互いに祈りなさい
12:さて、わたしの兄弟たちよ。何はともあれ、誓いをしてはならない。天をさしても、地をさしても、あるいは、そのほかのどんな誓いによっても、いっさい誓ってはならない。むしろ、「しかり」を「しかり」とし、「否」を「否」としなさい。そうしないと、あなたがたは、さばきを受けることになる。
13:あなたがたの中に、苦しんでいる者があるか。その人は、祈るがよい。喜んでいる者があるか。その人は、さんびするがよい。14:あなたがたの中に、病んでいる者があるか。その人は、教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリブ油を注いで祈ってもらうがよい。15:信仰による祈は、病んでいる人を救い、そして、主はその人を立ちあがらせて下さる。かつ、その人が罪を犯していたなら、それもゆるされる。16:だから、互に罪を告白し合い、また、いやされるようにお互のために祈りなさい。義人の祈は、大いに力があり、効果のあるものである。
17:エリヤは、わたしたちと同じ人間であったが、雨が降らないようにと祈をささげたところ、三年六か月のあいだ、地上に雨が降らなかった。18:それから、ふたたび祈ったところ、天は雨を降らせ、地はその実をみのらせた。
19:わたしの兄弟たちよ。あなたがたのうち、真理の道から踏み迷う者があり、だれかが彼を引きもどすなら、
20:かように罪人を迷いの道から引きもどす人は、そのたましいを死から救い出し、かつ、多くの罪をおおうものであることを、知るべきである。ヤコブの手紙 5章 12節から20節
【13:あなたがたの中に、苦しんでいる者があるか。その人は、祈るがよい。喜んでいる者があるか。その人は、さんびするがよい。】
【16:だから、互に罪を告白し合い、また、いやされるようにお互のために祈りなさい。義人の祈は、大いに力があり、効果のあるものである。】
ヤコブの手紙、5章13節と16節の御言でございます。これまで、さまざまな教えと訓戒を語ってきたヤコブが、ここから最後の奨励に入っていきます。新約聖書の多くの手紙が、その最後を祈りで終えていすが、ヤコブは逆に祈ることを勧めて、手紙の締めくくりとしています。ヤコブが語る、祈りの大切さと、その力につということを中心に、御言に聞いて参りたいと思います。
ただ、その前に12節で「誓い」についての教えがありますので、まず、そちらから見てまいります。
【12:さて、わたしの兄弟たちよ。何はともあれ、誓いをしてはならない。天をさしても、地をさしても、あるいは、そのほかのどんな誓いによっても、いっさい誓ってはならない。むしろ、「しかり」を「しかり」とし、「否」を「否」としなさい。そうしないと、あなたがたは、さばきを受けることになる。】
「何はともあれ」誓いをしてはならない。と言います。何はともあれ、というのは「いろいろなことの前に」という意味です。第Ⅰペテロの4章8節では、全く同じ2語を「何よりまず」と訳しています。まずは、誓ってはいけない、と勧めています。ここのヤコブの表現は、以前学びましたイエス様が、マタイの福音書5章33節以降で教えておられたのと、ほぼそのまま、同じ表現を使っていることがわかります。新約聖書7頁。マタイ5章33~37節をお読みします。
【33:また昔の人々に『いつわり誓うな、誓ったことは、すべて主に対して果せ』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。 34:しかし、わたしはあなたがたに言う。いっさい誓ってはならない。天をさして誓うな。そこは神の御座であるから。35:また地をさして誓うな。そこは神の足台であるから。またエルサレムをさして誓うな。それは『大王の都』であるから。 36:また、自分の頭をさして誓うな。あなたは髪の毛一すじさえ、白くも黒くもすることができない。 37:あなたがたの言葉は、ただ、しかり、しかり、否、否、であるべきだ。それ以上に出ることは、悪から来るのである。】
まず、誓ってはならない、という戒め。天を指しても地を指しても、他の何かを指して誓ってもダメということ。しかり、しかり。否、否は「はい」なら「はい」。「いいえ」なら「いいえ」と言えばよいということ。それ以上は、悪で、裁かれることになる。という内容です。
このことは、前提として、誓うこと自体を完全て禁止しているわけではない、ということを教えられています。ここでの中心は、第一は誓うと言う行為は、新生であって非常に重いということです。実際、私たちが、人生において誓う機会は、洗礼か信仰告白。入会、任職。あとは結婚位に限られています。それらは、みな主のみ前で、主の召しに応じて、お応えする行為であります。自分から何かを誓うという行為ではありません。それほどに誓うと言うことは、私たち人間には、重い行いであると言うことです。
イエス様が命じられ、ヤコブも繰り返し禁じているのは、主の召しにお応えする、自らの弱さを覚えつつも主により頼んで告白する誓いではなく、自分のために。自分の言葉に権威を持たせるような、重きを置かれたいがための、安易な誓いであると言うことです。誤った方法で、御心にかかわらず、自分の思いで、誓うということを禁じています。自分のために、主の御名を用いる。自分のために聖なる権威を利用する姿です。さらにもう1ヶ所マタイ伝を引いてみます。新約聖書38頁。マタイ23章16節。
【16盲目な案内者たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは言う、『神殿をさして誓うなら、そのままでよいが、神殿の黄金をさして誓うなら、果す責任がある』と。17愚かな盲目な人たちよ。黄金と、黄金を神聖にする神殿と、どちらが大事なのか。】
誓いを果たせない責任をごまかせるような、自分勝手なやり方で誓うということが、まかり通っており、それを戒めたわけであります。本来、信仰者に求められる誠実さ、偽らないことを前提にすれば、「はい」なら「はい」。「いいえ」なら「いいえ」と言えばそれですむ、ということであります。
続いてヤコブ5章13節から16節を見てまいります。
【13:あなたがたの中に、苦しんでいる者があるか。その人は、祈るがよい。喜んでいる者があるか。その人は、さんびするがよい。14:あなたがたの中に、病んでいる者があるか。その人は、教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリブ油を注いで祈ってもらうがよい。15:信仰による祈は、病んでいる人を救い、そして、主はその人を立ちあがらせて下さる。かつ、その人が罪を犯していたなら、それもゆるされる。16:だから、互に罪を告白し合い、また、いやされるようにお互いのために祈りなさい。義人の祈は、大いに力があり、効果のあるものである。】
ここから、ヤコブは祈りについての勧めを語っていきます。大きく3つのことが教えられていると思います。まず、第一は、祈りは、いついかなる時も祈りなさい、という教えです。第二は、信仰による祈りに力があると言うこと。そして第三は、互いに祈る、共に祈ることの大切さです。
苦しんでいるものは祈りなさい。と言っていますが、ここでは、とくに試練とか苦労という意味の「苦しい」という言葉が使われています。この苦しみは、御心でもある、訓練でもあるということです。ですから、主がこの苦難を耐え忍ぶ力を与えて下さるように、御心であれば早く取り去って下さるように祈ります。ただ、苦しい時は、だいたい祈るものです。しかし苦しい時だけでなく、喜んでいる時もそうだ、と言っています。ここでは「讃美」と言っていますが、喜びを感じるときも、讃美をもって祈りを捧げなさいと言うことです。
と言いますのは、「苦しい」のは様々な苦労があったり、苦しい状況のことを指しますが、この「喜んでいる」というのは、自分の置かれた環境が順調だとか、良いことがあった、という意味ではありません。
周囲の外的は事柄ではなく、たとえ苦しい状況や困難にあっても、その中で喜びを感じることができれば、という意味です。私たちの心の状態のことを言っています。どのような時でも、そこに主に憐れみが示されて、喜びを感じるのであれば、主を讃美しなさい、感謝の祈りを捧げなさいと教えているわけです。
14節後半からは、祈ってもらいなさい、と教えられています。祈ってもらうことの大切さと幸い、ということです。特に、信仰によって祈る。つまり、念じるのではなく、日本人は祈りと全てを念じると言うか心に強く思うと言うことが一緒くたになっていますが、全てをご支配なさっている主なる神に様を信じ、信頼して、イエス様の御名によって祈ること。これが、聞かれるということであります。自分の祈りは、不十分ですけど、教会の兄弟姉妹の祈りは、きっと聞いて下さる、という安心があります。
ここでは、特に「病いにある人」を例に出して教えています。祈りと病の癒しについては、全体的には神学的にも深い事柄ですので、この御言が表していることに限定して聞いて参りたいと思います。
まず、長老たちと言われています。これは牧師や聖職者を含む、教会で牧会をささえる人々をさしています。これらの役職は主が召された、霊的な権威を表すとされます。ですから、わざわざ主の御名によって、と念押ししています。そして、「オリブ油を注いで」祈る、とありますが、ここは「注ぐ」というのは意訳で、「塗る」が正確です。オリブ油の使い方が、どちらかというと聖別するとか祝福すると言った霊的な意味より、当時の治療方法として用いられた、オリブ油を塗る、という行為。医療行為の意味合いが強いと考えられています。霊肉共に、手段を尽くして祈るということになります。
15節で「信仰による祈り」が救う、と言われています。ただし、この信仰による祈りが意味するのは、
ヨハネの第一の手紙5章で教えられている次のような祈りのことです。
【わたしたちが神に対していだいている確信は、こうである。すなわち、わたしたちが何事でも神の御旨に従って願い求めるなら、神はそれを聞き入れて下さるということである】
聞き入れてもらえなかったから、信仰が足りないとか、誰それの祈りは力がない、といったようなものでは無いと言うことです。「神の御旨に従って」と。御心であれば、それこそ何事であれ、神は為し給うのであります。この世のさまざまな人や環境や物事を用い、また、この世の法則に支配されない超自然的な方法をもって、御心のままにご摂理なさいます。この主のご摂理が、キリストゆえに。私たちキリストに与えられた民への愛を基に、行われていることへの確信が、状況にかかわらず、感謝の祈りへと私たちを導いてくれるのであります。
また、15節の「病んでいる人を救い」という「救う」は、癒すと言う意味ではなく、回復という言葉で、回心すると言う意味で使われることも多いので、霊的な面での救いのニュアンスがを強く訴えている表現です。実際、第2コリントのパウロの有名な告白があります。自身の肉体のとげを、取って下さるように、三度も主に祈ったが、叶わなかったという話です。しかし、主がパウロに対して「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる。」と言われ、パウロはこれを受け入れて、自分の弱さを誇ると、という心に導かれていました。
主の祈りにありますように、まず御心が成るように祈る。これが信仰による祈りの基本です。御心に適えばそれはなり、そして御心が最善である、という信仰に支えられて私たちは祈れることが幸いということでございます。
最後に16節です。
【16:だから、互に罪を告白し合い、また、いやされるようにお互いのために祈りなさい。義人の祈は、大いに力があり、効果のあるものである。】
ここでは、「お互いに祈る」という、交わりの中の祈り。共に祈る、共同体の祈りが教えられています。後半の義人は、「信仰による義人は生きる」という時の「義人」という意味です。正しい、立派な人ではありません。本来義人は一人もいませんから、やはり信仰と言うことになります。信仰を一つにする、共同体、主ある兄弟姉妹と、共に、互いに祈り合うことの大切さと幸い。そしてその祈りの力が教えらています。主イエス・キリストにあって、信仰によって共に祈る祈りは聞かれると言うことであります。
使徒行伝の1章14節で「心を合わせて、ひたすら祈りをしていた」とあります。地上の教会が誕生する直前のことです。教会はその誕生の時から祈りと共にありました。そしてペンテコステのあと、2章42節でも「一同はひたすら、使徒たちの教えを守り、信徒の交わりをなし、共にパンを裂き、祈りをしていた」と。御言葉と礼典と祈りがここに示されています。御言に聞いて共に祈る、これがキリストの教会の姿であります。
共に祈る祈りを神が聞き給うのは、主の御名の下に何人かが集う時、そこにイエス様が聖霊によって共にいて下さるからであります。聖霊が私たちの願いを探り、引き出して下さり、信仰によって御子の願いとして聞いて下さるのであります。共に祈る祈りには主のあって力があることを覚えたいと思います。