命を選びなさい
15 見よ、わたしは、きょう、命とさいわい、および死と災をあなたの前に置いた。16 すなわちわたしは、きょう、あなたにあなたの神、主を愛し、その道に歩み、その戒めと定めと、おきてとを守ることを命じる。それに従うならば、あなたは生きながらえ、その数は多くなるであろう。またあなたの神、主はあなたが行って取る地であなたを祝福されるであろう。17 しかし、もしあなたが心をそむけて聞き従わず、誘われて他の神々を拝み、それに仕えるならば、18 わたしは、きょう、あなたがたに告げる。あなたがたは必ず滅びるであろう。あなたがたはヨルダンを渡り、はいって行って取る地でながく命を保つことができないであろう。
19 わたしは、きょう、天と地を呼んであなたがたに対する証人とする。わたしは命と死および祝福とのろいをあなたの前に置いた。あなたは命を選ばなければならない。そうすればあなたとあなたの子孫は生きながらえることができるであろう。20 すなわちあなたの神、主を愛して、その声を聞き、主につき従わなければならない。そうすればあなたは命を得、かつ長く命を保つことができ、主が先祖アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓われた地に住むことができるであろう。申命記 30章 15節から20節
<19 わたしは、きょう、天と地を呼んであなたがたに対する証人とする。わたしは命と死および祝福とのろいをあなたの前に置いた。あなたは命を選ばなければならない。そうすればあなたとあなたの子孫は生きながらえることができるであろう。>
申命記30章19節の御言でございます。【あなたは命を選ばなければならない。】という、御言から導かれたいと願っています。申命記は、モーセによって語られた、律法の書であります。イスラエルの民は、主によって、奴隷であったエジプトから救い出され、シナイ山で律法を与えられました。そして、約束の地であるカナンを目指し、荒野を40年放浪してきました。その間、主は人々の必要を満たし、自ら先に立って守り導いてこられましたが、イスラエルは頑なな民で、つぶやきと、不信仰をあらわにしてきました。その中で主は様々な罰や試練、また赦しを与えながら訓練され、民を育て、主に信頼して歩む、神の民へ成長させられていきました。「強くあれ,雄々しくあれ」と励まされながら、一度は恐れて敗れたアモリ人を倒して、とうとう約束の地カナンの目前までたどり着いたわけです。
この、モアブ平野において、モーセがエジプトを脱出して以来の、イスラエルの歩みと、主の導きを振り返っています。そして、約束の地に入る前に、改めて主の律法。戒めであり、御教えを民に語り、主の教えに従うことが、いかに重要であるかを説いています。念押ししている状況です。それというのも、カナンを目の前にして、モーセ自身は見ることは出来てもそこに入る事が出来ない、ということを主から告げられていたからであります。彼が主の栄光を表さず、聖なるものとしなかった、メリバの水事件が原因です。実際、既にモーセの兄弟、祭司アロンや、ミリアムは亡くなっていましたし、シナイの麓で部族ごとに人口調査した際に、戦士として数えられた人々もまた、ヨシュア、カレブを除いては生き残っていない状況でした。
ここまで、主に召されて、民を導いてきたモーセが、自ら亡き後、ヨシュアに引き継いだ第二世代のイスラエルの民が、罪に満ちた、しかし豊かに栄えた土地に入って、生きていくために何が必要かを教えているところでございます。19節でモーセは
【19 わたしは、きょう、天と地を呼んであなたがたに対する証人とする。】
と言いました。天と地を呼んで証人にする。これはどのような意味か。それは、モーセが語っていることは主なる神の言葉である、ということであります。天地に聞かせ、証人とされるのは、神が人々にお語りになる時、または約束される時になされることです。モーセはここでイスラエルの民に選択を求め、その選択によって、どのような結果がもたらされるかも語っていますが、それは主が求めておられることであり、指導されている、そのような言葉であることを示しています。
モーセは民に選択を、選ぶことを求めた、申し上げました。そのみ言に聞いてまいりましょう。15節【15 見よ、わたしは、きょう、命とさいわい、および死と災をあなたの前に置いた。】これと同じことが19節の中でも繰り返されています。【わたしは命と死および祝福とのろいをあなたの前に置いた。】つまり、片方に「命」と「さいわい」と「祝福」が置かれ、もう片方は「死」と「災い」と「のろい」置かれている。さあ、あなた達はどちらを選びますか?ということです。このように聞かれて、後者を選ぶ人はまずいないでしょう。当然、命とさいわいと祝福を願い求めるのが、普通の当たり前の人の姿と言えます。ということは、これはもう選択の余地がない、ということであります。ですから、【あなたは命を選ばなければならない。】とモーセは命令しています。ただ、この選ぶことは、命令形ですが、強制的ではありません。言葉としては「命をえらびなさい」という勧めであり、諭すような表現になっています。命への招き、といってもいいかも知れません。神の言葉として、主があなたがたを命に招いておられる、ということを言っているのであります。さらに、ここでは、この二択、命と死は結果であることが表されています。
それでは、モーセが実際に命じていることは何か、を聞いてまいりましょう。16節。
【16 すなわちわたしは、きょう、あなたにあなたの神、主を愛し、その道に歩み、その戒めと定めと、おきてとを守ることを命じる。それに従うならば、あなたは生きながらえ、その数は多くなるであろう。またあなたの神、主はあなたが行って取る地であなたを祝福されるであろう。】
これも、同じことがもう一度繰り返されています。20節。
【20 すなわちあなたの神、主を愛して、その声を聞き、主につき従わなければならない。そうすればあなたは命を得、かつ長く命を保つことができ、主が先祖アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓われた地に住むことができるであろう。】
まず「あなたの神、主を愛」すること。これはイエス様が最も大切な、第一の教えと仰ったことであります。「あなたの神、主」が意味することは大きく、深いです。「あなたの、わたしの神」という、個人が勝手に思う神ではありません。自分だけの神でもない。「主」は固有名詞であります。聖書にご自身を啓示して下さっている、唯一の生けるまことの神、創り主にて天地の全能の主権者。その主が「あなたの神」、私たち罪人の神となって下さった。それも、測りがたい愛と憐れみによって、私たちの元へへりくだって下さっている。そういう意味です。この方を愛するというであります。何となれば、その主があなたを愛しておられるからであります。
その愛にお応えすること。すなわち【その声を聞き、主につき従】うこと。【その道に歩み、その戒めと定めと、おきてとを守ること】になります。これが、モーセを通して主が命じておられること、求められていることです。主のご命令は、この一点に集約しています。ほかは、その結果であり、補足説明であり、そうでない場合の警告を、述べられているということになります。
この時点では、祝福も警告も、非常に現実的なことが教えられています。16節の後半。
【それに従うならば、あなたは生きながらえ、その数は多くなるであろう。またあなたの神、主はあなたが行って取る地であなたを祝福されるであろう。】
主の教えを守り従うことで、長生きをし、家族が栄え、豊かになることができる、というものです。非常に現世利益的な「命」の表現だと言えます。これらのことが、イスラエルの民、やがてはユダヤ人たちの表面的な律法主義や、世俗的な価値判断へと繋がっていくことにもなります。しかし、それは人の罪故であって、これらの祝福は、現実に主の賜物であり、主のご支配が全被造世界に及んでいることの証であることも覚えたいと思います。
その意味で、主につき従わない場合の警告もまた、具体的に分かり易く教えられます。罪と偶像礼拝に満ちた異邦人の地に入っていこうとする当時の状況、時代背景の中で、的確な指導といえます。全知の主の預言ですから当然ですが、17節から18節。
【17 しかし、もしあなたが心をそむけて聞き従わず、誘われて他の神々を拝み、それに仕えるならば、18 わたしは、きょう、あなたがたに告げる。あなたがたは必ず滅びるであろう。あなたがたはヨルダンを渡り、はいって行って取る地でながく命を保つことができないであろう。】
「心をそむけて」とは直訳すると「心の向きを変える」という意味です。悔い改める、という言葉が「立ち返る」「向きを変える」というのと同じで、ここでは逆に主に向いた心を、他に向けたら、ということになります。それが「他の神々を拝み、それに仕える」すなわち偶像礼拝であります。ここでは「他に神々」と書かれていますが、偶像礼拝とは、まことの神を神としない、神で無いものを神とする、ということですから、申命記の4章19節では次のように戒められています。
【19 あなたはまた目を上げて天を望み、日、月、星すなわちすべて天の万象を見、誘惑されてそれを拝み、それに仕えてはならない。それらのものは、あなたの神、主が全天下の万民に分けられたものである。】
この世界にある、全ての存在、自然現象も、どれほど美しく神秘的であっても、あくまで主が造られた被造物に過ぎません。栄光はお造りになった方にあって、私たちが平伏すお方はただお一人でありますが、人の罪は、目に映る者にとらわれ、主に向ける心を、すぐその向きを変え、偶像礼拝へと向かうのであります。そして、そこには誘惑がある、ということが教えられています。カナンの地に入っていったイスラエルの民は、実際様々な、目の前のこの世の誘惑によって、偶像礼拝へと陥ってしまいます。約束の地への入植を果たし、異邦人への勝利と、豊かさに油断したとき、サタンの誘惑が訪れます。それは、常に人の心を主から離す、背けようと働きかけるのであります。まさに強い時に弱い、順調なときほど危ない、と教えられたとおりです。そして主はそのことをよくご存じでいらっしゃいました。ですから、何度も、ことあるごとにくり返し、「主に立ち帰れ」「あなたの神、主を愛する」ように、と呼び掛け、離れた心が御元に戻ってくるよう、忍耐強く招き続けて下さいました。
主は永遠より、私たちを選んでいてくださり、私たちが「命をえらぶように」それも、この世の一時の命ではなく、永遠の命に至るように導き続けて下さっています。アダムに始まり、ノアの時代も、アブラハムの時代もそしてモーセの時代も同じであります。私たちの神、主が「私たちを」命にえらび、私たちもまた命への道を選ぶことができるようにしてくださったのであります。
しかし、ここでイスラエルの人々が「命」を選ぶために、モーセが命じているのは16節にあるように
【あなたにあなたの神、主を愛し、その道に歩み、その戒めと定めと、おきてとを守ること】
でありました。いわゆる律法の遵守ということになります。しかし、律法を行うことで救われないのではなかったでしょうか。実は律法を完全に守ることができれば救われるのです。「律法で救われない」とは正確には「律法を完全に行うこと、守ることはできない」ということです。ですから、律法を完全に満たし、成就することができる、唯一のお方。つまり神ご自身であられる、御子イエス様が人となってきて下さり、これを果たして下さいました。
モーセの時代では、律法は大切な役目を与えられていました。まことの神に従うことを教えること。罪を抑制すること。罪は購われる必要があることを教えていました。また当時の時代背景の中で、神の民としての健全な社会形成を図るため、主が契約の民に与えて下さった、大切な恵みの律法であったのであります。その結果、主に立ち帰ることがおしえられましたが、同時に律法主義も進んでいくことになってしまいます。しかし、律法に込められた主の思いは、恵みであり、結局、人は律法を満たすことができないこと、真の救い主が必要であり、その方が遣わされることを暗示していたと言うことであります。
モーセはこの恵みの律法を、主なる神からの大切な恵みであり、賜物であることを理解していました。そこで、申命記30章の11節では次のように語っています。
【11 わたしが、きょう、あなたに命じるこの戒めは、むずかしいものではなく、また遠いものでもない。】
神の教えが、イスラエルの人々から遠く離れた、非現実的なものではなく、目の前に、書かれたものとして、確かに存在している。主なる神の言が書き記されて与えられたことを表しています。更に14節では
【14 この言葉はあなたに、はなはだ近くあってあなたの口にあり、またあなたの心にあるから、あなたはこれを行うことができる。】
神の言葉、神の教えが「あなたがたの心に」ある、と述べています。心にあると言うことは、主が私たちの心に、その言、教えを刻んでくださったと言うことであります。主は「命をえらびなさい」「さいわいと祝福を得なさい」と招いて下さいました。そのために、主を愛し、主のみを拝み、主のみに従うように求られました。そして何より、私たちがそうできるようにして下さっている、主の恩寵があります。
申命記30章の6節でモーセは既にそのことを語っています。
【6 そしてあなたの神、主はあなたの心とあなたの子孫の心に割礼を施し、あなたをして、心をつくし、精神をつくしてあなたの神、主を愛させ、こうしてあなたに命を得させられるであろう。】
割礼は儀式でした。主の民であることを形として表す印です。新約時代において、それは信仰告白として形を変え、洗礼となりました。その割礼を、人が行う儀式ではなく、主が心に施して下さるのであります。主が私たちに求められる事を、私たちができるようにして下さるのも主であります。「命を選びなさい」と言われる主は、命を得させてくだる主であります。主を愛させて下さる。心に施す割礼によって。心に刻まれた御言によって。
パウロはローマ人への手紙10章で先の申命記14節を引用して、次のように解き明かしています。
「言葉はあなたの近くにある。あなたの口にあり、心にある」。この言葉とは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉である。9すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。
イエス様をまことの神の子、救い主と告白する信仰だけが、私たちを救い、永遠の命へ選ばれる唯一の恵みであります。御霊なる主によって、いのち、道、真理なるイエス・キリストに結びつけていただいている私たちは、主の御業ゆえにこの恵みの確実なることを覚え、希望を新たにしたいと思います。
そしてモーセが律法を授けられた当初から、既に主が心に与えられる信仰こそが命へと導くものであることが明かされていたことを覚え、主が一貫して変わることなく恵みの主であることに感謝致しましょう。