助け出して下さい
「聖歌隊の指揮者によってシェミニテにあわせ琴をもって歌わせたダビデの歌」
1 主よ、あなたの怒りをもって、わたしを責めず、あなたの激しい怒りをもって、わたしを懲らしめないでください。
2 主よ、わたしをあわれんでください。わたしは弱り衰えています。主よ、わたしをいやしてください。わたしの骨は悩み苦しんでいます。
3 わたしの魂もまたいたく悩み苦しんでいます。主よ、あなたはいつまでお怒りになるのですか。
4 主よ、かえりみて、わたしの命をお救いください。あなたのいつくしみにより、わたしをお助けください。
5 死においては、あなたを覚えるものはなく、陰府においては、だれがあなたをほめたたえることができましょうか。
6 わたしは嘆きによって疲れ、夜ごとに涙をもって、わたしのふしどをただよわせ、わたしのしとねをぬらした。
7 わたしの目は憂いによって衰え、もろもろのあだのゆえに弱くなった。
8 すべて悪を行う者よ、わたしを離れ去れ。主はわたしの泣く声を聞かれた。
9 主はわたしの願いを聞かれた。主はわたしの祈をうけられる。
10 わたしの敵は恥じて、いたく悩み苦しみ、彼らは退いて、たちどころに恥をうけるであろう。詩編 6篇 1節から10節
「4主よ、かえりみて、わたしの命をお救いください。あなたのいつくしみにより、わたしをお助けください。」
詩篇6篇の4節のみ言葉です。
詩篇は第1巻から第5巻に分けられています。モーセ5書に対応させたとも言われています。その中で第1篇から41篇までが第1巻です。第1巻では、特に「わたし」という一人称で歌われる詩篇が多く、個人の讃美。神様への私たち一人一人の祈りと感謝が歌われています。
その詩篇第1巻の始まりで、契約の恵みのみ言葉を受けて、生きる者。その幸い。それが詩篇1篇で歌われました。そして、救い主・キリストなる、まことの王により頼む者、それが第2篇で歌われました。その契約と、救い主 メシヤなるお方の王権に生きる、その幸いが詩篇の序文を形成していました。アシュレーで始まりアシュレーで終わる。「幸いなるかな」で始まり「幸いなるかな」で終わる、1篇と2篇が、詩篇全体の、契約の救いとキリストの王権。それに生きる者の幸いと言うことに纏められて、その讃美で始まりました。その契約の救いの讃美と、それからメシヤの王権の讃美が、詩篇全体に無数に散らばっている、ということになります。第1篇と第2篇は、併せて詩篇全体の序文といえます。
そして詩篇3篇から、私たちの、日々の讃美が歌われていきます。それは、日々私たちが体験して、朝に夕に支えられている、恵みへの讃美です。私たちの支えられている恵みは、神様の一方的な恵みの御約束に。恵みの誓いの御約束に基くもの。恵みの契約に入れられた、という祝福の讃美であり、またメシヤなる王に救われた、と言う讃美です。私たち、朝に夕に、私たちの人生はこの恵みの契約の中に入って、メシヤなる王に支えられて生きていく。その恵みを讃美しているわけであります。それは、救い主イエス・キリストにある、恵みに生きる人生の現実を歌っていることになります。
第3篇から6篇は朝と夕の讃美から始まります。第3篇が朝、第4篇が夕、第5篇は朝、特に夜明け。第6篇は夕、寝る前の夜の讃美になっています。本日は、この第6篇です。6節に<6.わたしは嘆きによって疲れ、夜ごとに涙をもって、わたしのふしどをただよわせ、わたしのしとねをぬらした。>とありますように、日々の夜の讃美。寝床における讃美に聞いてまいります。
この6篇は詩篇の中でも、最も暗い感じの詩篇の一つです。悔い改めの詩篇とも呼ばれています。とっても暗い感じなのですが、それはどうしてでしょうか。
夜。この世の働きから、傷ついて帰ってきて、そしてその時の非常に重い、暗い気持ちからこの讃美が始まります。この「寝床にもどる」というのは、ただ寝るというだけではなくて、実は主の元に戻ってくるということです。そして、夜、主の前に戻って、床に就く時に、まず神様に直接、自分への御怒りを嘆いて、ぶつけます。詩篇はこれほどに、くら~い心の底からも、私たちが歌うことが導かれるのです。神様を讃美できない時は無い、と言うことが教えられます。
主の前に、夜、戻ってきて、本当に神様の御怒りを覚えて、嘆いて、悔い改めて、それと共に、讃美をするうちに、段々自分をとり戻して、悟って落ち着いていく。そういう夜の、大変つらい一日を過ごして、帰ってきた、寝床での歌であるというように感じて頂ければよいと思います。
表題で「シェミニテにあわせ琴をもって」とあります。シェミニテとは、第八の調べ、第八調と言う意味で、おそらく通常よりオクターブ下げた、低音での演奏だと言われています。そのように、琴を奏でて歌われたダビデの歌です。ダビデがかつてサウル王の前で琴を弾くと、(サムエル記上16:23)サウル王に臨んだ悪霊が去って、御霊によってサウルの心がしばらく静まった、という場面が思い起こされます。讃美をするにつれて、御霊の導きが自分を解きほぐしていきます。御霊にあって、主に委ねていくようにされます。サウルの心をも鎮めた、御霊の調べです。
この歌をダビデがいつ頃歌ったのでしょうか。はっきりとはわかっていません。第3篇が、「ダビデがその子アブサロムから逃れた時の歌」と書かれています。第3子アブサロムとの行き違いと反逆があり、逃げていた。このアブサロムの事件の頃。自分の罪とその結果に打ちひしがれて、寝床に戻る。神さまのみ怒りを覚えて、ほんとうに神様に、「どうか御怒りでわたしを責めないで下さい」という心境は、ちょうどアブサロム事件の時が当てはまるかもしれません。しかし、主の御霊の調べが心に入って、サウルの心のサタンにも打ち勝たれた御霊が、ダビデの心を主の愛で治め、鎮めていく。主の恵みが心に広がって、支配していく有様をこの歌に見ることができます。
まず、1節から3節まで。ここは、ダビデの主への懇願でございます。
<1.主よ、あなたの怒りをもって、わたしを責めず、あなたの激しい怒りをもって、わたしを懲らしめないでください。2.主よ、わたしをあわれんでください。わたしは弱り衰えています。主よ、わたしをいやしてください。わたしの骨は悩み苦しんでいます。3.わたしの魂もまたいたく悩み苦しんでいます。主よ、あなたはいつまでお怒りになるのですか。>
一日の傷ついた心、神さまの御怒りがあって、激しい主の憤りを感じて、主の前におののいています。そこから、率直に床に帰って「私を責めないで下さい」から始まります。そしてさらに、もう本当にストレートに懇願しています。「主よ、懲らしめないで下さい」
ただ、この願い。「主よ」という呼びかけは、主のみ名を呼んでいます。私たちがイエス様のお名前で祈るように、主ご自身が示された愛の主のお名前。契約のみ名で呼びかけます。私たちを知り、向かって下さる主を忘れません。「主よ、憐れんでください」。そして「私を癒して下さい。わたしの骨は悩み苦しんでいます。」 この最初の懇願の最後の部分は、「いつまでお怒りになるのですか」。いったい、いつまで・・と。「悩み苦しむ」こえは「恐れおののく」とも訳されます。わたしの魂は、ただ神様を恐れおののいています。あなたのみ怒りはいつまでですか?
私たちの、このふか~い、底の、本当に低くされた心でも、御霊は私たちを讃美へ導いていきます。そのまま歌うように。「責めないで下さい」。「懲らしめないで下さい」。「憐れんでください」。「癒して下さい」。「ひどく悩み苦しんでいます」。「一体いつまでですか・・」。私たちには、そういう時があると思います。その時には、どうしても私たちは自分の力で何とかしよう、というので、この詩篇のように、率直でストレートな讃美にならないです。しかし、詩篇のみ言葉はそのままに、主に乞い願うように、そのままの讃美に導いて下さっています。
続いて、4節から5節。
<4.主よ、かえりみて、わたしの命をお救いください。あなたのいつくしみにより、わたしをお助けください。5.死においては、あなたを覚えるものはなく、黄泉においては、だれがあなたをほめたたえることができましょうか>
ここは主への訴えです。懇願に続いて、愛の主に訴えかけます。
「主よ、かえりみて下さい」。「顧みる」。これは、ヘブル語で「シューブ」です。旧約聖書全体でも中心的な言葉、動詞の一つです。「立ち帰る」。「戻って来る」という言葉です。主は、ずっと私たちに「立ち返れ」。主のもとに帰ってきなさい、と呼び掛けておられます。日本語訳では「悔い改めよ」、とも翻訳されます。本来は向きを変えて、戻る。帰ってくるという意味です。新改訳は「主よ、帰って来てください」。と訴えています。新共同訳も「立ち帰ってください」。文語では「エホバよ帰りたまえ。わが魂を救いたまえ」。というように、主 に直接訴えます。
主は私たちに「私のところへ戻れ。(シューブ)」とおっしゃいました。私たちは神様に、私たちの方からも「シューブ」と言います。「主よ、帰って来てください。私を顧みて下さい」。命。「ネフェス」は魂です。命を、たましいを助け出して下さい。「あなたの慈しみによって」。「慈しみ」は「ヘセズ」、「恵み」と言う意味もあります。恵みによって戻ってきてください、救って下さい。「救う」は「ホセア」です。ヨシュアの名前は「イェ・ホシューア」。「主は救い」、と言う意味です。ヨシュア。イェホシューアのギリシャ語訳が「イエスース」。つまりイエス様のお名前になります。「ホセア」。救って下さい。ここでは特に「ホサーナ」の形になっています。「今、救って下さい」、と言う意味です。3つの大きななキーワード、わたしの「ネフェス」。魂を。あなたの「ヘセズ」。愛、恵みのゆえに。「ホサナ」。今、救って下さい」。そう、訴えます。
そして、5節前半。<.死においては、あなたを覚えるものはなく、>。主よ、覚えさせて下さい。私にあなたを讃美させてください。5節後半<黄泉においては、だれが あなたを ほめたたえることができましょうか。>どうか、わたしを滅びに渡さないで下さい。私たちは、クリスチャンは、死ぬと栄光の天に、魂が挙げられます。そうでない人は、暗闇の呪いの中、滅びへと行きます。彼は、自分は救われると、理解していたと思いますが、あたかも自分が滅びるような、不安な気持ちの体験をしています。私たちも、そのようなことがあるかも知れません。しかし、私たちは救われるのです。ですから、彼は「黄泉に、滅びに送らないで下さい。助け出して下さい。」と、叫んでいます。
続く6節から7節。悩み恐れおののいて、主 に懇願し訴えていた彼は、徐々に主への悟りに導かれていきます。6節7節では、まだ嘆いています。
<6.わたしは嘆きによって疲れ、夜ごとに涙をもって、わたしのふしどをただよわせ、わたしのしとねをぬらした。7.わたしの目は憂いによって衰え、もろもろのあだのゆえに弱くなった。
具体的な出来事は語られませんが、主のみ怒りを覚え、また傷ついた、弱った心、姿を主に示しています。毎晩、嘆き疲れ果てて、涙に暮れて、寝床が涙に漂うほどに。「臥所」「しとね」はもう古語ですね。ふしどは寝床、しとねは敷物や布団になります。日本語だと、涙で枕を濡らす、と言った表現がされますが、ここではもう、毎晩涙して、あふれて寝床を押し流してしまうほどです。それほど私は弱っています。と嘆きます。
そして<わたしの目は憂いによって衰え> 憂いというより、苦悩とか苦悶。苦しみ悶えて、という口調です。私の目は悲しみで、もう、溶けて消えてしまうほど、衰えてしまいました。
しかし、この嘆きの中で、悟りに導かれていきます。彼の中に力が湧いてきます。8節から9節。
<8.すべて悪を行う者よ、わたしを離れ去れ。主はわたしの泣く声を聞かれた。9.主はわたしの願いを聞かれた。主はわたしの祈をうけられる。>
皆、私から離れて行け。悪を、不法を行う者は皆。「主は私の泣く声を聞かれた」。今、救って下さい、と訴えていました。そして、今、主が私の泣く声を聞いて下さった。主は私の願いに耳を傾け、祈りを受け入れられる。
彼の中に、こう歌ううちに、御霊の確信が戻ってきます。今、主が聞かれた。私の泣く声を聞かれたから、皆私から離れ去れ。主が私の切なる願いを聞き、私の祈りを受け入れられる。主が私たちの主でいて下さること。御霊の確信へと導かれます。
そして、10節。彼の心が決まっていきます。
<10.わたしの敵は恥じて、いたく悩み苦しみ、彼らは退いて、たちどころに恥をうけるであろう。>
彼ら、悪を行うものは、退いていく。大丈夫だ。心が決まって、神様の愛のうちに、自分を取り戻して、人々に対して恐れない、という風に心が決まって、彼は落ち着いて、ようやく眠っていくのであります。
またたく間に、主はこれらのことを、必ずなされる。主の愛のうちに。慈しみ・恵みによって。自分自身、砕かれて、くずおれるように、寝床に伏す時。その中で、私たちは、そのままに神様に訴えます。「責めないで下さい、懲らしめないで下さい、弱り衰えています。・・いつまでですか?」そして「顧みて下さい・帰ってきてください」(シューブ)と願います。「ヘセズ」慈しみのゆえに、「ホセア」救って下さい。助け出して下さい。しかし、その願いの中で力を得ます。
皆、離れ去れ。主が私の泣く声を聞いていらっしゃる、主は私の願いを聞き、祈りを受け入れられる。人々を恐れない。そうやって、私たちは眠りに着くことができる。主が知っていて下さり、主を知る者の幸いであります。
神様の讃美は、私たちの人生の目的でもあります。主を崇め、栄光を表すこと。讃美は美を讃えると書きますが、「美しい」の意味は元々、家族や子供への愛です。また麗しいこと、立派なこと、よい・善なることを意味します。Beautifulだけではなく、lovely、great、goodnessもあります。そのような神様を讃えることの中には、この詩篇のように、懇願があり、祈りも含んでいます。讃美や祈りにおいて、私たちは何か身構えたり、取り繕おうと考えてしまいますが、特にここでは日々の個人的な讃美が歌われています。ありのままに、心をすべて開いて、主に懇願することが赦されています。主は慈しみによって、恵みの契約のゆえに。私たちに与えられた救い主、イエス様のお名前によって、これを聞いて下さいます。私たちの全てを知っていて下さる主に、全てをゆだね讃美する内に、平安と力が与えられていくのであります。