのころ、またその後にも、地にネピリムがいた。これは神の子たちが人の娘たちのところにはいって、娘たちに産ませたものである。彼らは昔の勇士であり、有名な人々であった。5 主は人の悪が地にはびこり、すべてその心に思いはかることが、いつも悪い事ばかりであるのを見られた。6 主は地の上に人を造ったのを悔いて、心を痛め、7 「わたしが創造した人を地のおもてからぬぐい去ろう。人も獣も、這うものも、空の鳥までも。わたしは、これらを造ったことを悔いる」と言われた。8 しかし、ノアは主の前に恵みを得た。
9 ノアの系図は次のとおりである。ノアはその時代の人々の中で正しく、かつ全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。>創世記 6章 1節から9節
<5 主は人の悪が地にはびこり、すべてその心に思いはかることが、いつも悪い事ばかりであるのを見られた。6 主は地の上に人を造ったのを悔いて、心を痛め、7 「わたしが創造した人を地のおもてからぬぐい去ろう。人も獣も、這うものも、空の鳥までも。わたしは、これらを造ったことを悔いる」と言われた。8 しかし、ノアは主の前に恵みを得た。>
創世記6章5節から8節の御言でございます。ここは、ノアの洪水の直前に、洪水によって裁きを行われる主なる神のご決意を記したところであります。本日はここから、私たちの主は、天地を造り、統べ治めておられる唯一のまことの神であられること。その主が、私たちの心を知っておられること。私たちの心に目をとめておられるお方であること。それ故に、私たちを救う恵みに満ちた神であられることを聞いてまいりたいと願っております。
ご存じの通り、ノアの洪水の出来事は、創世記前半の一大事件であります。世界の創造が終わり、その後、主に背く罪を犯して堕落し、エデンを追放された人間が、地上に増えていくことになりました。その過程で、原罪を負った人間は、一層主を離れ、畏れることを忘れ、罪に満ちた世界となっていく過程が描かれています。人類の第2世代。アダムとエバの子であるカインによって、最初に人の命を奪うと言う行為が行われました。カインの罪は、同様のことが自らにも起こりうることを世にもたらしてしまいます。ただ、その中でも主は、復讐ということを禁じられました。命への報いは主が行われる。全ての人の命の主権が、主にあることを宣言されました。
それでも、人の堕落は加速し、カインの子孫であるレメクは、初めて複数の妻を持ち、自分が傷を受けたら相手の命を奪う、という勝手な宣言をするようになります。また、カインへの復讐が7倍なら、レメクへの復讐は77倍という、主が定められた復讐を禁じるための戒めまで、曲解し、主の上に自分を置くような傲慢さを示すようになってしまいました。このように、人は増え拡がり、文化も進んでいきますが、同時に、その高慢と神に背く罪も進み、世界を満たしていくことになったのであります。
ここから、本日の御言を見てまいります。6章1節から3節。
【1 人が地のおもてにふえ始めて、娘たちが彼らに生れた時、2 神の子たちは人の娘たちの美しいのを見て、自分の好む者を妻にめとった。3 そこで主は言われた、「わたしの霊はながく人の中にとどまらない。彼は肉にすぎないのだ。しかし、彼の年は百二十年であろう」。】
人間が増えてきたとき、神の子たちは「自分の好む者を妻にめとった」とあります。神の子というのは、被造物としての人類一般か、あるいは限定的に考えれば、アダム、セツと主の民の系図に繋がる人々という意味になります。御子イエス・キリストを指す場合神の子ではありません。また、娘たちとはカインの子孫たち。神のみ前から離れ広がっていった人々、その娘だと考えられます。ここでのポイントは、人がが「自分の好む」まま妻をめとった、という点です。結婚も本来は、主の召しの確信と誓約のもとになされるべきものでしたが、御心に聞くことなく、気にせず、あるいは御心に適わないような形であっても、好むままに、自分勝手に結婚するようになっていた、ということであります。これは旧約聖書でたびたび出てきます。ヨシュア記でもそうですし、サムエル記や列王記でも、まことの神主から離れた異教徒の女性との結婚が原因で、偶像礼拝を進め、神の怒りに触れる王達が多く出てきます。士師記でも、キーワードとして、最後書かれた言葉は「おのおの自分の目に正しいと見るところを行った。」という御言でした。このように、人は神から離れ主の御心、教えを聞かずにいるほど、罪に支配され、罪を拡大させていく存在ということが明らかにされています。
ここで、3節にありますように、主は人の寿命を短くされるように定められました。120年というのは、100歳を少し超えた位という意味ですが、アダム以降、ノアまでの系図では、平均的な寿命は900歳を超えています。しかし、ノアの洪水以降、ノアの子セムは600歳、その後だんだん短くなり、アブラハムの父テラは205歳と、代を重ねる毎に半減していくことが分かります。ノアの洪水の前後で、この世界の仕組みを主が大きく変えられたことが分かってきます。短くされたのは、単に生命の短縮ですが、裁きの執行猶予期間の短縮と考えることもできそうです。「わたしの霊」神の霊が長くとどまらないのは、その原罪によって、一層神から背きつつあるから、と考えられます。神の霊は、神に従順な人の中で、御心にかなう本来の目的を果たすためにおられます。元々、そのように地の塵に神がその息、魂を吹き込まれて生きる者とされたのが人ですから、不従順によって神の霊が抜けると言うことは、それは死を意味すると言うことになります。不信仰の責任は人が負わなければならないということであります。
4節のネピリムと呼ばれているのは、体の大きな巨人といわれる人々のようです。彼等も洪水で滅ぶのですが、少し前、民数記でモーセがカナンの地に送った斥候が、その報告で、イスラエルの人々に悪く言った時に、「ネピリムから出たアナクの子孫ネピリムを見ました。」といって、人々を怖がらせて心を折って主に背かせたことがありました。直接の子孫ではないでしょうが、非常に対格のよい、屈強な民族を指していると思われます。ネピリムの語源は「落ちる」という意味の「ナーファル」というヘブル語で「堕落した者」になります。最近の訳では「ネフィリムとかネフィリーム」と音訳することが多いようです。ダビデに倒されたゴリアテも身長が6キュビト半、訳3メートルといわれますから、大柄な人間がある程度存在していたようです。
さて、5節以降が、ここでの核心的なテーマになると思われます。人が主を顧みず、好みのままに振る舞い、やがて主が【人の悪が地にはびこり、すべてその心に思いはかることが、いつも悪い事ばかりであるのを見られ】ました。そして悔いて、心を痛められます。「心を痛められる」ことが中心です。「悔いて」と書かれますが、神様が創造の御業が不完全だったことを後悔されているとか、御計画の見通しを誤られて、やり直された、ということでは決してありません。全能の神は、全地の神で永遠のお方です。御自身には変化がありません。民数記23:19やサムエル上15:29でも、主は人のように悔やまれることがない。悔いることができない、と書かれています。変わるのは、人の方であって、人の心や態度。その変化に応じて、対応や報いを備えておられるということになります。人の視点から見た、擬人的な表現です。神は、人の悪が地にはびこること、心に思い図ることが常に悪に流れることを、嘆かれ、相応しい報い。大洪水という、最初の大規模な主の裁きを決意されたのであります。
ノアの洪水の事件の重要性の一つは、その前後で、この世界の様相が変わった、という点が挙げられます。物理法則というか、世の理を神様が操作された、摂理されたというところです。先の人間の寿命もそうですが、9章以降では、人間の食べ物も変わっていきます。人間と生き物の関係も変わったということです。さらに、主なる神は、もう世界を洪水によって滅ぼすことはしない、と約束して下さいます。主は、ノアとその子孫らとの間に。また全ての生き物との間に「契約を立てて」下さいました。その印が虹ということでした。そのご契約によって、保たれてあるのが、今私たちが生きている世界に繋がっているわけであります。主は、この世界をお造りになられたように、いつでもそれを自由に操り、変更し、ご支配される全能の神であられます。
ここでは、神様がどのように、何を基準にこの世界を取り扱われるか、摂理されるのかということの一面が教えられています。5節の【5 主は人の悪が地にはびこり、すべてその心に思いはかることが、いつも悪い事ばかりであるのを見られた。】という通り、主は人の心を見られるお方だ、ということであります。その心をみて、常に悪であること、それによって暴虐が地に満ちてため、これを拭い去るようにされたのであります。神は人の心をご存じで、それを見られて、それによってこの世を摂理されるという原則が、すでに示されているわけでございます。
主は、私たちの心をご覧になります。以前に詩篇139篇を、学びました。詩篇139:1-2,4(P871)
【1 主よ、あなたはわたしを探り、わたしを知りつくされました。2 あなたはわがすわるをも、立つをも知り、遠くからわが思いをわきまえられます。・・4 わたしの舌に一言もないのに、主よ、あなたはことごとくそれを知られます。】
人は、その現われて来ることでしか、他の人を測ることができませんが、主は心をご存じであります。「知りつくされました」とあるように、見えない人の心を全て、その思いを知られます。私たちは、主の御前に、一切の隠し事も、取り繕うことも叶いません。しかも、自分でも気づかない思いや、未来の思いまで、「そのことごとくをあなたの書に記された」と言われるように、主こそが私たちを誰よりも全てご存じであるということであります。
主が、ご存じである人の心とは【すべてその心に思いはかることが、いつも悪い事ばかり】であることを思い知らされます。確かに、良心もあれば、なにがしか良いところもありますが、全て良いものは上から、と言われるように、それは賜物であります。例え信仰が与えられて、救いが確実であっても、召されるまでは、あるいは御国に入るまでは日々罪とともにある存在です。まして、まことの神を知らずにいる状態では、例えこの世的には、表面的にはどれだけ立派で、善良に見えても、主のみ前では全ての人の心は、神から目を背けよう、知らずにいようとする罪に支配された、裁かれるべき存在でしかないと言うことであります。
そして、心の罪から現実の世界の罪が及んでいきます。カナンの地も罪に満ちていました。ソドムとゴモラも同様です。ニネベもその悪が主の前に上がってきたため、40日後に滅ぼす、という警告がヨナを通して宣べ伝えられました。ニネベでは、全ての民が悔い改め、御前に平伏したため、一時的に裁きを免れることになりましたが、やがてそれを忘れて、滅びることになってしまいます。マタイ伝の5章でイエス様が、【しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。】と教えられたように、主は行いではなく、信仰によってわれらを救い給うということは、裁きもまたその行ないだけではなく、心によって判断されるということであります。
このように、人の心を見られた主が、満ちた悪を拭い去るために洪水を用いられますが、それでも、ノアと子孫をお救いになります。洪水の後の世界に、あらためて環境を整え、命を繋ぐために。御自身の形を与えるほどに愛して下さった人を、救うために、その先に完全な救いのために、御子イエス・キリストを遣わしてくださるために、もう滅ぼさないという、契約を立てて下さいました。ノアの洪水とご契約は、主がご自身の心に決意されたように、ただ主の恵みによらなければ、救いも命もあり得ないことを示す、そのような出来事でありました。
私たちは、見えない心と、現実の世界を切り離して、まるで直接関係がないことのように思い、振る舞ってしまいます。しかし、実際には、主なる神が私たちの心を見られて、それによってこの世界を摂理去れている事実がございます。わたしたちの心は罪が消えることがありませんが、それでも、その中に与えられている信仰を主が見ておられます。ですから、このまことに小さな信仰。けし粒のように思える信仰でも、主の憐れみに満ちた賜物として、主のご節理の種、世界を支える宝物として、大切にしたいと願うものです。
この世の歩みの中で、私たちは様々な試練や困難に遭遇します。その中で、この世での命がいつどのように尽きるかも知らされておりません。しかし、キリストを信じる信仰を与えられた者にとって、信仰の大きさに関係なく、それは召される、ということであって、裁きではありません。一時の患難から永遠の喜びと平安へと入れられるということであります。この主の恵みを覚え、信仰の種を守り育てることができますよう、御霊の助けを祈りつつ、御言に聞いてまいりたいと思います。
マタイ22:37-38(P37)をお読みします。
【37イエスは言われた、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。38これがいちばん大切な、第一のいましめである。】
神なる救い主、イエス様ご自身が「一番大切な」と教えておられることは、心と精神と思いをつくして主なる神を愛することでした。これは申命記で繰り返される御言の引用ですが、その最初の部分、申命記6:4-7(P255)を引かせていただきます
【4 イスラエルよ聞け。われわれの神、主は唯一の主である。5 あなたは心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、主を愛さなければならない。6 きょう、わたしがあなたに命じるこれらの言葉をあなたの心に留め、7 努めてこれをあなたの子らに教え、あなたが家に座している時も、道を歩く時も、寝る時も、起きる時も、これについて語らなければならない。】
心を尽くして主を愛する理由は、主が唯一の主であること。その主なる神がまず私たちを愛して下さっていることです。そして、主を愛することは「これらの言葉を心に留め」ること。聖書に聞くことによって叶います。そして、それを子らに教えること。まことの神に聞いて従って宣べ伝えようという心を主が見られ、そこに時と場所と力を備えられるのであります。主を信じる心が世を動かすと言う原理を覚え、この世を歩む力として参りたいと思います。