主が共におられるから
【4 彼らは互に言った、「わたしたちはひとりのかしらを立てて、エジプトに帰ろう」。5 そこで、モーセとアロンはイスラエルの人々の全会衆の前でひれふした。6 このとき、その地を探った者のうちのヌンの子ヨシュアとエフンネの子カレブは、その衣服を裂き、7 イスラエルの人々の全会衆に言った、「わたしたちが行き巡って探った地は非常に良い地です。8 もし、主が良しとされるならば、わたしたちをその地に導いて行って、それをわたしたちにくださるでしょう。それは乳と蜜の流れている地です。9 ただ、主にそむいてはなりません。またその地の民を恐れてはなりません。彼らはわたしたちの食い物にすぎません。彼らを守る者は取り除かれます。主がわたしたちと共におられますから、彼らを恐れてはなりません」。10 ところが会衆はみな石で彼らを撃ち殺そうとした。そのとき、主の栄光が、会見の幕屋からイスラエルのすべての人に現れた。】民数記 14章 4節から10節
「わたしたちが行き巡って探った地は非常に良い地です。8 もし、主が良しとされるならば、わたしたちをその地に導いて行って、それをわたしたちにくださるでしょう。それは乳と蜜の流れている地です。9 ただ、主にそむいてはなりません。またその地の民を恐れてはなりません。彼らはわたしたちの食い物にすぎません。彼らを守る者は取り除かれます。主がわたしたちと共におられますから、彼らを恐れてはなりません」。
民数記14章7節から9節の御言でございます。これはモーセの後継者、ヨシュアと、ユダ族でエフンネの子、カレブによる演説であります。本日は、「主が共におられるから」という、ヨシュアとカレブの激励の言葉から、主なる神により頼む、主の民の姿を教えられたいと願っております。
それでは、まずヨシュアたちがイスラエルの全会衆に向けて語ったこの演説の背景を見てまいりたいと思います。400年間、奴隷となっていたイスラエルの民を、主がモーセを召して、エジプトから救い出されました。イスラエルは、かつて主が約束されたカナンの地に向かっていきます。まず、シナイ山で主がイスラエルの民とあらためて契約を交わされ、律法が与えられました。エジプト脱出後のイスラエル旅路は、大抵聖書の巻末に、順路を示した地図が載っていますので、ご参照いただければと思います。
イスラエルが進んだシナイ半島はちょうど逆三角形の形をしています。彼等がエジプトを脱出する際に、主が海水を割られた海、葦の海と呼ばれる紅海がシナイ半島の北西の角にあたります。そこから、南東ぬ向かって、約3か月かけて辿り着いたシナイ山は、逆三角形の、南の端に近い部分です。そこで、律法を受けて、主が命じられた幕屋を建てたりして、10か月ほど過ごします。幕屋が出来上がった後、人口調査をして、1か月足らずで、こんどは逆三角形の、反対側、北西に向かって出発します。その先の、塩の海、死海とヨルダン川の西側にカナンの地がありました。
彼らが進む間、主は、彼らの神として共おられ、その印として雲の柱によって進路と信仰を導いていかれました。また、モーセを通して命令を与え、民を指導し導いていかれました。
さて、シナイ山から産地を迂回しながら北西に進み、そこから北に向かったところにある、カデシ・バルネアという土地のあたりに到着しました。シナイ山から通常だと19日の道のり、と書かれていますが、その間にも様々な出来事がありましたので、数ヶ月くらいかかったと思われます。シナイを出発する前の人口調査では、兵士となり得る成人男子65万人という数でしたので、イスラエル全体としては2~300万人いたと考えられます。約300万の民族の行進ですから、通常より困難な道のりです。しかし、エジプトを脱出して2年ほどかけて、かつて主がアブラハムに約束されたその土地まで、目と鼻の先までたどり着いたところであります。
そこで、主がモーセに命じられます。13章の1~3節を読んでみましょう。203頁です。
【1主はモーセに言われた、2 「人をつかわして、わたしがイスラエルの人々に与えるカナンの地を探らせなさい。すなわち、その父祖の部族ごとに、すべて彼らのうちのつかさたる者ひとりずつをつかわしなさい」。
3 モーセは主の命にしたがって、パランの荒野から彼らをつかわした。】
こうして、12部族から一人ずつ代表者が集められて、斥候として、先だってカナンの調査に派遣されました。この中に、エフンネの子カレブと、ヌンの子ホセア。ホセアはヨシュアの本名です。このホセアをモーセはヨシュアと呼び、それを彼の名前にしました。ホセアは「救い」という意味で、ヨシュアは「主は救い」という意味です。イエス・キリストのイエスは、ヨシュアのギリシャ語訳です。
さて、主がイスラエルの民を導きいれると約束されていた、カナンに向かった斥候たちは、40日間の調査を終えて、モーセたちのもとに戻ってきて、報告をします。報告した内容は13章27節(204頁)。
【27 彼らはモーセに言った、「わたしたちはあなたが、つかわした地へ行きました。そこはまことに乳と蜜の流れている地です。これはそのくだものです。】
彼らは、大きなブドウの房を棒にかけて持ち帰りました。そのような絵を見た覚えがある方も多いと思います。ぶどうとザクロとイチジクを持ち帰ったと書かれています。「まことに乳と密の流れている地です」と報告していますが、これはモーセによって聞かされてきたカナンの地を表す言葉でした。出エジプト記の3章8節ですでに、主がモーセに向かって「わたしは下って、彼らをエジプト人の手から救い出し、これをかの地から導き上って、良い広い地、乳と蜜の流れる地・・に至らせようとしている」と仰っていました。出エジプトの13章ではモーセが民に対して「主があなたに与えると、あなたの先祖たちに誓われたカナンびと、ヘテびと、アモリびと、ヒヒびと、エブスびとの地、乳と蜜の流れる地」と説明しています。そして、斥候たちが目にしたのは、実際に表現された通りの土地だった、ということを言っています。「まことに・・」と。聞いていたことは本当だった、ということです。
ここまでは、良い報告でしたが、この後から問題が出てきます。13章28節から
【28 しかし、その地に住む民は強く、その町々は堅固で非常に大きく、わたしたちはそこにアナクの子孫がいるのを見ました。29 またネゲブの地には、アマレクびとが住み、山地にはヘテびと、エブスびと、アモリびとが住み、海べとヨルダンの岸べには、カナンびとが住んでいます」。】
土地は確かに豊かですが、それゆえ、そこに住んでいる人々は強く、町も大きく堅固だから、到底そこに入っていくことは叶いそうにない、という報告でした。アブラハムがその地を離れて500年以上でしょうか。すでに多くの民族が入り込み、繁栄したようです。非常に弱気な発言でした。確かに、自分たちが見てきたことを報告していますが、「主が約束されていた」という一番大切な点を、考慮していない、忘れたかのような言い方でありました。ここまで、導いてこられた、主なる神様の約束ということより、自分の判断を上においていたのであります。この報告を聞いた民が不安に駆られて騒ぎ出しました。
そこで、同じく斥候に行っていたカレブが発言します。30節。
【30 そのとき、カレブはモーセの前で、民をしずめて言った、「わたしたちはすぐにのぼって、攻め取りましょう。わたしたちは必ず勝つことができます」。】
前の報告者たちの発言に、約束の地に入ることへの後ろ向きな姿勢が見て取れたのでしょう。「すぐ、上りって攻め取ろう」と弱気を打ち消すようにせかします。「必ず勝てる」と断言しています。カレブがここまで断言できたのは理由があります。民数記では記載がありませんが、申命記の1章21節では、斥候を遣わす前にモーセが主の命令を伝えていたのです。それは
【見よ、あなた方の神、主が告げられたように、上って行って、これを自分のものとじなさい。恐れてはならない。おののいてはならない】
という言葉でした。カレブにはこの主に対する強い信頼があったことが分かります。この「おそれるな、おののくな」という激励は、このあともイスラエルの民の、大切なところで何度も繰り返される激励のことばとなります。
このカレブの強い提案を聞いた他の斥候たちが、今度ははっきりと否定します。31節から。
【31 しかし、彼とともにのぼって行った人々は言った、「わたしたちはその民のところへ攻めのぼることはできません。彼らはわたしたちよりも強いからです」。32 そして彼らはその探った地のことを、イスラエルの人々に悪く言いふらして言った、「わたしたちが行き巡って探った地は、そこに住む者を滅ぼす地です。またその所でわたしたちが見た民はみな背の高い人々です。33 わたしたちはまたそこで、ネピリムから出たアナクの子孫ネピリムを見ました。わたしたちには自分が、いなごのように思われ、また彼らにも、そう見えたに違いありません」。】
最初の報告では、「できない」とは言っていませんでした。自分の不信仰を責められることを畏れたのでしょうか、遠回しな言い方をして、全会衆を不安にして、その声でモーセらに判断させようと考えていたと思われます。しかし、カレブがはっきりと「すぐ攻めよう」と言ったものですから、慌てて「わたしたちはできません」と言わざるを得なくなりました。さらに彼らは、探った土地のことを人々に「悪く言いふらした」のであります。主が誓って下さっていた土地のはずでした。言われていたとおり、乳と蜜の流れる地であることを確認しました。それでも、彼らは、自分の目で見た恐れが先に立っていました。だから、正しい判断ではなく「悪く」言いふらすことになりました。真実を曲げてしまう立場に追い込まれます。ここに、人の罪と、誰もが持つ弱さが表されています。
小さな一つの偽りによって、どんどん嘘を塗り重ねたり、大きくせざるを得なくなってしまうのであります。そして、民は、この言いふらされた不安に惑わされてしまいます。
14章1節以降、会衆は皆声を上げて叫び、夜は泣き明かしました。そして、これまでにも繰り返されてきたつぶやきが始まります。エジプトで死にたかった、荒野で死にたかった、いっそ今からエジプトに戻れないか。自らが望んで、主に呼ばわって、主がそれを聞かれ、多くの奇跡によって奴隷の身から救い出してもらったにもかかわらず、のど元過ぎれば民はすぐ忘れて、目の前の不平を口にしました。「なにゆえ、主はわたしたちを・・」というように、救い主であり、自分たちの神となって下さった主に、自分たちの不安や苦労の責任があるかのように振る舞います。ここまでの荒野でも繰り返されましたが、主は常に必要を与えておられたにもかかわらず、不足が満たされれば、更に次の不足を求める人間の欲深さであり、弱さでもあります。申命記の1章では、彼らは「主はわれわれを憎んでアモリびとの手に渡し、滅ぼそうとしてエジプトの地から導き出されたのだ」と言ったと書かれています。
実際、とうとう彼らはエジプトに帰る、という判断をしました。14章4節5節。
【4 彼らは互に言った、「わたしたちはひとりのかしらを立てて、エジプトに帰ろう」。5 そこで、モーセとアロンはイスラエルの人々の全会衆の前でひれふした。】
主が選び、主が立てられたモーセを廃して、自分たちが別の指導者を立てて、エジプトに帰る、と言いだしました。これを聞いたモーセとアロンは平伏しました。ここでは、「全会衆の前で」平伏しています。全会衆の前に、ではありません。会衆に対してではなく、会衆の前で、主に対して平伏したということです。指導者として、預言者として、そして民の代表として、主のみ前で民の不信仰を畏れ、悔い改め、執り成しのために平伏している、ということです。
約束の地を目前にして。このような混乱に陥った状況に、もういちどカレブと、ヨシュアが語り掛けます。6節から9節。
【6このとき、その地を探った者のうちのヌンの子ヨシュアとエフンネの子カレブは、その衣服を裂き、7 イスラエルの人々の全会衆に言った、「わたしたちが行き巡って探った地は非常に良い地です。8 もし、主が良しとされるならば、わたしたちをその地に導いて行って、それをわたしたちにくださるでしょう。それは乳と蜜の流れている地です。9 ただ、主にそむいてはなりません。またその地の民を恐れてはなりません。彼らはわたしたちの食い物にすぎません。彼らを守る者は取り除かれます。主がわたしたちと共におられますから、彼らを恐れてはなりません」。】
わたしたちは、さまざまな状況、困難に遭い、情報に惑わされ、おそれおののいてしまうものです。不平と不満を口にする、イスラエルの民となんら変わりありません。
「恐れてはならない、おののいてはならない」という励ましは、「主が良しとされるなら」喜ばれるなら、という意味でもあります。主の御心であれば、何事もその通りになる、という事実。その前提によって、確かなものとして支えられています。モーセとアロンを降ろして、エジプトに帰ろうとそそのかした斥候たちと、同じものをみてきたヨシュアとカレブが、はっきりと「進むべき、戦うべき」と宣言できたりゆうは、ただ一つです。「主がわたしたちと共におられますから」。
主が共にいて下さる、という確信と、信仰によって。この一時によって、わたしたちは、おそれつつ、おののきながらも、進むことが叶うのであります。自分の目の都合が悪いことも、主に完全に信頼を置いて居れば、御心であれば受け入れ、従うことができます。主は怒ることおそく、憐み深く、慈しみに富み、御子イエス・キリストにあって私たちを愛してやまないお方です。唯一、完全に真実な変わることの無い、固くより頼むことができる地盤です。ヨシュアとカレブの二人は、この信仰が与えられていました。共にいて下さる主により頼む、何よりも確実で安全な判断でありました。彼らは「おそれてはならない、おののいてはならない」という御言に、従順であったのであります。それゆえ、ここの二人だけが、結局、カナンの地に入ることが許されたわけであります。
このような、主への従順を示した二人を、イスラエルの会衆は、何と石で撃ち殺そうとしてしまいます。そこまで来て、とうとう主が怒りを表されることになりました。
10節以降に示されるのは、民の不従順、滅びの宣告、執り成しの悔い改め、そして赦しと試練が与えられることが記されていきます。この後、イスラエルの民は38年間、エジプトを出て40年間荒野をさまようことになります。主が仰います「かの地を探った40日の日数に従い、1日を1年として40年間」約束の地から遠ざけられます。しかし、それは罰でもありましたが、同時に主の赦しと、神の民への教育の時間でもありました。罪に満ちた異教徒の中に入っていき、神の民としての国を立ち上げるまでの、信仰の準備期間が備えられたのであります。モーセもアロンも、エジプトを脱した第一世代はカナンに入ることは叶いませんでした。主に打たれた者も多くありました。しかし、たとえ荒野でその命が尽きたとしても、主に立ち帰り、信仰ある者は、カナンに入れずとも、御国に入れられたのであります。
いま、わたしたちも疫病があり、戦いがあり、地震があり、という終末に近づいているかのような出来事の中でいかされていますけれども、イエス様が世の終わりまで共にいて下さる、とはっきりお約束して下さいました。それゆえすべての国民を弟子とせよと。どこまでも共にいて下さる主に信頼して、混乱の世に福音を届ける御用のために用いられますよう、祈りたいと思います。