暗闇から光へ

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暗闇から光へ

3あなたがたは、主が恵み深いかたであることを、すでに味わい知ったはずである。4主は、人には捨てられたが、神にとっては選ばれた尊い生ける石である。5この主のみもとにきて、あなたがたも、それぞれ生ける石となって、霊の家に築き上げられ、聖なる祭司となって、イエス・キリストにより、神によろこばれる霊のいけにえを、ささげなさい。6聖書にこう書いてある、
「見よ、わたしはシオンに、選ばれた尊い石、隅のかしら石を置く。それにより頼む者は、決して、失望に終ることがない」。
7この石は、より頼んでいるあなたがたには尊いものであるが、不信仰な人々には「家造りらの捨てた石で、隅のかしら石となったもの」、8また「つまずきの石、妨げの岩」である。しかし、彼らがつまずくのは、御言に従わないからであって、彼らは、実は、そうなるように定められていたのである。9しかし、あなたがたは、選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神につける民である。それによって、暗やみから驚くべきみ光に招き入れて下さったかたのみわざを、あなたがたが語り伝えるためである。10あなたがたは、以前は神の民でなかったが、いまは神の民であり、以前は、あわれみを受けたことのない者であったが、いまは、あわれみを受けた者となっている。ペテロの第一の手紙 2章 3節から10節

<9しかし、あなたがたは、選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神につける民である。それによって、暗やみから驚くべきみ光に招き入れて下さったかたのみわざを、あなたがたが語り伝えるためである。>
今朝もペテロの第一の手紙から導かれたいと願っております。この手紙は、ペテロが、異教の国で、まことの神を知らない社会の中で生きているクリスチャンに対して、これを励まし、信仰を固く保つために書き送った手紙になります。ですから、今、この日本に生きる私たちも、同じような境遇であり、教えられることが多い御言であると思います。
小アジアの教会の人たちに、異邦人社会での生きにくさや、苦労、試練を覚える声が高まり、それに対してペテロが語りかけたことは、まず、クリスチャンがいかに恵まれているか、ということでした。1章2節で「すなわち、イエス・キリストに従い、かつ、その血のそそぎをうけるために、父なる神の予知されたところによって選ばれ、御霊のきよめにあずかっている人たちへ。」と呼び掛けています。この中に三位一体の神様の本質、救いの御業が凝縮されて表現されています。父なる神に選ばれ、聖霊によって、イエス・キリストを信じる信仰をいただいて、イエス様の贖いの御業の恩恵を受ける恵みに置かれている。それによって天における永遠の命と栄光が約束され、その希望は尽きることないリアルでフレッシュな希望だ、ということを宣言しています。それにあずかっているのが私たちだということであります。
こうして第1章から2章冒頭まで、この世の一時の苦難にあるクリスチャンを励ますペテロの言葉に見てまいりますと、その根底には、三位一体の神様という、確かな土台があって、その上に「信仰」と「希望」と「愛」という下地が張り巡らされていることが、ちゃんと浮き上がるように見えてきます。これは、今まで見てまいりました、パウロや、ヤコブの手紙も同じだったことが分かります。パウロと終えて炉は違うとか、ヨハネはどうとか言われることもありますが、結局、イエス様の弟子たちは、皆同じ信仰、同じ福音を共有していたことが明確になります。手紙を書いた時代、宛先、状況、目的、また夫々の個性は違いますが、三位一体の神様への信仰に変わりがないということです。彼らは、イエス様から、また福音書を通して語られたイエス様の教えを、共通して、しっかりと持っていました。それを、様々な教会や信徒の状況に合わせて、適用していった、それが新約聖書で手紙として表された御言でございます。

さて、本日は2章の3節から、聞いてまいります。3節から4節をお読みいたします。
<3あなたがたは、主が恵み深いかたであることを、すでに味わい知ったはずである。4主は、人には捨てられたが、神にとっては選ばれた尊い生ける石である。5>
 この前までに、私たちクリスチャンに約束されている永遠の栄光の恵みが語られ、この世のひとときの苦難を、キリストが受けられた苦難と、その後の栄光を思って耐え忍ぶように教えられました。神の御子なるキリストの血をもって買い取られた、その価値。神様がこの罪深い私たちを、いかに時別に思い、愛して下さっているかを知り、互いに、心から愛し合うことが勧められていました。そのために必要なことは、御言を慕い求める問ということでした。乳飲み子が、お乳を求めるように、キリスト者は御言をもとめよ。なぜなら、変わること無い聖書の御言こそが私たちを生まれ変わらせる命の源であり、成長させる魂の糧であるからであります。
 そして、この3節は「あなたがたは」で始まっていますが、原文ではその前に「ει」という接続詞が入っています。ここでは「だから」とか「というのは」と訳されますが、かく日本語訳聖書では、これを省略しるため、少し分かりにくいのですが、明らかに2節の、「霊の乳」である御言を慕い求めなさい、という命令について、その理由を語るか、追加説明している形になっています。「すでに味わった」という言葉も、食物、糧としての乳から連想された表現ということになります。また「恵み深い」という御言は、「いつくしみ深い」という意味でもありますので、前節からの流れでいうと、「いつくしみ深い」お方であるととらえた方がより、繋がりが良いと思います。
 そして、この3節は、4節以降への橋渡しとも言えます。恵みふかく、慈しみ深い主の御姿がこのあと語られていきます。4節から6節をお読みします。
<4主は、人には捨てられたが、神にとっては選ばれた尊い生ける石である。5この主のみもとにきて、あなたがたも、それぞれ生ける石となって、霊の家に築き上げられ、聖なる祭司となって、イエス・キリストにより、神によろこばれる霊のいけにえを、ささげなさい。6聖書にこう書いてある、「見よ、わたしはシオンに、選ばれた尊い石、隅のかしら石を置く。それにより頼む者は、決して、失望に終ることがない」。>
 「主は人に捨てられた」と言われています。確かに、イエス様は天の父の元から、この地上に私たちを救うために来られましたが、人は主をさげすみ、罵倒し、憎み、裏切りました。父のご計画ではありましたが、呪われた十字架に架けて刑を執行したわけであります。それでも、主は従順を貫き、憐れみ深くあられました。「主は人に捨てられた石である」と表現しています。4節のこの言葉は、ペテロが旧約聖書に記されたイエス様の予言を2カ所組み合わせて、まとめて語っています。一つは詩篇118篇の22節になります。旧約聖書853頁でので、お読みします。<家造りらの捨てた石は、隅のかしら石となった。>
もう一ヶ所は、この後の7節で引用されている、イザヤ書28章16節です。旧約聖書の978頁です。
<それゆえ、主なる神はこう言われる。「見よ、わたしはシオンに一つの石をすえて基とした。これは試みを経た石、堅くすえた尊い隅の意思である。」>
 実は、詩篇でもイザヤ書でも、文脈から見ますと、この「石」は直接イエス様を示すように書かれてはいません。直接的には、神の民であるイスラエルの国、または民をさして「石」に譬えています。しかし、それが、実際には、やがて来るまことの王、メシヤであることが、ダニエル書の2章31節から45節で、ダニエルが解き明かしたネブカデネザル王の夢の意味を教える中で明らかにされていきます。
 そして、実際にイエス様が地上に来られました。そして、イエス様ご自身が、この捨てられた「石」がご自分を指していることを明かしておられます。それは、マタイによる福音書の21章で、先の詩篇118篇を引用して語られた、悪い農夫のたとえ話でした。ぶどう畑の主人が、農夫たちに畑を貸して、収穫時期にしもべを送ったところ、農夫たちが僕を殺してしまう話です。主人は何度も僕を送るのですが、農夫たちはこれを殺してしまいました。そこで、最後に主人が自分の息子ならさすがに敬うだろうと遣わすのですが、農夫たちは主人の子供まで手にかけてしまう、というたとえ話です。お分かりのように、主人は父なる神で、僕は予言者たち。息子は御子イエス様を譬えています。ここで、捨てられた石の詩篇を引用されているわけです。
 この悪い農夫の譬え話と詩118篇の引用は、共観福音書の全てに記録されています。そして使徒行伝の4章11節で<このイエスこそは「あなたがた家造りらに捨てられたが、隅のかしら石となった石」である。>と、断言しています。大祭司や役人、律法学者たちの前で、ペテロが聖霊に満たされて語った言葉でした。
このことから、イエス様を石に譬える、ということは当時の教会内では、常套句というか、通じやすい例えであったと考えられます。モーセが杖で叩いて水を出した岩もイエス様の事であったと明かされています。このように、石の譬えには深いものがございます。
 まず、この石は「人手によらない」と言われました。ダニエル書にあったように、金属や、粘土やレンガと言った、人の手によるものでは無く、神が据えられたものであるということ。人の手によるものは、偽物や、模造や、型に過ぎず、神が選び備えられた石こそが本物で、人の手によるものをすべて打ち壊してしまうということです。そして石は固く、変わることが無いものの象徴とされています。無機物ですが、しかし生きた石である。神が選ばれた、尊い生きた石、隅のかしら石。建物を支える最も重要な石を、人は捨てました。捨てられて尚、その役目を果たしたもうたイエス様の慈しみの深さを覚えたいと思います。
 7節から8節。
<7この石は、より頼んでいるあなたがたには尊いものであるが、不信仰な人々には「家造りらの捨てた石で、隅のかしら石となったもの」、8また「つまずきの石、妨げの岩」である。しかし、彼らがつまずくのは、御言に従わないからであって、彼らは、実は、そうなるように定められていたのである。>
 この生きた隅のかしら石なるイエス様は「あなたがた」、つまり救われた者は尊いですが、不信仰な人にとっては、つまずかせる石です。御言を従わないからとはっきり言われているように、御霊によって御言をまことの神様の言葉として聞くことができ無ければ、人の知恵で、聖書の上に立ってこれを読むなら、人にとって救い主である、イエス様ご自身がつまずきの元となってしまうのも真実であります。妨げの岩と呼ばれることは、同時に、外からの敵を防ぐ岩であり、キリストを信じない者は入れない御国の門でもあることを示しています
 そしてペテロは、この生ける石なる「主の御もとに来る」ことを勧めます。主の御許に来る、近づくという行為は、旧約聖書においては、主がお語りになることを聞きにくる、という行為を意味しました。主のみもとに来て、御言を聞くことで、あなた方も主と同じく生ける石となる、ということを教えています。霊の乳なる御言を求めることからも繋がっています。あなた方もそれぞれ生ける石となって霊の家に築きあげられ、と言うように、ここからペテロの教えは、教会に対するものへと展開してきました。最初は、選ばれた者個人。一人一人の救いと励ましでした。そこから、兄弟愛、主の愛に基づく交わりへの勧めとなり、ここでテーマが教会になっています。5節の
 <それぞれ生ける石となって、霊の家に築き上げられ、聖なる祭司となって、>
「築き上げられ」が受動態であるように、主が一人一人を召して、組み立て、築き上げて下さる、それが教会であります。先に、主のみもとに来て、と言われていました。ある仲介者は「人はキリストに来ることで教会に加わることができるのであって、教会に加わればキリストに来ていることになるとは限らない」と言っています。地上の教会、人の集まりが先にあるのではなく、まず主がキリストのもとに召された者の集まりが教会である、という教会の本質を教えています。
 キリストを信じ、キリストのもとに来た一人一人が、生ける石となって、しかし有機的に組み合わされて一つの教会とされていく姿は、エペソ書やコリント書で、パウロが語っていたことと、全く同じことが言われています。
 私たちは、この世で、肉においてはまことに弱い者であります。けがや病もあれば、肉体的な様々な欲望に支配される、弱い存在です。肉体だけでなく心もまた、同じで、むしろ心の方が弱く、また罪深いと言えるでしょう。自らを振り返れば、イエス様のように、生ける石となることが、どれほど遠く、恐れ多いことか想像もつきません。しかし、土に主が息を吹き込んで命を与え、人を造られたように、御言に聞いて、御霊が私たちの内にいて下さることで、私たちの魂は、石のように固く強められるのであります。御霊によって固くされた魂をもって、主が霊の家なる教会を築き上げて下さるのであります。
 霊の家とは、もともと神殿を示す言葉でした。神殿はそこに主のご臨在があるところです。限られた人が限られた時に、主の御言を聞き、交わりが許された場所でもありました。それが、イエス様が十字架にかかられた時に、神殿の幕が真っ二つに裂けたように、今やイエス・キリストに来る者すべてに開かれた神殿、霊の家が教会でございます。そこでは、やはりイエス様が神殿の主であり、大祭司であられるように、私たちもまた、一人一人が祭司であると教えられています。御霊のお働きによってイエス様に似たものにされていくのがキリスト者であります。ですから、大祭司につき従う祭司として、霊のいけにえを捧げる。御霊と真理の御言による礼拝を、こうして捧げることが私たちの務めであり、また最も大きな喜びでもあるということです。

 最後に9節から10節。
<9しかし、あなたがたは、選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神につける民である。それによって、暗やみから驚くべきみ光に招き入れて下さったかたのみわざを、あなたがたが語り伝えるためである。10あなたがたは、以前は神の民でなかったが、いまは神の民であり、以前は、あわれみを受けたことのない者であったが、いまは、あわれみを受けた者となっている。>
 私たちは、選ばれ、聖別され、神の民、また霊の家、神の神殿、教会の祭司とされました。そこには、主なる神様のご計画に基づく理由がしっかりあるということが教えられています。主が私たちを選び、
<暗やみから驚くべきみ光に招き入れて下さった>
永遠の滅びから永遠の命へ。虚しい罪の奴隷から、天国の相続人へ。自由な神との交わりと栄光へと招き入れて下さいました。その測りがたく大きな憐れみと、恵みの御業を語り伝えるためである、と教えられています。すなわち、救い主の御業を、主ご自身の言葉で語っておられる聖書の福音であります。信仰によって、主の憐れみを受けた者にしかできない、大切な御用であります。どうか、私たちが日々御言にききつつ、その御言を語り伝えることができますように。弱く欠け多きものを、御心のままにお用い下さるよう、御霊のお働きに期待しつつ、この一回りを歩んでまいりたいと思います。

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