天の資産を受け継ぐ
1イエス・キリストの使徒ペテロから、ポント、ガラテヤ、カパドキヤ、アジヤおよびビテニヤに離散し寄留している人たち、2すなわち、イエス・キリストに従い、かつ、その血のそそぎを受けるために、父なる神の予知されたところによって選ばれ、御霊のきよめにあずかっている人たちへ。恵みと平安とが、あなたがたに豊かに加わるように。
3ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。神は、その豊かなあわれみにより、イエス・キリストを死人の中からよみがえらせ、それにより、わたしたちを新たに生れさせて生ける望みをいだかせ、4あなたがたのために天にたくわえてある、朽ちず汚れず、しぼむことのない資産を受け継ぐ者として下さったのである。5あなたがたは、終りの時に啓示さるべき救にあずかるために、信仰により神の御力に守られているのである。
6そのことを思って、今しばらくのあいだは、さまざまな試錬で悩まねばならないかも知れないが、あなたがたは大いに喜んでいる。ペテロの第一の手紙 1章1節から6節
<3ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。神は、その豊かなあわれみにより、イエス・キリストを死人の中からよみがえらせ、それにより、わたしたちを新たに生れさせて生ける望みをいだかせ、4あなたがたのために天にたくわえてある、朽ちず汚れず、しぼむことのない資産を受け継ぐ者として下さったのである。>
「苦難に悩み悲しむ人々へ・励ましの挨拶」
ペテロの第一の手紙1章3節、4節の御言でございます。本日から、この使徒ペテロの手紙を通して、御言に聞いてまいりたいと思います。
この手紙は、イエス様の使徒の筆頭でもあったペテロが、キリスト者が、まことの神を知らない世の中で生きる教会、そして信徒に。クリスチャンであるが故の苦難や試練の中にある人々に向けて、彼らを励まして、信仰を固く保つために書いた、励ましの手紙と言えます。この手紙は、現代の日本に生きる私たちの状況に近く、力強く慰められる書でもあると感じられます。この世の中で苦しみを覚える人々に、尽きない希望を与え、困難を讃美に変えるために。ここで繰り返し強調されていることは、イエス・キリストを見なさい、ということでした。キリストの苦難と、それによって与えられた栄光、神の豊かな恩恵を覚えることで、キリスト者は生きると言うことであります。
「ペテロ書簡の真実性」
このペテロの手紙は、ペテロが書いたものでは無い、という意見が強い時代がありました。大きな理由の一つは、ペテロの手紙の第1と第2では、文体が全く違う、というものです。第一は非常に洗練され、高度な文体でるのに対し、第2の方は、素朴で粗野な文体になっていいて、同一人物とは思えないという理由です。また、教えの内容や用語的にも、パウロ書簡や、ヘブル書、ヤコブ書などと非常に似通った部分があるため、ペテロが書いたものでは無く、パウロの弟子筋の人が書いて、後にペテロの名が付け加えられたとする意見もありました。
これらの懐疑的な意見については、聖書自身が答えてくれています。まず、第一に挨拶のはじめに、はっきりと使徒ペテロであると明言していること。5章1節で「キリストの苦難の証人」と紹介していますが、証人とされたのは、イエス様の公生涯を通してつき従った弟子だけに使われる表現であること。最後の挨拶、5章13節で「バビロンにある教会、ならびに私の子マルコから、よろしく」と書かれていること。このバビロンはローマを指す暗喩ですので、ローマでマルコと共にいたという歴史的伝承と一致することです。さらに同じ5章12節で、この手紙を「シルワノの手によって、この短い手紙をあなたがたにおくり」とあります。つまり、シルワノがペテロが語ったことを、代筆した、口述筆記したということが考えられます。シルワノは、使徒行伝ではシラスと呼ばれています。使徒行伝15章で、パウロがエルサレムを訪れて行われたエルサレム会議の後、その決定した通知をもって、ユダとともにパウロについてアンテオケに派遣された人です。エルサレムでも重んじられた人、指導的な人と書かれています。パウロの伝道先である、異邦人協会はギリシャ語圏ですから、当然シルワノはギリシャ語が堪能であったことが分かります。そのため、シルワノはその後、パウロの大2回伝道旅行に同伴して回っていました。このとき、パウロは、遅れたマルコを嫌って、シルワノを連れて行き、マルコはバルナバと一緒に伝道に回るのですが、後にパウロはマルコの評価を変えて、疎んじたことを反省し、一緒に働いています。
このマルコとシルワノの存在が、多くの疑問に答えてくれていると言えます。「シルワノの手によって」と書かれたところは、文法的に厳密に言うと、シルワノが書いたとも、シルワノが届けたとも解釈できますが、彼が口述筆記したと言う方が、整合性があるようです。ペテロの第2の手紙が、非常に素朴な文体であると言うのも、第2のほうは、漁師であったペテロ自身の言葉だと考えられます。そしてペテロ自身が「この第二の手紙をあなた方に書き送り」と書いており、第一の手紙の存在を証言しています。
またシルワノが、ペテロやヤコブ、ヨハネが柱となっていたエルサレム教会の指導者で、かつパウロと共に伝道旅行していたこと。また、ペテロの通訳とも、記録者とも言われるマルコもまた、パウロと一緒に伝道していました。マルコは自身の経験とペテロの証言を基に福音書を記しました。パウロも、マタイの福音書が記された後は、それを手に伝道していたと考えられています。ここからも、ペテロもパウロの間に、福音理解に大きな違いがあったのではないことが分かります。お互い賜物や遣わされた役目は違いましたが、最も大切な福音について、イエス・キリストの教えの理解は同じであったと言うことであります。これで、教理的な面や用語の相似性も、不自然ではないと言えます。
緒論が長くなりましたが、最後に書かれた時期について申し上げますと、おそらく期限62年から64年の間だろうと言われています。第一の手紙では、マルコが一緒にいたことは書かれていますが、パウロへの言及がありません。パウロも2年程ローマで幽閉されていましたから、もし、パウロがローマにいたなら、おそらく名前を記していたと思われます。第二の手紙の中では、パウロの書簡について、肯定的に触れているからです。ですから、パウロがローマから開放された62年以降。そしてペテロが、ネロの迫害で殉教したのが64年頃と言われますので、その間に書かれた、ということになります。
「クリスチャンの身分・選びと天の国籍」
それでは、ペテロが励ましの手紙を書き送った人々がどのような苦難の中にあったか、ということです。
手紙の中では、信徒たちが理解されないこと。「悪人よばわり」されること。キリスト者となることで、異邦人たちと同じような、乱行。好色、宴楽、暴飲、偶像礼拝に加わらなくなったため、怪しんで、ののしる、危害を加えようとする、といったことが数えられています。このことは、彼らの苦難や試練が、ローマによる国家的な激しい弾圧ではなく、ユダヤ人による異端としての迫害や、まことの神様を知らない異邦人、この世の人々の無理解からくる、怪しい者としての差別、圧迫であったことが分かります。そのような社会の中で、固く信仰を保ち、キリストに従って生きることの困難は、今の私たちクリスチャンにも共通するものであります。
この苦難に中にある人々に送った、ペテロの励ましを見てまいりたいと思います。1節から2節。
<1イエス・キリストの使徒ペテロから、ポント、ガラテヤ、カパドキヤ、アジヤおよびビテニヤに離散し寄留している(選ばれた)人たち、2すなわち、イエス・キリストに従い、かつ、その血のそそぎを受けるために、父なる神の予知されたところによって(選ばれ)、御霊のきよめにあずかっている人たちへ。恵みと平安とが、あなたがたに豊かに加わるように。>
まず、挨拶です。ペテロが書き送った相手は「ポント、ガラテヤ、カパドキヤ、アジヤおよびビテニヤ」の教会の人々でした。おもに小アジアと呼ばれる、今で言う、トルコ周辺の地域にあった教会に対して送っています。そういったところに「離散して寄留している人たち」。と言っています。これは旧約のイスラエル民族に譬えた表現ですが、ヤコブの手紙でも使われていました。ヤコブでは「離散している十二部族の人々へ」と書き始めています。ヤコブの手紙からペテロの手紙までは、約10年程の年月が経っています。表現は同じようですが、意味するところは違っています。ヤコブの時は、実際にエルサレムから追われて散っていった信徒たちを捕囚後のユダヤに譬えていますが、ペテロが書き送った先は、既にそこに住んでいて、伝道によってクリスチャンとなった人たち、教会です。ですから離散して寄留しているわけではありません。ペテロが言いたかったのは、信徒の国籍は天にあって、この世においては寄留者である、という真理であります。この世の差別や迫害、困難はあっても、この世は一時の寄留地であって、あなた達の本籍は、もう天にあるのですよ、ということを最初に宣言しています。天に国籍を持つ人たち、と呼び掛けているわけです。
「聖別の目的・キリストによる救い」
すなわち、と2節に続けます。それはどういうことか、あなた達はどのような人なのかという説明です。「父なる神の予知されたところによって選ばれ、御霊のきよめに与っている人たち。」それも「キリストに従い、かつ、その血のそそぎをうけるために」という目的のために、であります。
御霊のきよめは、聖化とか聖別という意味もあります。キリスト血の注ぎは、キリストの血による贖に御業に与るように、ということ。それが父なる神の予知。あわれみによって永遠からあなた達を知り給う、神のご計画と予定に基づいて、という、父子御霊の三位一体なる神の救いの御業に与っている、あなた達という意味であります。この挨拶のわずか一節で、この世の苦難を覚えている信徒たちの、身分。いかなる存在かを明らかにして、その自覚へと導こうとしているわけであります。
<恵みと平安とが、あなたがたに豊かに加わるように。>という祝福で挨拶を締めています。これだけでも十分な励ましですが、ペテロはここからさらに、あなた達に与えられたその恵みがいかに豊かであるかを述べていきます。試練の中の人々に、訓戒や叱責ではなく、恵みを語ることから始めています。それは、恵みの源である、神への賛美から始まっています。
「キリストの甦りが保証する希望」
3節から4節。
<3ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。>
と、神を褒め称えます。そしてその神は、イエス・キリストの父であられること。
<神は、その豊かなあわれみにより、イエス・キリストを死人の中からよみがえらせ、それにより、わたしたちを新たに生れさせて生ける望みをいだかせ、4あなたがたのために天にたくわえてある、朽ちず汚れず、しぼむことのない資産を受け継ぐ者として下さったのである。>
三節後半。神は、初穂であり、長子であるイエス・キリストをよみがえらせてくだることによって、御霊によって、信仰を通してキリストに繋げられたあなた達。キリストの民を、キリストに連なる者として、御子に等しい栄光を保証して下さいました。皆知る通り、キリストは復活され、天に昇られたでしょう。天にいて、わたしたちの住まいを用意され、世の富ではなく朽ちない富を蓄えていて下さっています。さらに御霊を遣わし、心の目を開き、霊的に新たに生まれさせ、やがて天に迎え入れてくださる、という希望が与えられています。生ける希望とは、生き生きとした、フレッシュでリアルな希望です。なんとなく、ぼんやりした、叶うかどうかわからない遠い希望ではなく、真実なる神様による確実な約束と、実際に初穂となられたキリストによって保証された、生き生きとした消えることの無い希望なのであります。
御子と同じく、子とされて、天の相続人とされること、すなわち天の御国での永遠の命と交わり、喜びであります。最初に信徒たちを寄留者と呼んだ理由がここに明らかにされています。そして、この恵みと希望は、何らこの世の基準にも功績にもよらず、ただ神の豊かなあわれみによるのだ、ということです。
「一時の試練を守り抜く神の御力」
5節から6節。
<5あなたがたは、終りの時に啓示さるべき救にあずかるために、信仰により神の御力に守られているのである。6そのことを思って、今しばらくのあいだは、さまざまな試錬で悩まねばならないかも知れないが、あなたがたは大いに喜んでいる。>
5節は少し分かりにくいですが、終わりの時に啓示される、というのは明らかにされる、実際に現れる、という意味です。キリストの再臨の時に実現する、御国と救いの完成。私たちがそれにあずかるために、守っていて下さる。神さまがその御力をもって、ということです。ですからこれほど確かな希望はありません。神が終わりの時まで守っていて下さるのですから。ですから、この世の今しばらくの試練の中でも、神のお守りによって、希望の確実さゆえに、喜ぶことができるのだ、というはげましであります。
私たちも、この小アジアの人々のように、この世においては、思うようにならないことが多く、試練や苦難が絶えることはありませんが、試練は一時。その先に見えている、天の恵みと平安は永遠であります。この御言に励まされつつ、この世の信仰生活を歩んでまいりたいと願います。