ヨハネによる福音書17章では、イエス様が、ユダの裏切りによって祭司長やパリサイ人に捕まる直前、天を見上げて、父なる神様へ語りかけられた内容が記されています。その大部分は、とりなしの祈りとも言えます。この語りかけの中で、キリストのとりなしの対象と、とりなしの内容について教えられています。また、キリストと教会と私たちの関係について。後半では、救いの御業の内容と意味にも言及されています。今回は「とりなし」に注目しつつ、この福音書のみ言葉を味わうことができれば、と願っています。
標記は、17章の後半ですが、前半の9節では、イエス様が天の父にお願いされるのは、「この世のためではなく、あなた(御父)がわたし(御子)に賜った者のため」とはっきり語っておられます。イエス・キリストは、ご自身の民のため。父なる神が永遠より選び分かち、キリストに与えられた一人一人の信徒のためにとりなして下さる、ということです。20節で、イエス様がお語りなった時に一緒にいた弟子たち(使徒)だけでなく、「彼らの言葉を聞いてわたし(イエス様)を信じている人々」。つまり、現在の私たちや未来のクリスチャンを含めた、代々の全ての信徒のために願っておられます。そして、父なる神と一つである御子によるとりなしは、完全に有効で、とりなしが成されないことは、あり得ない、という確信と平安を私たちに与えてくれます。
そして、キリストがとりなして下さる目的と内容が、教えられます。第一に21~22節、「みんなが一つになるように」。それはキリストにあって一つ、ということです。父なる神と御子キリストが一体であるように、キリストが御霊によって共にいて下さることで、私たち信徒もまた一つとされるために、とりなしておられます。唯一の頭であるキリストに結ばれ、有機的に繋がり、支え合う一つの体となるように。
次に23~24節。キリストが私たちの内にいて下さり、一つとされた信徒によって、世がまことの神を知るようになるため。すなわち、宣教のみ業が教会を通して、キリストの民を用いて果たされるように、との目的が示されます。まことの神を知るということは、神の永遠の愛を知ることだ、とも明かされています。神の愛は、キリストにおいて表され、キリストを信じる民にもたらされます。24節では、キリストが賜った栄光。死に勝利した復活と、天に挙げられた栄光に、私たちもあずかることができるように、と願われます。
そのため、25節、キリストは神の御名を明かされました。この御名は契約名。私たちを救う恵みの契約を下さった、愛の御名です。契約通り、遣わされた御子を救い主と信じる者が救われるように。さらにイエス・キリストは「これからも知らせましょう」と、天から御霊を送り続けことを約束して下さっています。イエス様が、まさに今この時も、天において私たちのために、神の愛がイエス様を通して、私たちに注ぎ満たされるように、とりなしていて下さることを、心に覚え、感謝と喜びを深めたいと思います。