苦難に続く喜び
6そのことを思って、今しばらくのあいだは、さまざまな試錬で悩まねばならないかも知れないが、あなたがたは大いに喜んでいる。7こうして、あなたがたの信仰はためされて、火で精錬されても朽ちる外はない金よりもはるかに尊いことが明らかにされ、イエス・キリストの現れるとき、さんびと栄光とほまれとに変るであろう。8あなたがたは、イエス・キリストを見たことはないが、彼を愛している。現在、見てはいないけれども、信じて、言葉につくせない、輝きにみちた喜びにあふれている。9それは、信仰の結果なるたましいの救を得ているからである。10この救については、あなたがたに対する恵みのことを預言した預言者たちも、たずね求め、かつ、つぶさに調べた。11彼らは、自分たちのうちにいますキリストの霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光とを、あらかじめあかしした時、それは、いつの時、どんな場合をさしたのかを、調べたのである。12そして、それらについて調べたのは、自分たちのためではなくて、あなたがたのための奉仕であることを示された。それらの事は、天からつかわされた聖霊に感じて福音をあなたがたに宣べ伝えた人々によって、今や、あなたがたに告げ知らされたのであるが、これは、御使たちも、うかがい見たいと願っている事である。ペテロの第一の手紙 1章 6節から12節
<7こうして、あなたがたの信仰はためされて、火で精錬されても朽ちる外はない金よりもはるかに尊いことが明らかにされ、イエス・キリストの現れるとき、さんびと栄光とほまれとに変るであろう。>
ペテロの第一の手紙1章7の御言でございます。本日もこの手紙の御言葉に聞いてまいりたいと思います。使徒ペテロが書いた手紙は、クリスチャンが異邦人の中で、まことの神を知らない社会で生きることの苦労に対して。様々な試練や、不自由、困難を覚える信徒たちを励まし、信仰を固く保つために書き送った、励ましと教訓の手紙であります。
悩みと苦しみを覚える人々に、ペテロが最初に送った言葉は、クリスチャンの身分について。あなた方キリストの民はこういう存在である、という宣言でもある挨拶でした。クリスチャンは、まず神が選んでおられるということ。聖霊が聖別して下さっているということ。その目的は、神の御子イエス・キリストの血による罪の贖いに与り、罪が赦されてイエス様に従うように、というものです。イエス様につながることで、やがて、御子イエス様が天でお受けになるいっさいの恵みと栄光を共に受ける者とされているという、恵まれた者であることの宣言です。しかも、その時まで、神ご自身がその全能の御力をもって、守り続けて下さるという真実を伝えました。
この世の生活の中で、日々世のさまざまな事柄に心を砕き、心を奪われていく中で、クリスチャンを支えるのは、天に目を向けること。天の父が、御子を信じる者の本籍を、天に御国に置いて下さっていることを、再確認させようとしていました。
6節以降では、重ねて試練の中の人々に、彼らに与えられ、更に約束された恵みの豊かさと、確かさを語っていきます。豊かさは、信仰による救いと栄光の喜びであり、イエス・キリストによること。確かさは、そのキリストによる救いが、大昔から、旧約聖書に預言された救いの成就であり、聖霊がそれを明かしておられる、ということであります。
「試練によって磨かれる信仰」
6節7節をお読みいたします。
<そのことを思って、今しばらくのあいだは、さまざまな試錬で悩まねばならないかも知れないが、あなたがたは大いに喜んでいる。7こうして、あなたがたの信仰はためされて、火で精錬されても朽ちる外はない金よりもはるかに尊いことが明らかにされ、イエス・キリストの現れるとき、さんびと栄光とほまれとに変るであろう。>
試練「はさまざまであります。ここでは「様々な」とされる試練は複数形で「諸々の」とか「数々の」という意味になります。様々な、数々の試練。ひとつ無くなったと思えば、また思いもせず現れてきます。この世にあっては、心休まることがありません。しかし、「今しばらくのあいだは」と言われている通り、
世はひとときであり、有限であります。私は今年で58歳になります。結婚したのが30歳直前でしたから、もうすぐ人生の半分近くになります。しかし、ここまでの人生を前半と後半に分け考えると、前半に比べて、後ろ半分がずっと短く感じられます。同じ時間のはずですが、前半の半分くらいしかたっていない気がします。きっと、これからますます加速していくのだろうとは思います。世はひととき。一人一人の生涯の長短はどれほどあっても、同じひとときであります。それは、主なる神様が永遠の救いへと、イエス様のもとへと招いていて下さる時間に外なりません。このひとときの人生は、主にお応えするための時間であり、天国への助走であります。
そこで7節「信仰がためされ」と。この試すは、試験とか検査という言葉です。本物かどうかを試して、証明するという意味です。「火で精錬され」の精錬と語源は同じです。信仰は、検査される、ということですが、落とすための検査という意味合いではなく、試験によって真実であることが証明されるためのものです。ですから、結果として「明らかにされ」と続きます。信仰は精錬されますが、それによって朽ちるのではなく、金よりはるかに尊いことが証明されるということです。宝石が、岩から砕かれ、カットされ、磨き上げられて輝きを放つように、信仰もまた、ひとときの試練によって磨き上げられるということであります。
6節にあるように、試練によって悩まされ、悲しまされますが、その試練を通して信仰が磨かれ、磨かれた信仰によって、嘆き悲しみは、イエス様が再び現れる時。つまり、終末の時に、「さんびと 栄光と ほまれ」に変えられる、と教えています。ひとときの試練は、信仰ゆえの試練であり、それは同時に信仰のための試練であります。信仰とは、イエス様を、人となられた神の子、真の救い主キリストと信じることです。イエス様に御名ゆえの試練、困難は天の報いが大きいことを、イエス様が約束されています。イエス様の御言に信頼し、それを思えば試練の中にあっても喜ぶことができる、というわけです。
「見えない者を信じる信仰は主による」
10節以降で、試練や苦難の中での喜びの原因が教えられます。それはキリストの御姿に表されているのですが、その前に、主題と主題を繋ぐ架け橋のように、私たちとキリストについて語っています。8節9節。
<8あなたがたは、イエス・キリストを見たことはないが、彼を愛している。現在、見てはいないけれども、信じて、言葉につくせない、輝きにみちた喜びにあふれている。9それは、信仰の結果なるたましいの救を得ているからである。>
あなた方はイエス・キリストを見たことがなく、愛している。つまり、宛先の信徒は、私たちと同じであります。イエス様を見たことがない。しかし愛しているということ。見ずに信じ、試練の中で輝きに満ちた喜びにあふれる、というその理由は、「信仰によって、たましいの救いを得ている」からと教えられます。すでに、魂が救われている。一つは、実際の命として、永遠の命に入れられているという事実。そして、この世においても霊的な目が開かれ、目で見なくても、伝えられた福音、御言葉によって、救いに至る信仰が与えられているということです。
イエス様はかつてトマスに「見ないで信じる者は幸いである」と仰いました。ヘブル人への手紙11章でも「信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである」と教えられています。イエス様を見ずに愛するのは、実はまずイエス様が私たちを見ていて下さり、愛して下さっているという証であります。私たちを愛し、招きご自身の民として下さり、魂の救を与えて下さいました。魂は永遠であります。人の魂ということ。その根源である、唯一の霊。真の霊なる神様を知らない、ということが、人の罪であり、盲目であるということです。真の霊について知らないことで、偽物の霊、怪しげなスピリチュアルなものに惑わされてしまうのが現代の、特にわが国ではこれが顕著だと思います。霊という事柄を、教育や社会からできる限り遠ざけた結果、却って危険を招くということです。見ていないキリストを信じて愛する、ということは、この世では理解されがたいことです。しかし、それは唯一まことの霊なる神であり、救い主であるイエス・キリストが私たちを愛して、救って下さっている証拠だということを覚えたいと思います。
「預言の成就・救いの客観性」
続いて、10節から11節。
<10この救については、あなたがたに対する恵みのことを預言した預言者たちも、たずね求め、かつ、つぶさに調べた。11彼らは、自分たちのうちにいますキリストの霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光とを、あらかじめあかしした時、それは、いつの時、どんな場合をさしたのかを、調べたのである。>
信徒に与えられたイエス・キリストにある救いと恵みについて。その確かさは、数千年の大昔より、預言者たちが、たずね求め、聖霊によって明かされ、語ってきたという歴史的に裏打ちされたことでもあります。この手紙が書かれた時代において、30年ほど前に、ナザレのイエスという一人の人に起きた出来事、事件ではない。ある日、その時に突然表された何か、ではなく、ずっと預言され、記され、調べられてきた事柄でした。その神の言葉の内容は、約束の救い主が、苦しまれること。キリストが苦難を受け、その次に、それに続く栄光を受けられるということでした。ここでは、キリストの霊が予言者に証しした、と書かれています。
「危難に続く栄光・キリストのみ足跡」
まず、苦難を受け、その次に栄光であります。この順序が聖書の予言であり、実際に成就した事実であります。この順序を心に刻みたいと思います。逆ではない、ということであります。キリストにおいて明かされた苦難と栄光は、定められていた神のご計画であり、御心でした。これは、苦難のあとに栄光が約束されている、苦しみこそやがて来る栄光を証ししている、ということであります。
元々、造り主なる神ご自身が、被造物にて罪人である私たちに御名を明かし、契約を交わし、交わりを保って下さること自体、神様がへりくだって下さらなければ、叶わない事でした。そして、神に御子なる救い主は、人となって下さり、本当に低いところに来てくださり、救うべき人々から蔑まれ、迫害され、裏切られ、苦しみを受けられました。呪われた者がつく十字架で血を流し、黄泉にまで下るまで、父なる神への従順を貫かれました。その苦難の先に、復活と召天。そして今、天地の全権を授けられ、神の右に着座されている栄光の御姿を示されているわけであります。
私たちクリスチャンは、このキリストに繋がる者でありますから。父なる神が定められ、キリストが辿られたこの道程は、私たちにも当てはまります。キリストの御足跡に従う者は、同じように栄光へと導かれているのであります。この地上で、日々の生活で、様々な苦労があり、信仰においても、また信仰ゆえに訪れる困難があります。しかし、それは次に続く栄光へとつながる道順ですから、先に歩まれたキリスト思いながら、喜んで試練の中を生きることが叶うのであります。
「教会の使命・永遠の救いに導く福音伝道」
最後に12節。
<12そして、それらについて調べたのは、自分たちのためではなくて、あなたがたのための奉仕であることを示された。それらの事は、天からつかわされた聖霊に感じて福音をあなたがたに宣べ伝えた人々によって、今や、あなたがたに告げ知らされたのであるが、これは、御使たちも、うかがい見たいと願っている事である。>
魂の救い、永遠の命、輝かしい栄光への招きであります。代々、そのため召された多くの人々が、聖書を記し、解き明かし、宣べ伝えてきたこと。それが福音であります。これはキリストの教会によって、教会を通して、教会に対して行われてきました。旧約の時代から、変わらないキリストの教会であります。全キリストの民の集合体である見えない教会と、それに連なる以上に立てられた教会であります。地上の教会に属さず、一人で御言葉に触れて導かれた者も、その御言葉の元は教会にあります。
このキリストの救いの御業のご計画は、御使いにすら明かされていなかった、神の深い御心の内にありました。この福音、すなわちイエス・キリストへの信仰による救い。神の愛の宣教は、キリストの霊によって。天から遣わされた聖霊に感じて、とあるように、教会に、そして伝道者に働く聖霊の御業によって世界に届けられてきました。それもまた、奉仕であり、苦難の歴史でもあります。多くの殉教や犠牲もあれば、過ちもありました。それでも、キリストの御名ゆえのあらゆる苦難も、また日々の試練も、キリストご自身が歩まれた道であり、私たちを永遠の栄光と運ぶ道標であります。この御教えに信頼して、一切を主に委ね、この世のひととき信仰生活を、喜びつつ歩んでまいりたいと願う次第です。