祝福を受け継ぐため
8最後に言う。あなたがたは皆、心をひとつにし、同情し合い、兄弟愛をもち、あわれみ深くあり、謙虚でありなさい。
9悪をもって悪に報いず、悪口をもって悪口に報いず、かえって、祝福をもって報いなさい。あなたがたが召されたのは、祝福を受け継ぐためなのである。
10「いのちを愛し、さいわいな日々を過ごそうと願う人は、舌を制して悪を言わず、くちびるを閉じて偽りを語らず、11悪を避けて善を行い、平和を求めて、これを追え。12主の目は義人たちに注がれ、主の耳は彼らの祈にかたむく。しかし主の御顔は、悪を行う者に対して向かう」。ペテロの第一の手紙 3章 8節から12節
「9悪をもって悪に報いず、悪口をもって悪口に報いず、かえって、祝福をもって報いなさい。あなたがたが召されたのは、祝福を受け継ぐためなのである。」
ペテロの手紙第一、3章9節の御言でございます。今朝も、使徒ペテロを通して語られた御言に聞いてまいりたいと思います。
クリスチャンは、イエス・キリストを唯一の、まことの救い主と信じる信仰を与えられています。それによって罪と滅びから開放され、御国での永遠の命を約束された、神様の特別な恩恵を頂いている者です。私たちが「主・イエス・キリスト」と呼ぶことは、「まことの神、まことの人、まことの救い主イエス様」という信仰の告白です。そのように、聖霊によって、心の目を開いていただいたのです。主イエス・キリストと呼ぶたび、心に思うたびに、それは、聖霊が共にいて下さっている証拠であることを覚え、感謝したいと思います。
私たちはこのように、特別な恩恵の下、この世に生かされています。しかし、この世の多くの人々は、まだその特別な恩恵の下には置かれていません。この地上の世界は、神様の一般恩恵によって、滅びないように保たれています。主なる神が、かつてノアに大して「もう滅ぼさない」とお約束された通り、必要を与え、罪を抑制し、滅び切らないように支え保っていて下さいます。一般恩恵の下で、救われたクリスチャンもそうでない人にも、同じく日は上り、雨が降り、世の恵みと賜物が備えられています。一見区別なく、喜びがあり、恵みがあり、また試練や、災害が訪れます。同じ物理法則をもった世界に生かされています。
神さまの一般恩とは、全ての人に等しく与えられ、保たれている恩恵になります。ただ、「一般」と「特別」を並べて見ると、一般が大きくて、特別恩恵は特別だからはごく一部。全体中の一部分のような印象を受けてしまいがちです。選び、という概念の影響もあると思います。しかし、実態は逆です。三位一体の主なる神様の特別な恩恵。人を永遠の命へと導いて下さる、救いの特別な恩恵こそが、この世の一般恩恵を包み込んで存在する、神様の愛の大きさ、深さを表しています。全能の主なる神様は、一般恩恵によって保たれている世界の物理的な法則を超えて、あるいはそれを自由に用いて、超自然的に働かれ、御自身の民を救いへと招き入れて下さいます。それは、天地の全ての権威を授けられたイエス様が、今、おられる天の神の右の座より、送って下さる聖霊によってなされる御業です。
神さまがご自身の民を、みもとに立ち帰らせ、キリストによって神の子として永遠の救いに入れるために。その特別な恩恵を与えるため、すべての一般恩恵が備えられ、用いられているということになります。すなわち「万事を益とするため」、と言われるように、特別恩恵こそが、世界を摂理される根拠であり、規準であるということです。
私たちクリスチャンは、この特別な恩恵にあずかっている身ですが、今なお、一般恩恵のみに生きる世界に置かれ、生かされています。それは、まだ信仰が無い人々と同じ環境、同じような境遇にあっても。またより困難な目に遭っているように見えても、同じではない、ということです。全てが私たちを愛してやまない神様の御手の内にあること。私たちを愛する愛をもって支配され、配剤されている、という世界の真実を知らされているのであります。ペテロが手紙で伝えようとしていることは、この点にあります。救われた、イエス様を信じるものが、この世に生かされる目的と、その知恵を教えているわけです。
さて、本日のお読みいたしました、3章8節からの御言葉です。まず8節をもう一度お読みいたします
「8最後に言う。あなたがたは皆、心をひとつにし、同情し合い、兄弟愛をもち、あわれみ深くあり、謙虚でありなさい。」
ここで、「最後に言う」と始めています。これは2章の11節から進めてきた、この世の、今の社会。神を知らない多くの人々の中で生きていくための、心構えや振る舞いについて教えてきたこと。その最後のまとめであると、いうことを宣言しているわけです。
実際、原文のギリシャ語を見てみると、非常に特殊な表現をしています。日本語だと、最後に言う、に続いた一つの文章になっていますが、どちらかと言うと箇条書きのように語っています。そのまま訳すと「そして最後は、」ではじまり「それは」と続きます。その後、形容詞が6つ並んでいる形です。ペテロはこの手紙で、形容詞や分詞の主格を使って「何々のようにありなさい」「○○する者でありなさい」という感じで、命令と言うか指導する手法をよく使っていますが、8節はその典型だと思います。
先程、形容詞が6つと言いました。その一つ目は「全ての者は」です。つまり「みんなこのようにありなさい」と語り、続いて五つのあるべき姿を並べていきます。「みんなこのようにありなさい」。①「一つ心の者でありなさい」②「同情する者でありなさい」③「兄弟愛の者でありなさい」④「心の優しい者でありなさい」⑤「謙虚な者でありなさい」。
このような文章になっています。①とか②というのは書いていませんが、5つの形容詞が並んでいるのを分かり易くするために言いました。本当に最後にまとめます。この五つは守ってください。と言う感じです。講義とか授業の最後に、とにかくこの5点は絶対覚えて下さい。テストに絶対出しますからね、いいですか。みたいな書き方をしています。この8節は、この世における同じ信仰を持つ信徒の交わりの、大切な原則。教えを5つにまとめているわけです。
まず一つ目「心を一つに」。エペソ4章では「聖霊による一致を守り続けるように」と教えられていました。主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つ。一つの御霊によって、一つの頭であるイエス・キリストに繋がる一つの体であるから、キリストにあって心も一つに、ということです。信徒の集まりある教会であっても、この世においては、なかなかなし得ない、高い目標ですが、それでも常に理想として仰ぎ見たい姿です。
そして二つ目「同情し合い」。互いに思いやり深く、と言う意味です。同じ弱さを持つ者として、また主が愛しておられる相手として。
三つめは「兄弟愛を持ち」。一人一人のキリスト者はこの世の境遇は違いますが、御子キリストによって同じく神の子とされています。イエス様を長子とする、兄弟姉妹であること。共に主にある兄弟、天の共同相続人。この世の相続人は争うこともありますが、御国の相続人は、争うことがありません。それほどに御国の資産は多く、神の愛は独占しようもなく大きい。のです。
四つ目が「憐み深くあり」。心優しくあれ、と言うことですが「柔和に」とも訳されます。争いを好まない「柔和」は、多くの聖句でキリスト者に教えられる徳の一つです。そこには行為だけではなく、感情や情緒への配慮といった意味も含んでいます。私などは、特に気が利かないとか、人の気持ちがわかってない、配慮が足りないとよく