月報 2022年9月 「執り成し給うキリスト」
『彼は、永遠にいますかたであるので、変らない祭司の務を持ちつづけておられるのである。
そこでまた、彼は、いつも生きていて彼らのためにとりなしておられるので、彼によって
神に来る人々を、いつも救うことができるのである。』ヘブル人への手紙 7章 24節から26節
前回、キリストの高い状態(高挙)のうちの3つ目。私たちと変わらない肉体を持って、天に昇られたキリストが「神の右に座しておられる」ことを学びました。そこで、キリストは父なる神の愛のうちに、喜びと栄光、万物を支配する力に満たされて、キリストに与えられた全ての民(これを教会と一言で表しています。)、教会を招き集められ、その人々を守り、彼らの敵を従え、一般的な賜物と、特別の賜物を与えていて下さること。私たちを、父なる神にとりなして下さっていることが教えられました。
今回は、最後にあったキリスト「とりなし」について、具体的に聖書から導かれたいと思います。ウェストミンスター大教理問答の第55問では、次のようにまとめられています。
【キリストはどのようにして執り成しをして下さいますか?】
答『キリストは、〔第一に〕地上における彼の従順と、いけにえの功績により、わたしたちの本性を取って、天にいます父の前に絶えず出ること、〔第二に〕その功績を全ての信者に適用していただきたいとの、彼の意志を明らかにすること、〔第三に〕彼らに対するすべての告発に答えること、〔第四に〕日ごとの失敗にもかかわらず、良心の平静と、恵みの御座への大胆な接近、および彼らの人格と奉仕の受容とを、信者のために獲得すること、により、執り成しをして下さいます。』
キリストが天において、私たち罪人のために、父なる神、完全な義の神様に対して、日々、とりなして下さっている事実があります。このとりなしにより、キリストを通して私たちは父なる神との交わりが回復され、保たれています。キリストの傘のもとに無ければ、私たち罪人は神様の御前に出た途端、聖なる御怒りによって、あまりの聖さによって、一瞬で塵と化してしまうでしょう。神様との交わりが可能になるのは、ただキリストの功績による、ということが第一点です。ヘブル人への手紙1章3節では、罪のきよめの御業、その功績によって、と記されています。キリストは、神と本質を同じくされる方として、世界を創造し、摂理し、保持されています。その上でさらに、罪のきよめ・贖い、という特別な恩恵を、私たちは賜っているのです。
ヘブル7章では、キリストのお働きを、祭司のみ業として教えています。キリストの特別な従順は、苦難と死に至るまでのまったき従順(消極的従順)、恵の契約である律法の完全な成就(積極的従順と言われます)。アダムがなし得なかった、神への完全な従順であります。この従順は、神様が人を造られた時に、永遠の命に至る従順として、求められたことでした。これを、人としてなして下さった神の御子。そして、全く罪のない、完全に聖であるご自身を、生贄として捧げられることによって、罪人のためにとりなし、今なお、とりなし続けておられる御業は、キリストの祭司としてのお働きであります。私たちを救うためのキリストのみ業を、三つ職業、預言者・祭司・王、としての働きに教えられますが、その二つ目に数えられています。
イエス・キリストは、救いのために、この三つの職業としての働きを、低い状態でも高い状態でもなして下さる、と聖書は教えています。その通り、地上の苦難のご生涯の中でも、イエス様は、父なる神に祈り、とりなして下さいました。また、上記のように、究極の祭司として、ご自身の民の罪を贖うため、十字架において自らを生贄とされました。父なる神の御心に従い。この完全であるが故に一度きりの、最終の贖いを成し遂げられたみ業によって、従来の儀式律法は役目を終えました。
こうして、地上において、祭司としてとりなして下さったイエス様は、復活して天に昇られた今もなお、神の右の座で、日々私たちのための、とりなしをして下さっています。徹頭徹尾、私たちのために尽くして下さる、主イエス・キリストの忍耐と、愛とあわれみを覚え、天を仰ぎ、平安のうちに信仰生活を歩むことができますよう、一層の御霊の導きをお祈りします。次回は、イエス様のとりなしの、具体的な内容について、み言葉に聞きたいと思います。